実体がないという意味ではなく、その存在というか見た目というか外面というか――まあ、そう言ったものは仮初めでしかない。慣用句的に言うなら、『猫を被っている』とも言える。
眉目秀麗、明朗解析が服を着て歩く彼女のイメージというものはそれは鮮烈で、学生としては眩しい存在だ。そんな少女に懸想する男子学生は、凛の存在そのものを自分の都合のいいように書き換えてしまう。
例えば、朝。凛に起こされることを想像したり。
例えば、昼。一緒にお弁当をつつきあったり。
例えば、夜。風呂上りの凛を隣にしながら談話したり。
まあ、これらはまだ健全な部類であり、これ以上の行為を想像する者がいるのは当然の如くいるわけである。十代の普通に育った男ならばこういうことを想像してしまうのは致し方ない。それが思春期というものであり、若気の至りというものなのだ。
しかし、彼らの想像が悉く外れていることを士郎は知ってしまった。
例えば、朝。凛はこの世の終わりとも呼べるほどのだるい表情のまま冷蔵庫の牛乳を一気飲みする。
例えば、昼。凛が仲良く弁当を食べるわけがない。おかず(えもの)を掻っ攫うのだ、彼女は。
そして例えば、夜。風呂上りの凛はやや色っぽいとも思えるが、それよりも熱いからと言って、だらっと居間に寝転がっているのだ。
もはや妄想を抱くことさえできなかった。士郎のささやかな憧れは木っ端微塵に砕けた。
しかし、一般男子生徒は違う。まだ凛の実態を見たわけではない。
彼らの妄想に罪はない。罪があるとすればそう言う事を思わせやすい遠坂凛だ。だが彼女には責任の一端しかない。全面的に彼女に罪があるわけではない。
ただ、確実に言えるのは誰が悪いわけではないのだ。
男子生徒が思う遠坂凛は偶像だ。偶像ゆえに憧れる。
だから、せめて士郎は思うのだ。
――今の遠坂を見せちゃいけない。
と。
今一度、士郎は凛に視線を向ける。
「………………………………………………………………………………」
完全に放心状態だった。
こう言ってはなんだが、それ以外に表現のしようがないので仕方ないのではっきり言うが、今の凛の顔は間抜けだった。
いつものきりりと締まったその名の通りの凛とした雰囲気など微塵もなく、ただただ口をだらしなく開けて呆けているだけだった。一応朝食は食べていたし、こうして歩いてもいるので、今のところ問題はない。だが、この先は問題だらけである。
この状態のままで学園に行ってしまったら、遠坂凛のイメージは脆くも崩れ去るだろう。それはそれで興味深い現象なのだが、本人の名誉は激しく傷つくのは目に見えていた。
なので、これも友達の誼として、放心の凛を起こすことにする。
まずは呼びかける。
「遠坂ー。とーさかー」
「………………………………………………………………………………」
全くの無反応。
名前を呼ばれた程度では回復できないらしい。
次、肩をゆする。
「遠坂ー、目を覚ませー。他の奴らに見られるとやばいぞー」
「………………………………………………………………………………」
おっかなびっくりで女の子の肩を掴んでゆさゆさと揺らす。
肩の細さに内心びっくりしながらもだんだん慣れてくるとやや強めで揺らす。
「遠坂―。起きろー。目を覚ませ―」
大きく言えないので言葉に力は入っていないが、凛は激しく揺すられまくっていた。
あまり効果が見られないのでやや大きめに名前を呼んでみる。
「遠坂!」
「…………………………………………………………………………はっ」
ようやく我を取り戻した凛に士郎は安堵した。ふぅ、やれやれ。
「ようやく目が覚めたか」
「私、今まで一体何を……」
「なんでか知らないけど、朝飯の時から放心してたぞ。一体どうしたってんだ?」
士郎のその一言で凛は思い出した。
朝食の場にやってきた藤村大河に凛とセイバーは自分の処遇を説明したのだ。
その時、セイバーはなんと言った?
「ねぇ、士郎」
「なんだ?」
「朝食のとき、セイバーってどんなこと言ってたっけ……」
何でそんなことを突然訊き出すのかよく解らないが、士郎はついさっきあった朝の食卓の風景を思い起こしてみる。
確か、セイバーが言っていたのは……、
「えーと、親父の知り合い?」
「その前よ」
「えーと、アルトリア・ベンドラゴンだったっけ……?」
『はい、間違ってません』
と霊体のセイバーは肯定した。
「あってるってさ」
「……セイバー、それって、偽名よね?」
一縷の望みをかけて凛はそう訊いた。冗談の類いにしては強烈なものなのだ。
ユーモアのセンスがないわけではないだろうけども、セイバーの性格を見ると冗談を言っているように思えないのもまた事実。
否定して欲しそうな口調で凛は言うが、セイバーは確固たる事実として言った。
『私の本名です』
「あ、そうなのか」
「どうなのよ、士郎!」
「本名だって」
「…………………………………………私の聖杯戦争は終わった」
「えぇっ!? お、おい、遠坂? 遠坂ー!?」
放心状態から一時持ち直したものの、今度はかなり沈み込んでしまった凛に士郎は懸命に呼びかけるが、今度こそ彼の声は届かなかった。
だが、ちらほらと生徒の姿が見えると一瞬にして猫を被ったのはさすがだと思う士郎。
霊体状態のアーチャーの背中が少し煤けていたのは、幸いにして誰にも見えていなかった。
『秘められた力』
From "Fate/stay night" (C) 2004 TYPE-MOON
Presented by HIRO [TRASH BOX]
やや曇り空の天蓋をどことも知れず眺めながら、士郎は凛と共に屋上にいた。
時間は昼休みで、昨日と同じくセイバーの弁当を持って来て食べた。食事を摂ったあとの少し眠くなってくる時間だ。
そんな時間に学園のアイドルとこうして逢い引きじみた行為をしているのは、どこか現実感を失いそうだが、それでもこれは現実なのだとしっかりと受け止める。でなければ、凛からガンドの一撃が飛ぶ。
「今後の方針としてはそんなもんよ。とにかく街中を歩き回ってマスターを誘い出す」
「こっちから仕掛けるのか?」
「そうじゃないわ。あくまでも私達からは騒ぎを起こさない。戦うことになったらそりゃ騒ぎが大きくなるけど、私達から何らかの行動は起こさないつもりよ。敵を炙り出すわけじゃないんだし」
「……うん、解った。それが一番よさそうだ」
一つ、凛は言わなかったことがある。
この作戦を取った――取らざるを得なかった理由だ。それは目の前にいる少年――衛宮士郎の戦力のことだ。
強化しかできないと言うこの魔術師見習いは本当に使い物にならない。そもそも物質を強化したところで、英霊に効き目が出るはずもないのだし、第一攻撃を当てられるかと言う時点で疑問が生じる。
結局、今の士郎の価値と言えば、セイバーのマスターということだけだ。彼女を連れるには士郎を連れまわさなければならないということで、こんな作戦しか立てられなかったのだ。
「じゃ、今夜から実行しましょう。それまでは鍛錬してなさい」
「解った。それとごめん」
「……なんで謝るのよ?」
突然謝罪を言ってきた士郎に凛は面食らった。
一体なんだというのだろうか。
「俺が不甲斐ないから消極的な作戦しか思いつかなかったんだろ? 本当なら、遠坂だけならもっと上手くやれるんだと思うからさ」
だからごめんと。役に立たなくてすまないと士郎は謝った。
まさか、そこまで解っていたとは思っていなかった凛は慌てながらもフォローした。
「い、いいってば! あんたと手を組むことを決めたのは私なんだし、そんなことは百も承知よ。今更負担だとか思ってないから」
言葉そのままに負担だと言っている凛。だが、それに気付かないほど慌てている姿を見て、士郎は柔らかく笑った。
「解ってるよ。だから、少しでも早く強くなるように努力する」
よっこらせと士郎は立ち上がった。
「一成に頼まれ事があるからそろそろ行くよ」
「え、ええ。解った」
「じゃ、また今夜」
そう言って士郎は屋上の階段の扉に消えていった。それを見届けて、凛は大きく息を吐く。
胸の溜飲が下がる思いだった。
「……士郎が強くなるころにはこの戦争、終わってそうなのよね」
士郎には壊滅的に魔術の才能がない。
一般人に極稀にある突然変異で魔術回路を持っていることはあるが、それでもやはり魔術回路を持っているだけでは話にならない。回路を開き、真理を求め、研究してこそ魔術師だ。
士郎は最初の一つ目しかできていない。そして、これからもそれしかできないだろう。
真理を求めるには士郎は無欲だし、研究にしても研究する魔術を持っていないのだ。
「頼みの綱はセイバーかぁ」
『マスター、私の存在を忘れているだろ』
「あ、いたの?」
『当たり前だ。朝から四六時中張り付いている。よもや忘れていたとは言うまいな?』
朝の一件で微妙にすねているアーチャーの口調は少しとげとげしかったが、凛は別段何も気にしなかった。
「それはないわよ。珍しいじゃない、あんたから話し掛けてくるなんて。サーヴァントでも見つけた?」
『サーヴァントもマスターも見つけていないさ。それよりも、本当にあの小僧を連れまわす気か?』
「……そうなるわね」
こちらの戦力の要はセイバーだ。アーチャーも手練れであるが、宝具を使わずに勝てるとすれば最優のセイバーが一番信頼できる。おそらく、キャスターの魔術でも弾けるほどの対魔力を持っているはずだ。
『あれは戦闘が始まってしまえば自分勝手に動き出すぞ。自分が望むような結末を夢見て』
士郎の無謀な行動はバーサーカー戦で知っている。
身を呈して守るという行為は高尚のようだが、単なる自己犠牲に成り立つ自己満足だ。
それでも彼は自分の身を盾にして、凛を守ろうとした。
「……いいのよ。衛宮くんにはいろいろ経験してさっさと強くなってもらわないと、こっちも困るし。今死なれたらセイバーが現界できなくなるでしょ? 必要条件なの」
凛は立ち上がるとスカートについたほこりを払って、空を仰いだ。
薄暗い雲が流れる空は、彼女の心を表しているようで、気分が沈む。
『存外に落ち込んでいるな。間桐桜が来ていないことが気にかかるのか?』
「…………そうよ」
凛は認めた。
「学園に来てないっていうのは私に会いたくないのかしら。それとも本当に風邪?」
毎朝衛宮邸を訪問していた桜は今朝は姿を現さなかった。そして、学園にも来ていない。藤村に訊いた話では風邪で休んでいるらしいが。
「……慎二がマスターだった」
間桐――マキリの家系は没落している。魔術師の資格ともいうべき魔術回路がなくなってしまったマキリではサーヴァントを召喚するほどの魔力など残っていない。
だから、慎二がライダーを使役していた事実から考えられるのは、桜が真のマスターということだ。
間桐桜は遠坂凛の『妹』。同じ血を引く姉妹だった。
マキリの家系でいよいよ魔術回路がなくなったとき、遠坂の家から一人娘を送った。外来の血を入れ、もう一度魔術師の家系として盛り返そうとしたのだ。
だから、間桐慎二が魔術師であるはずがない。魔術師であるのは間桐桜だ。
『戦えるのか? 実の妹なのだろう?』
「肉親でも、敵ならば戦うわ」
魔術師とはそう言う物なのだから。
手にしているのは一冊の本。持つのに手頃な厚さと質量のそれは、間桐慎二の切り札だった。
令呪は後二回。この二回をどう使うかで自分の価値が決まる。自分には戦える力がない。だから、これがなくなったときが自分の敗北だ。
それを思うと、今すぐに何もかもを壊したくなるくらいに怒りが湧く。何故自分には才能も力もなかったのか。一般人だと思ってた衛宮士郎は自分が渇望していた魔術師だった。身近にいた人間が自分の目指すものだったということが、慎二の自尊心を傷つける。
成りたいのに成れないというこの絶望が誰に理解できるというのか。
この苦しみが衛宮士郎に解ると言うのか。
「僕は、魔術師だ。魔術師になるんだ」
欲しいものは手に入れている? 馬鹿な言葉だ。一番欲しいものが、一番望むものになれないのに満足しているわけがないだろう!
慎二の望み。聖杯に願うのは力。魔術師としての力が欲しい。
桜の負担が、自分への期待になれるように、その資格が欲しい。
事故とは言え、彼女を殴ってしまった右手を見て、ぎゅっと握る。
桜は御爺様のために呼ばれた人間。でも、それは知っていたけど、彼女は自分の妹だ。妹になったのだ。だから、桜は自分のもので、勝手に泣かれたりとかされたら困るんだ。
――僕には他人を慰めることなんてできやしない。でも、力を手に入れればそれもできるかもしれない。
全ては自分に戦う力がないからだと、慎二は思い込む。力があれば、もっと思い通りにできるはずなんだ。
「さあ、行くぞ」
そして慎二は、本を掲げる。
世界が紅く染まった。
『シロウ!』
「ああ、屋上に行く!!」
五時間目の授業中に世界は突然閉ざされた。視界は紅く染まり血の色を想起させる。地獄の風景と言われれば納得してしまうような、嫌悪感を抱くほどの世界。
通常ではありえない現象だ。魔術師としての士郎は階上から発せられる嫌な空気とも言い換えられる魔力の余波を感じた。
クラスメイトと教師は結界の効果に抗えず全員昏倒してしまった。解放するにも士郎にそんな技術はないし、処方も解らない。出来ることと言えば、この結界を発動した魔術師を倒すことだけだ。
だから、士郎は廊下を駆ける。
「くそっ。結界が発動したってことかよ!」
『この結界はライダーのものです。ライダーの真のマスターが動き出したということでしょう』
昨日戦った慎二は仮初めのマスターだった。どう言う事情だったのか知らないが、マスター権限を譲渡したそのマスターが自ら動き出すということは、あのライダーの能力は前回よりも伸びているはずだ。偽りの主従関係から解放されれば、前よりも手強くなっていることは容易に想像できる。
ライダー――メドゥーサの宝具は危険だ。自分が持っている宝具とほぼ対等な威力を有している。できれば、全面対決になる前にどうにかしたい。
階段を上りきった。バコンとドアを足で開けて屋上に踊り出る。そこには、禍々しく光る魔法陣と赤い騎士と黒の騎乗兵が戦っていた。
魔法陣の上に凛の姿を見つける。そしてその正面には昨日戦った間桐慎二がいた。
疑問が生じる。てっきり真のマスターが出てくるかと思えば、昨日と同じマスター。主従権を譲渡して自分の正体を隠していたわけではないのだろうか。
その疑問は置いておく。今は倒さなければならない敵がいる。
「セイバー、援護を!」
「了解しました!」
素早く実体化したセイバーはアーチャーの援護へと向かう。
セイバーの接近を感知してライダーはアーチャーの双剣を弾き大きく飛び退いて、給水塔の上に乗った。
「遅れました」
「別段君を待っていた訳ではないのだがな」
「では独り言だと思ってください」
セイバーは剣――風王結界を構える。剣を覆う風が屋上に渦巻き始めた。
「セイバー、宝具を使うのか?」
「いえ、魔力量はできるだけ温存したい。できれば、宝具を使わないまま勝ちたいですね」
「やれやれ。だから半人前のマスターでは苦労するだけだと言っただろう」
「私は好きで士郎のサーヴァントをしているのです。この程度の苦労はすでに納得済みです」
そしてセイバーは視線を上げる。
昨日戦った敵がそこにいる。再び戦うだろうと思っていたが、これほど早くとはさすがに予想できなかった。その油断がこの侵食結界を発動させてしまい、関係のない人々を巻き込んでしまった。
例えマスターの指示であろうとも、この諸行を許しはしない!
「行くぞライダー。昨日の決着をつける」
「…………」
ライダーは無言で杭を構えた。じりじりと間合いを詰めてくるライダーに、セイバーは猛然と駆けた。
加速と重量を目一杯に使った振り下ろし。力で斬りつぶすその攻撃を、ライダーは軽快なステップで回避する。それを追って、セイバーは攻撃の反動を無理やりに殺して横薙ぎに剣を振った。
さすがにそれを避けることはできなかったのか、杭で剣撃を受け止めた。
そのまま拮抗状態に陥りかけるが、アーチャーの弓が放たれ、ライダーはセイバーの剣を弾いて飛び退いた。
「……くっ。前よりも強い」
予想していた通りになった。結界の効力の所為か力の入り加減が違う。さっきの拮抗状態では、若干力負けしていた。
だが、予想以上というわけではない。それよりも、予想以下だ。もう少し手強くなると踏んでいたのだが、どう言うことだろうか。
ライダーが動き始める。その機動力を生かして、セイバーとアーチャーの周りを飛び回る。屋上という狭く不安定な場所ですら、英霊には関係ないということか。
右上からの刺突。
予感が脳裏を走り、それに従ってセイバーが攻撃を弾き飛ばす。攻撃を防がれたことも気にせず、再び飛び回り始めたライダーにセイバーは気を引き締めた。
「それでも、気は抜けないということか」
「来るぞ、セイバー!」
「はい!」
赤と蒼が紫と交わった。
「慎二! お前!!」
屋上の魔法陣が肉眼でも確認できるほど強く光っていた。その中央に立つ友人の姿を見たとき、すぐさま殴りかかろうと思った。だが、頭の中で何かが違うと響いた。いつもの、そして昨日戦った慎二の雰囲気ではないと。その違和感が士郎の足を止めさせた。
「やあ、来たかい衛宮」
待っていたよと嘯く慎二に、士郎は自分の違和感の原因は何かと考え始めた。
傍にいた凛が怒りも顕わに慎二に言った。
「間桐くん。あなた何をやったのか、理解してる? 学校の皆を巻き込んで、何考えてんよの!」
「何をだって? そんなの決まってるだろ。この戦争に勝つことさ。忌々しいことに、僕には魔術回路がない。僕の世代になって遂に魔術回路はなくなったんだ。魔術師を目指してきたっていうのに、絶対になれないって宣告されたんだよ。こんなに頭に来る話があるのか? 僕はね、力が欲しいんだよ。こんななにもできない自分なんて嫌いなんだよ!!」
魔術師の家系に生まれたのに、役立たずの烙印を押された慎二は、何かにつけて劣等感を抱いてきた。祖父からは見放され、『遠坂』から連れられてきた桜が魔術を仕込まれていくのを見て、自分の存在意義がぐらついた。
もし、もしも自分に魔術回路があれば、祖父にも見放されず、桜が連れてこられることもなかったはずだ。体を改造されて外見が変わっていく彼女が怖くて辛辣に当たった時期もあった。
けれど、この戦争で自分は変われる。力を手に入れさえすれば、きっと変わる。そんな確信があった。
「何も出来ないんだ、力がなくっちゃ。こっちはなりふり構ってられないんだよ。なんとしてでも勝つ。勝って力を手に入れるんだ!」
ともすれば、我侭な言い分だった。周囲への影響も被害も何も考えず、自らが望んだ結果だけを求める子供の我侭だった。しかし、その考えは魔術師のそれに近い。
間桐慎二が望んだ魔術師の考えに。
「――僕はお前たちを倒す。倒して、魔術師になるんだよ!!」
「勝手なこと言ってんじゃない! その為に関係のない人達まで巻き込むのか! そこまでして、お前は力が欲しいってのかよ!!」
「ああ欲しいさ。魔術回路のあるお前らに僕の苦しみが解る訳がない。無いものを渇望する絶望を、お前は知りはしない!!」
慟哭だった。
間桐慎二が今まで抱えていた鬱屈した感情の発露。
『用無し』の烙印を押され、連れてこられた妹は魔術師の才能が飛び抜けていた。
無いものと有るものとの差が決定的に見せ付けられてきたのだ。
完全に運任せになる魔術回路の保有数。生まれた時にそれを持っていなかった慎二はどれだけの努力をしても魔術を編むことは出来ない。その憂さを晴らすように魔術書を読み漁りはしたが、結局自分に何の力がつくでもなく、情けなさが浮き彫りになるだけだった。
「その絶望が希望に掻き消えようとしてる! このくだらない戦争に勝てば、僕は成りたいものに、成れるんだよ! それを手に入れるために邪魔するお前らは、目障りなんだ!!」
最早、慎二に退くという選択肢は存在しない。突き進まなければ何も手に入れられないことを知っているからだ。それを強く望んでいるからこそ、その障害になるものにも、周りにも容赦をしない。
「――ふん。欲しいもののために戦う、ね。方向性は少し違うけど、魔術師らしい考えね」
「……俺は、こんなのは認めないぞ。こんな、自分勝手なこと、して良いはずがない!」
凛の言葉を士郎は拒否した。
魔術師だからとか、欲しいものを手に入れるためだけに人を傷つけるのは間違ってる。絶対に間違ってる。
「慎二の考え自体はどこにでもあるものよ。ただ――私はこの状況に頭来てるけどね」
凛の左腕が光り始めた。服の下から幾何学模様の光の線が浮かび上がってくる。魔術師が何代もの時間をかけて『根元』を目指すために子孫へと刻まれていく呪い。
魔術刻印と称される蓄積された魔術の知識だった。
「あんたのそのやり方、私は気に入らないのよ!」
凛の指先から光が撃たれた。呪いの一撃は赤い世界を貫く閃光になって、慎二に襲い掛かった。
「ライダー!」
アーチャーの双剣を凌いでいたライダーは慎二の呼びかけに反応し、尋常ではない腕力でアーチャーを体ごと弾き飛ばし、即座に慎二を襲おうとしているガンドを弾き消した。
「なっ」
その動きはサーヴァントとしても異常なものだ。全体の筋力を魔力で強化しているからこそ出来る芸当だ。
「やれ、ライダー!」
無言で頷いた紫の騎士が凛と士郎に襲い掛かった!
視界の中でライダーの姿が霞むように消える。それを意識する前に士郎は凛を突き飛ばした。
「わ!」
「……は、速い」
突き飛ばされた凛は床を転がる。士郎は突き飛ばした右腕から流れる血――凛を突き飛ばしたことで引っ込めるのが一番遅かった――を抑えながら、自分達を襲った騎乗兵を見た。
眼帯越しに睨みつけられる。それを肌で感じた士郎は、次にライダーの姿が霞んだとき、大きく吹き飛ばされた。
「――がはっ!?」
何が起こったのか、数秒判らなかった。
気が付けば、自分の体が屋上の端にあった。加えて、腹の感触が全くしない。あまりの膂力に腹が吹き飛ばされたとも思ったが、触って感触があったことに安堵する。
フェンスにぶつかったのか、大きく変形しているそれを見上げながら、士郎はボーっとしてしまう。
「士郎!? このっ!」
仕返しとばかりに凛がガンドを放つが、その機動力の前に全く掠らない。軽々しくステップを踏んで、凛の目の前に踊り出た。
「――リン!」
あわや串刺しかと言うところで、セイバーの防御が間に合った。杭をいなして、返す刃で切りかかるがこれも避けられた。
「ありがと、セイバー」
「いえ。ですが不可解です。先ほどよりも強くなっています」
アーチャーを吹き飛ばした筋力と先ほどの慎二への攻撃を防いだ動き。どちらも先ほどまでのライダーの動きを上回っていた。
「多分、学校の皆から吸ってる魔力を使ってるんだわ。慎二からの魔力供給がないにしても、学校から吸い上げる量で事足りてるわけよ」
「……ならば早急に倒さなければなりませんね」
「そういうことよ。来るわ!」
「はぁっ!!」
ライダーの杭先が飛ぶ。セイバーはそれを打ち払い、ライダーに肉薄する。
体を駒のように回転させながらの斬撃。体重と遠心力をあわせた一撃に、しかしライダーはそれを受け止めた。なおかつ弾き飛ばし、剣を弾かれたことで体勢の崩れたセイバーに蹴りを放った!
空気を切り裂くほどの鋭い蹴足はセイバーの頭上を通り過ぎた。咄嗟にしゃがむ事で蹴りを回避し、攻撃の隙をついて剣を斬り上げようとして、何かの予感が過ぎった。その予感に従い、剣を振り上げたままその場から飛び去る。
半瞬遅れてその予感の正体が判った。ライダーの蹴りは一撃だけではなく二撃目まであったのだ。あのまま攻撃に移っていたら、確実にあの蹴りを喰らっていた。
退いたセイバーを追撃しようとライダーが走ろうとするが、その場から離脱した。横から放たれた矢に反応したのだ。お返しとばかりに、投げられた杭をアーチャーは避け、双剣を手に接近する。それに合わせて、セイバーも向かった。
「……くっ」
剛剣を体現するセイバーの剣と息つく暇を与えないアーチャーの剣技にライダーは苦悶を口にするが、それでも二人を相手に互角に渡り合っていた。
「なんで……」
昨日の戦闘ではライダーはここまで手強くはなかった。セイバーとほぼ互角で、サーヴァント二体を相手に戦えるほどの強さを持ってはいなかったはずだ。昨日は手を抜かれていたのだろうか。
魔術師とは言え、素人とほぼ変わらない衛宮士郎を殺すのにてこずっていた事を考えると、ライダーの強さの意味が士郎には全く判らなかった。
「――魔力よ。学校の人間から吸い上げた魔力を使って肉体能力を引き上げてるのよ」
士郎の疑問に答えたのは凛だった。士郎の傷の具合を横目で確認しつつ、注意を慎二に向ける。
「強引に一般人から魔力を吸い上げて、それを使ってるのよ。このまま使われ続けたら……」
「溶けて消える……」
昨日凛が説明していたことだ。それを聞いて士郎は痛む腹を抱えながら立ち上がる。
「はははははっ! 無様だね、衛宮。結局さ、力がなきゃ何も出来ないんだよ。お前らの力が足りないからこの状況だって変えられない。やっぱり、強い力はなくてはならないんだよ!」
哄笑を上げる慎二に凛の瞳が細くなった。
「力を求めるのもまた魔術師だけど。これは虐殺に近いわ。意味もなく人を巻き込んで糧にするなんて」
「何言ってんだよ、遠坂。魔術師は“ないなら他から持ってくる”んだろ? 僕はそれをしてるだけさ。何か間違ってるかい?」
「方法が下衆だって言ってるのよ。裏返せば、形振り構わないで戦わないと勝てないんでしょ? 情けない話よね」
「……ふん。負け犬の遠吠えにしか聞こえないね。最後に勝てばいいのさ。それが絶対の“正義”だ」
がしゃんと何かが鳴った。
慎二と凛が振り向くと、腹部を抑えながらフェンスを殴りつけている士郎の姿があった。
「何だよ、死んでなかったの? 案外タフなんだね、衛宮」
「…………うな」
「あ? 何か言った?」
末尾だけ聞こえた言葉に慎二が問いただす。
今度ははっきりと言う。
「軽々しく、言うな」
「なにを?」
「“正義”なんて言葉、軽々しく言うんじゃない」
「…………っ、な、なんだよ。何か文句でもあるのかい?」
ぼろぼろのはずなのに、眼光だけで慎二が怯んだ。今まで見たこともないほど怒りに満ちた目を向けられて、無意識に足が一歩下がった。
「“正義”って言葉は、重いんだ。自分の都合だけを押し付ける“正義”なんて、まして人を傷つけて言い“正義”なんてありはしないっ」
フェンスに手をかけながら、士郎が一歩ずつゆっくりと歩いてくる。近づいてくる級友の凄みに、慎二は良く解らない気迫を感じて足が竦みそうだった。
「これがお前の“正義”なら、俺はそれを砕かなきゃいけないっ」
――同調、開始。
壊れたフェンスの枠組みを拾い上げて呪文を呟く。稼動する三本の魔術回路から生成された魔力に指向性が持たされ、流し込まれていく。
『存在を強化』された鉄の棒を手に、士郎は駆け出した。
「ちぃ、まだ動けるのかよ。しぶといな!」
向かってくる士郎に対し、慎二は軽く本を掲げ従者に命令する。これだけで、衛宮士郎は簡単に殺せる。その行為に沸いてくる恐ろしさを興奮で忘れながら、慎二は言葉を発した。
「ライダー! 衛宮を殺せ!!」
マスターの命令に従い、慎二に襲いかかろうとする魔術師を追い払うべくライダーが動いた。即座にセイバーも反応するが、機動力の違いから追いつけない。抑えきれなかった自分を内心罵倒しながら、追いつけないと解りつつも足を進めた。
「こ、のっ!」
自棄気味に士郎が鉄棒を振る。当然の如く、そんな攻撃が英霊に当たるはずもなく綺麗に躱され、振りかぶった拳を叩き込まれた。
「ぐ、あっ!」
体に相当無理を言わせて、ライダーの拳を棒で受け止める。しかし、力が段違いなのはさっきの攻撃で解りきっていたことだ。士郎の体が再び宙を待った。
今度はフェンスに叩きつけられることもなく屋上を転がっていく。それを追ってライダーが床を蹴る。風の如く疾走する騎乗兵の後を懸命に剣霊が追うが、間に合わない。
セイバーの脳裏に一昨日の光景が蘇る。バーサーカー戦での死の匂い。その匂いを払拭するにはもうこれしかなかった。
「シロウ!! 剣を」
ライダーの杭剣が迫る。蹲ったままの士郎が顔を上げた。
「剣を、鍛ちなさい!!」
その意味を理解できた士郎は、
「――投影、開始」
と、唱えた。
10の魔術回路が目覚める。体を巡る神経に魔力が走り、思考が鮮明になっていく。
その思考の中で見えたのは一振りの剣。アーチャーがバーサーカーを一度殺した螺旋剣の原型。それは、稲妻と名づけられた神々の剣だった。
――創造の理念を鑑定し
――基本となる骨子を想定し
――構成された物質を複製し
――製作に及ぶ技術を模倣し
――成長に至る経験に共感し
――蓄積された年月を再現し
――あらゆる工程を凌駕しつくし
――ここに、幻想を結び剣と成す
思い描く設計図に魔力を流す。描かれた線はこの世と結びつき実体を成す。世界すらを騙せるほどの精巧な贋作。その神秘の輝きすらも模倣した一振りの剣が、士郎の手に蘇った。
「嘘っ!?」
凛の驚愕に構わず、士郎は向かってくるライダーの姿を見た。瀕死の相手にも油断をせずフェイントを混ぜる英霊に、士郎の冷めた思考は確実に彼女を捕らえていた。
突き出される杭。ボロボロの体ではそれを受けることは出来ない。受けた瞬間に自分の体はばらばらになるだろう。なら、受けなければ問題はない。
ライダーの攻撃を避ける。起き上がりかけた体を横に転がすくらいのことは出来た。
「――!」
士郎の反応にライダーが追撃を繰り出す。しかし、それよりも速く士郎は手に持った剣を振っていた。
「硬き――」
その剣速、まさしく稲妻の如く。
「――雷の剣!!」
繰り出された雷剣がライダーの左腕を斬り飛ばし、腹部を深く斬りつけた。
「うっ、あぁっ!!」
攻撃の終わりと同時に士郎が悲鳴をあげる。模造品とは言え硬き雷の剣の真名を発揮した反動が士郎を襲ったのだ。硬き雷の剣は役目を終えたからか手の中で砕け散る。
「くっ! あああああぁぁぁぁ!!」
「何だっていうんだよ!? なんで衛宮なんかにやられてんだよ!!」
士郎の一太刀で多大な損傷を負ったライダーが呻く。士郎の意外な反撃に慎二はうろたえ、喚き散らす。その隙を逃さずセイバーが迫った。
「覚悟っ!」
「ちぃっ!」
片腕になりながらもセイバーの剣を受ける。しかしその腕に今までほどの力は入っていない。体の修復に魔力がまわっているために、動きを強化するだけの魔力がないのだ。
――行ける!
セイバーは確信する。このまま押し切れば勝ちだ。傷を負ったライダーの動きは脅威にはならない。今なら倒せる。
だが、押し切る前に慎二が令呪を使った。
「ライダー、全力を出せぇ!!」
「――っ!!」
「しまった!!」
令呪の絶対命令により、ライダーのなけなしの魔力が解放される。体の修復に回していた分と結界で吸い上げている全魔力を使っての宝具の使用。
左腕から零れる血を媒介に法陣を描く。そこから喚び出されるのは女神メドゥーサの仔。
「騎英の――」
辛うじて士郎の前に間に合ったセイバーが風王結界を解いた。風の鞘に隠された星の秘宝がその姿を現す。
「約束された――!」
開放される真名。光り輝く聖なる剣がその力を発揮する!
「――手綱!!」
「――勝利の剣!!」
二条の極光の衝撃が放たれた。
全てを薙ぎ払う破壊の力が空中で激突する。天を断つほどの聖剣が天空に伸び、天から落ちる神の光が飛来する。
「――くっ」
ライダーが苦悶を漏らす。傷ついたこの体ではこの聖剣を受けきる事は出来ない。しかし、一度宝具を放ってしまった以上突き進むしか選択肢がない。宝具の存在を知られるということは、すなわち自身の正体を表すことであり、弱点を露呈することなのだ。
「――くぁっ!」
だが、聖剣を撃つセイバーもまた苦しかった。元々魔力量に不安があり、士郎から供給される魔力なんてないに等しい。現界した瞬間から減り続ける魔力をどうにか節約してきたが、この一撃を放って自分の魔力が底をつき始めたことを感じる。
――もう少しだけ、もう少しだけもってくれ!
そう願いながら、剣を振り切った。
互いの砲撃が終わる。辺りを焼き付けた光の闇が消え、視界が戻る。その中に見えたのは、剣を支えに辛うじて立っているセイバーだった。
「セイバー!」
「……はぁ、……はぁ、だい、じょうぶです、シロウ」
傷こそないものの相当に消耗しているセイバーは士郎に心配させないように気遣った。それに宝具を撃ったとはいえ、戦闘に耐えうるだけの魔力もまだ残っている。
空から人が落ちてくる。衝撃波で崩れかけた屋上に落ちたのはライダーだった。全身が焼け爛れ、辛うじて生きている状態だ。気が付けば、視界の色も元に戻っている。結界を発動させるための力も残っていないのだろう。
「ライ、ダー……」
虫の息のサーヴァントに慎二が力なく呟いた。それがきっかけだったのか、ライダーの体が淡く光り出した。サーヴァントの体を構成する魔力が形を留められずマナに還っていく。
そして、騎乗兵のサーヴァントは消えた。同時に、慎二の手の本も消えた。契約する対象が消失したことで、役目を失ったのだ。
「……どうやら、勝ったみたいね」
ようやく敵を倒したというのに何も沸いてこなかった。死力を尽くしたといえば尽くしたが、こんなに後味の悪い勝利は二度と味わいたくないと凛は心の内に呟いた。
「……慎二」
はっと凛が振り返る。そこには、膝をついて呆然とする慎二とそれを見下ろす士郎がいた。
「僕は、どうすればいい……? やっと巡ってきたチャンスがなくなっちゃって、これからどうすればいんだよ。また戻るのかよ。またあんな苦しいところに戻るのかよ……」
負けた。負けてしまった。これで望みは叶わない。唯一無二のその機会が消え去ってしまった。
「…………」
士郎は何も言わず、ただ慎二を見ていた。
「力が、力が必要なんだっ。何かを変えるためには強い力が! 僕はそれが欲しかっただけなのに……、それが、欲しかっただけなのに……」
――■のために。
守りたい力が欲しかったのに。人を守るための力が必要だったのに。それがなくなって、どうしたらいい? どうすればいい?
「……なんで、力が欲しいんだ」
士郎が訊く。
「変えるんだよ。全部を変えるんだ。守るために、全部を……」
助けてくれる人間なんていない。他人事を解決してくれるヒーローなんてこの世にはいなかった。 だから、自分がやろうとした。ヒーローなんてならなくてもいい。ただ、目の前でなく少女を助けたかった。
その為に、力を欲した。
「……慎二?」
何のことを言ってるのか凛には解らなかった。この男が何かを守るために戦うなんて、信じられなかった。
「……遠坂。暗示、かけてくれないかな」
「え? ちょっと、どう言うことよ」
突然の士郎の提案に凛は戸惑った。何故、そう言うことを言うのか。
「慎二は、この戦争のことを忘れた方が良い。魔術回路がない慎二が、この戦いのことを覚えていてもきっと苦しいだけだ。何かを得ようとして、手に出来なかったことを後悔し続けるのは、苦しいだけだよ」
その言葉に、セイバーの身が強張る。その苦しみは士郎がこの先味わい続ける苦痛だ。そして、今までも味わってきた痛みだ。
魔術という手段を手に入れて、『正義の味方』という理想を求めて、死してなお理想になり得なかった未来。
切継に引き取られ、家族というものを得かけたとき、それを失った過去。
士郎の生涯は、成りたかったもの、欲しかったものがすり抜けていくものだった。だから、士郎のその言葉の重みをセイバーは理解できた。そして、やはり思うことは、彼をその苦しみから救いたいという想いだった。
「……解った。このまま引きずっても良い事はないでしょうしね」
納得した凛は慎二に暗示をかけようとする。しかし、慎二はそれを拒んだ。
「まだ抵抗するわけ?」
「そうじゃない。そうじゃないよ。これだけやって負けたんだ。それは認める。認めるしかない」
結局、戦う力さえなかった自分が、人を救う力を手に入れようとしたことが間違っていたのか。けど、人を助けることは間違ってないと思う。その資格が自分に巡って来なかっただけなんだろう。
その資格は、多分目の前にいる二人にあるかもしれない。
だから、託す。
「――一つだけ頼みがあるんだ」
「なによ?」
「間桐――いや、マキリ臓現に会ったら、迷わず殺してくれ」
「――そう」
「それだけさ。会わなかったら会わなかったでいい。でももし、会ったのなら、躊躇わずに殺してくれ。それで、人が一人救われる」
「守りたいってのは、人ってわけ?」
慎二は苦笑のようなものを浮かべた。
「そうさ。――さあ、やってくれ」
そして、慎二の記憶は消えた。
戦闘の余波で破壊された屋上を後に、士郎達は校舎内の人間の症状を調べて回った。かなりの衰弱が見られたが、幸いにして皮膚が焼け爛れているなどの外傷は見当たらない。凛の言葉にあった溶解されるというのは、言葉通りではなかったようである。その事に安堵して、聖杯戦争の監督役の神父に連絡を入れ、帰る事にした。
家に辿り着いた途端、士郎は倒れてしまった。戦闘のダメージと無理に編み上げたあの剣の負担が吹き出たのだろう。
とりあえず、士郎を寝かせて、凛は今回のことについて考え始めた。
先日からの疑問。士郎の魔術が主に中心だ。
まずは、士郎の魔術自体について。強化と投影しか出来ないと本人が語っているように、そして凛の見立てでもそれは間違いない。だが、ライダーの腕を切り飛ばしたあの剣は、神剣だ。神秘が秘められた人が手にすることが出来ない高みにある存在だ。それを『造り出す』と言う事に怖気が走る。
神秘を体現するのは魔術師の一つの目標であるが、自ら生み出すとなれば話は別だ。
無から有を生み出すことさえ困難だというのに、士郎はあの場面で剣を『造り上げた』。魔力の流れは見えたが、あれはすでに魔術と呼べるものなのだろうか。
これがアーチャーの言っていたことに関係があるはずだ。
――衛宮士郎にできることは強化でも投影でもない。
その意味を理解するための重要なファクターだと思う。しかし、これだけではまだ何も解らない。事実としてあるのは、士郎は神秘を作り出すことが出来るということだ。
そして、これが最も不可解で恐らく一番重要なこと――セイバーの言動だ。
士郎の魔術を投影だと言ったり、士郎がこの戦いで戦っていけると確信している点。何よりも、士郎に『剣を鍛て』と叫んだのは他ならぬ彼女だ。セイバーは士郎のことについて深く知っている。それはサーヴァントとマスターの信頼関係から生じる連帯感ではなく、もっと根元の部分からして関わっているように思える。
「……でも、これだけじゃあねぇ」
判っていること自体が少ない。この謎を解くには材料が少なすぎるのだ。
今回のことで良い事と言えば一つだけ。マキリのサーヴァントを倒したことで、『妹』がこの戦いから離脱したこと。
魔術師ではない慎二がサーヴァントを使役できたのは彼女がいたからだ。そのサーヴァントも消えたとあれば、襲われる危険性は低くなったと言って良い。ひとまずは懸念していた事柄が消えて安心できた。
さて、自分がこれから出来ることは、
「士郎を鍛える」
と言う事だ。
「とりあえず、明日からみっちりやってやりましょうかね」
そう決めて、眠くなってきた目蓋に逆らわず、凛は眠りに就くのだった。