ライダーのマスターの判明と一応の勝利を収め、士郎は自身の未熟さを痛感し、一層鍛錬に力を入れた。――つもりだったのだが、両師匠の扱きは恐ろしいほどに厳しく、昨日と同じく気絶寸前まですり減らされた。気絶させられなかったのは、夕食を作れと言う事なのだろうか。
こう言う時に限って、桜は家を訪れないし、士郎としては援軍が欲しいところだった。
「そう言えば、今日は桜が来なかったな」
洗剤をつけたスポンジで食器を洗いながら、そんな事を呟く。
今日一日を振り返ってみれば、朝に顔も出さず、そして今も顔を出していない。
こう言った日は今までもあったのでさほど気にしていなかったのだが、如何せん今は聖杯戦争と言う裏の殺し合いが繰り広げられているのだ。いつ巻き込まれるか解ったものではない。
敵の魔術師側も世間一般に悟られるのをよしとしていないので、それ程派手な行動はとらないと凛に教えられてはいるが、衛宮士郎としては身内の心配はしすぎても構わなかった。例外は、野放しの虎であるが。
「基本行動は夜か。人目につかないように、ね」
しかし、今日は昼間から慎二と戦った。
慎二は自分の陣地があらされている事を察知して待ち構えていた様子だった。確かに、あの状況では昼間であろうとも衝突は避けられないだろう。言うなれば、今回の事は完全なイレギュラーと言うことだ。
「知り合いがマスターってのは、厄介な話だよな」
しかし、知り合いならばこそ、止めなければならないと士郎は固く思うのだ。
『あるべき方向性』
From "Fate/stay night" (C) 2004 TYPE-MOON
Presented by HIRO [TRASH BOX]
夜、セイバーは凛に呼び出された。
敵のサーヴァントを平気で呼び出すマスターもマスターであるが、セイバーに関しては無防備をさらしてもなにも起こらないと確信しているのだろう。無論、セイバー自身も凛に危害を加える気はさらさらない。
凛がいる部屋――確か前回も客間を使っていた――に向かう間、セイバーは呼び出された理由を考えていた。
一つは今後の作戦を練る事。
正直に言って、士郎に作戦立案能力があるとは思っていない。彼はどう考えても、白兵専門の武人だ。戦場でこそその真価を発揮するタイプで、机の上で言葉を交わすのには不向きな思考構造をしている。
もう一つは、自分の言動について。昨日(さくじつ)での鍛錬の言動やその前での言葉に感づいているのではないだろうかと言う事。
遠坂凛と言う少女は生粋の魔術師を自認している。その彼女が自分の今までの言動のおかしさに気付かないはずはない。ぼろを出す気はないが、時間は限られている。失敗を恐れて躊躇している暇はないのだ。だから、多少の言動の矛盾やら齟齬は無視してきたのだ。
「出来れば、建設的な話し合いにして欲しいものですね」
先をある程度知っている身としては、助言は幾らでも欲しい。その助言をくれる相手として、凛は現在で最高の人物である。だが、秘密を明かす時期は今ではない。
そして、部屋の前まで来た。
ノックを二回する。
「いいわよ」
その言葉に招かれるまま、セイバーはノブを捻った。
部屋中所狭しと置かれた何かの器具。
恐らく魔術師が実験やら検証やらに使うものなのだろう。確か、彼女は宝石魔術を基盤とする人間だ。物質を媒介にするので、宝石自身の改良なども行うわけなので器具も多いのだろうか。
セイバーは部屋を軽く見回しながらそんな事をちらりと考えた。
「すまないわね。本当なら魔力消費を抑えなきゃいけないのに」
「いえ、1、2時間程度なら支障はありません」
言って、勧められたクッションに座る。
今のセイバーは鎧を着けていない。余計な魔力の消費を抑えるためだ。前回は霊体になれなかったので、凛の服を借りていたが、今は借りる理由もない。少し惜しいかとも思ったが、どうせ自分はここにいる時間はそう長くないのだ。気にする必要はないだろうと判断した。
凛はかけていた眼鏡を机に置いて、セイバーと向かい合うように座った。
「さて、あなたを呼んだのはこれからの事を話そうと思ったからよ」
「そうですか。しかし、士郎には相談しないのですか?」
「酷い言い方だけど、衛宮くんに作戦が立てられるかどうか疑問なのよね。だって、直情系でしょ?」
それを言うのなら、セイバーもそうである。だが、それでも生きた年月と実戦で培ってきた経験がある。士郎よりも造詣が深い事は自負していた。
「人を助けるのを前提にしてるから、行動が一貫性でしょ? 勝つための理論って言うのが多分ないのね」
「彼の場合、自身を蔑ろにしてでも人を助ける事に動きますから」
だから、あの末路を辿った。いや、辿る事になる。
根元がそうなのだから、まさしくセイバーが自分に課しているのは性根を叩き直すと言う行為だ。果たして、聖杯戦争と言う短い期間だけで、彼を更正させる事が出来るのだろうか。
何度も湧き上がる不安にセイバーは、それでも屈しない。この身はすでに一心同体。自分が剣で彼が鞘。向かう先、目指す先も共に同じ。
間違いは正せばいい。ただそれだけの事。
「魔術師としての考え方じゃないわよね。あいつに魔術を教えた人間ってのは相当意地が悪いわ」
「…………」
考えに没頭した凛にセイバーは無言だった。
彼に魔術を教えた人間。衛宮切嗣は魔術師としての姿勢はあまり見受けられなかった。彼の行動は一貫して、敵を倒す事に向けられていた。
その手管は正直汚いと思わせるものばかりだったが、それを飲み込んでも生まれた利益は多大なものだった。
だからだろうか。
凛と切嗣は魔術師として隔絶している。
恐らく凛の姿は一般的な魔術師のそれなのだろう。それは端々の言動から予想できる。
対して切嗣は異端だったのかもしれない。それも本人が自覚している異端。
前回の時、士郎はセイバーに切嗣の話をいくつかした。士郎が話す切嗣の姿はセイバーが知っているものとは到底かけ離れた姿だった。最初は同姓同名の他人だと思ったが、切嗣などと言う名前は珍しい部類だ。逃避した思考を元に戻すには時間がかかったが、納得はしている。
士郎の話の通り、切嗣は魔術を教えたくはなかったのだろう。如何に危険な世界なのか、彼はその身でよく知っていたのだろうし、わざわざ首を突っ込むべき世界ではない事も知っていた。
その意味で、士郎を遠ざけるためにわざと間違えた魔術回路の使い方を教えた。
結局、士郎は危険な鍛錬を十年間続け大成する事を防止していたが、士郎の前に凛が現れた。正しい魔術回路の使い方と、それを制御する方法。
それを知った士郎にもう足枷はなくなる。彼が進みたい道に光明が差し、誰も止められず彼を見送る事になる。そして、その先は彼の望んだ結果であり、しかしその先にあった望みは果たされない。
話の結末としては最悪の話だった。
「まあ、ようやく見習い魔術師のレベルになった程度の使い手じゃ、作戦を練るなんて事よりも訓練を続けるほうを優先した方がいいでしょうね」
「……そうですね。シロウは小難しい事を考えるよりも実戦で生きる人間ですから」
「うん。じゃあ、今後の話をしましょうか」
凛の言葉にセイバーは頷いた。
話とは言え、聖杯戦争の基本的な行動は、一般人がいない場所・時間――つまり、人気のない場所か夜と言う時間帯になる。夜の街中ならばある程度の明るさがあるので戦闘を行え安いが、人気のない場所、山や森などで戦闘が開始された場合、魔術師には少し戦いづらいだろう。
その点を踏まえて、基本的に自分達は夜の街を徘徊する方針を取る事にした。未熟者を一人抱えている状態なので、消極的とも言える行動を取らざるを得ないからだ。
話の結論を出したとき、凛は深く溜息を吐いた。
「このままで勝てるのかしらね」
どうやら、決めた作戦の内容に不満があるようだった。
セイバーはそれに答えず、凛にある事を訊いた。
「凛。シロウの魔術の方はどうですか?」
「え? うーん。本人が言うように強化だけしかできないみたいだし、その強化も成功率悪いし。知識の方も全然だからなぁ。一人前には最低でも5年はかかるわね」
「そうではなく、戦闘に耐えられるだけにまで成長するのにはどのくらいかかりますか?」
「――え?」
セイバーの言葉に凛は耳を疑った。
士郎が戦う? 笑ってしまう。彼の実力――と言うよりも、戦闘者としての気構えは素人同然だし、魔術の方もからっきしなのだ。戦えるレベルまで持っていくには長い時間と訓練が必要だ。
だが、セイバーが言っているのは聖杯戦争中に士郎が戦えるようになるのはいつだと訊いている。なら、答えは決まっている。
「士郎は戦えないわよ。強化の魔術は物質の存在を文字通り強化する事。性質を強化する事で、鉄は硬く、火は強く。そういう具合に存在性質を強くするの。それしか使えないのに戦えるわけないわ」
「――では、魔術師として士郎はどうなのですか?」
奇妙な事を聞いてくると凛は思った。
セイバーの言動は明らかに士郎を戦力にしようとしている。士郎のどこに期待しているのかわからないが、凛の見立てでは彼は戦力外通告を出しているのだ。
疑問に思いつつも、凛は答えた。
「難しいわね。士郎に魔術師としての才能は全くと言っていいほど無いわ。素人の人間が魔力に目覚めた状態に近いのよね。いいえ、魔力があっても魔術を扱う才能がないだけのただの素人よ。士郎を使えるようにするには相当時間がかかるわ。しかも、使えるようになった頃には寿命って頃かもしれない。それくらい、士郎に才能はないの」
「――そうですか」
凛の言葉を聴き、セイバーは思考する。
彼に魔術師としての才能が皆無と言う事は、前回も凛が言っていた。しかし、同時に魔術使いとしては大成するのではないかとも言っていた。
魔術を習うことには不向きでも、使える魔術を使う事に関しては才能があると言うことだ。
では、どうしたらいいのだろうか。
彼は魔術師に憧れている。より正確に言えば、正義の味方の姿が魔術師だった。
彼は『正義の味方』になりたいのだ。
ならば、ならせてあげたい。
彼に正された人間として、彼を愛している人間として。
「話は終わりですか? なら、私はそろそろ休みたいと思います」
「あ、待って。まだ話があるわ」
「何ですか?」
「昨日の話」
「――――」
やはりと思った。
――この機会を見逃してはくれないか。
内心、苦笑を浮かべながら、セイバーはクッションに座りなおした。
「昨日の鍛錬のとき、妙な事を口走ってなかった?」
「妙な事とは?」
「士郎と鍛錬を始める時、魔力回路は開けるとか、それだけに特化したとかなんとか」
記憶を引っ張り出しながら喋る凛に、セイバーは無言。
「アーチャーの奴もなんか士郎の事、知ってるみたいなのよね。ライダーの結界にトラップがあったでしょ? 私は士郎が引っかかるんじゃないかと思ったんだけど、アーチャーは否定してきた」
これはおかしいと凛は続ける。
「アーチャーは何でか士郎を毛嫌いしてるわ。でも、そんな相手の事を熟知してる感じがした。矛盾してるけど、あいつは何か確信を持っていたわ」
「……なんと言ったのですか、アーチャーは」
セイバーはあくまでも平静だった。
解りきった事を聞くのに何を構えろと言うのか。
だが、その平静も打ち砕かれる。
「士郎に使える魔術は一つしかない。強化も投影もその副産物に過ぎない。私には何の事がわからなかった」
――副産物?
アーチャーの言葉を聞いて、セイバーは疑問を抱いた。
最終決戦のとき、士郎は自分の中にあった鞘を投影した。それは複製するのではなく、体から引き抜いたと言うのが正しい。士郎が行う投影は、本物を寸分たがわず作り出すことだったはずだ。だから、勝利すべき黄金の剣でバーサーカーを倒せたのだ。あの威力は自分が使っていた頃と全く変わっていなかった。
それが副産物だとすれば、士郎の本質を見誤っていると言うことだ。
――私は間違っている?
解らない。
「士郎の魔術とは投影ではないのですか?」
「投影なんて非効率的なものが? 強化も満足にできないのに、なおさら戦えないじゃない」
セイバーはそのまま黙り込んでしまった。何かをずっと考えるように。
凛もまた黙り込んだが、口を開いた。
「ところでさ、セイバーは何で士郎の魔術が投影だって知ってるの?」
「士郎に訊きました」
即座に答えた。
「へえ? まあ、強化の事も知ってるようだし不思議はないんだけどさ」
ついと、凛はセイバーを見た。
「けど、士郎は自分の魔術は強化を本命って思ってるみたいよ?」
「――――」
今度こそセイバーは黙った。
「成功率としては強化は全然低いみたいね。最初にランサーに襲われたときに成功できたって言ってたし。投影は気分転換にやってただけって言ってたけど?」
「――――」
金髪の少女はなにも語らない。まっすぐに凛を見たまま。微動だにせず、そこにいた。
「投影は非効率だから強化にしておけって、士郎のお父さんに言われて、強化を主体に修行してたみたいよ? だから、投影をするのはごくたまに。それも、投影したものは中身が空だから失敗ばっかりだって言ったわ」
動かない少女に、凛は続ける。
「士郎本人がそう言ってるのに、セイバーは何で投影が士郎の魔術だなんていったの? ああ、いい間違えましたとか、投影も使えるからって言う回答はなしね」
「――――」
睨み付けるでもなく、目をさらすでもなく、ただまっすぐに凛を見るセイバー。
数分の時間が過ぎて、ようやくセイバーが動いた。
立ち上がる。
背を向けて、ドアへと向かっていく。
ドアを開け、そのまま出て行った。
「――こりゃまた、厄介な事ね」
セイバーの様子は尋常ではなかった。恐らく彼女は士郎に関して何かを知っていて、今の話の中に核心に迫った部分があったのだろう。取り乱すと言う空気はなかったが、硬い雰囲気は感じ取れた。
「アーチャー」
「――呼んだか?」
凛の呼びかけにすぐに姿を現した。
凛は赤い騎士を見る。
「あんた、今の話聞いてた?」
「私は外の見張りをしていたのだがね」
「セイバーの様子は相当おかしかったわ」
「……私の話を聞いているか?」
「士郎に関して何かを知っていて、それでいて士郎がこの戦いで戦えるようになれるって思ってる。マスターに対しての過剰な信頼かと思ったけど、今ので違うってわかったわ」
「…………」
全く話を聞いていないマスターの少女に、弓兵は溜息しか吐けなかった。
「アンタも隠し事してるわね。記憶が無いとか言ってたけど、それも元に戻ったの?」
「最初の質問に対しては色々ある。私個人のプライベートな事まで語る必要はないだろう? そう言う意味では隠し事だ」
「誤魔化すわけ?」
「いいや。君が知りたいと思ってる事は既に目の前にあるだけだ。それに気付くかどうかは君次第だ。そう言う意味では隠し事ではないな」
「…………」
凛が睨みつけるが、アーチャーは構わずに言う。
「記憶の方は残念ながら戻っていない。全てではないが若干の事を思い出しつつあるが、肝心の『自分が何者』であるかは思い出せていない」
アーチャーの顔を凛は見つめるが嘘をついているのかどうか解らなかった。真実を語っているのか、それとも臆面もなく虚言を吐いているのか。人生経験で言えばはるかに英霊の方が長いのだ。騙し合いで有利に立てるはずもなかった。
仕方なく話題を変える。
「……士郎の件については魔術に関しては望みは薄いわよ。回路は全部開いてないんだし、その回路で生成する魔力も微量。とてもじゃないけど魔術を編むには足らなすぎるわね」
死に直面したときだけ成功したと言う強化も、言い換えれば火事場の馬鹿力が働いただけだ。普段の状態で成功させ続けなければ、戦力として期待できない。
素材としては最悪であるが、生徒としては優秀だった。言った事は絶対に実行するし、間違いを指摘してやれば、二度としない。理解を深めるための知識も貪欲に吸収している。これは、どちらかといえば目新しいものに対しての興味に近いものがあるが、結果として覚えているのなら凛はどちらでも構わなかった。
だから、師匠として衛宮士郎はちょっと惜しい人材なのである。聞き分けのいい生徒を可愛がるのは教えるものとしては当然の感情で、もっと伸ばしてやりたいと思う。しかし、彼には絶対的に才能がないと見ている。
相反する士郎の評価に凛は唸るしかなかった。
「……とりあえず、今は基礎訓練を積んでいくしかないわね。基礎の基礎は終わったから、次は基礎か」
やれやれと疲れた溜息を吐く凛であったが、その顔は楽しそうに笑っていた。
それを見ていた赤い騎士は、静かにその場を後にした。
一面を埋め尽くすのは赤と黒の世界。
肺を焼き切りそうな熱い風と、空を染める黒い何か。
地獄と言うに相応しい、絶望が蔓延する景色。
その中を一人、足を引きずるように歩いていた。
炎に焼かれた家はもう記憶の中の町並みと結びつかなかった。だから、自分がどこを歩いているのか解らない。ただ、逃げろと言われたから逃げた。いや、自分から逃げ出したのか。
その記憶も曖昧だった。
見上げた空は赤黒く染まり、気味悪く蠢いている様に見えた。黒煙が空を覆っているのか、それとも違う何かが空を舞っているのか。曖昧な意識はそれを認識しなかった。
視点が変わった。
空を見上げて歩いていたから、足がもつれた。もつれた先の破片に足をとられ、その場に転がった。
気味の悪い景色が見える。
目に映るのはそれだけだった。
この世界にあったものは全て失われてしまった。
家、家族、学校、思い出。
全て失くした。
もう自分に残っているものは少ない。
家族の顔も思い出せなくなってきた。家の場所もわからない。学校の友達は誰だった?
死を自覚した。
死ぬと言うのは全てを失うと言うことだと、どこかで聞いた。
つまり、今のような事なのだろう。全てを思い出せず、何も浮かばない。それが死と言うものなのだろう。
疲れた。
歩き疲れたのか、生き疲れたのか。体はなにも動かず、視界も動かないまま。
その視界の中で何かが見えた。一面に見える空よりも大きな何か。
焦点が合う。人の顔だった。
泣いているようで、嬉しがっている顔。心のそこからの喜びの顔だった。
『良かった。生きていてくれて、良かった』
何かを言っている。でも、何を言っているのか、聞こえない。
『これは僕が犯した罪だ。その償いをしたかった。そして、君が生きていてくれた。だから償わせてくれ』
その誰かは涙を流しながら何かを言っている。聞こえない。
『君は生きたいかい?』
それだけは聞こえた。何故か、はっきりと聞こえた。
だから、その言葉に返事をしようとして、声が出せなかったから、頷いた。頷けたかどうか解らなかったけど、頷こうとした。
『そうか』
伝わったようだった。
でも、自分が生きられるとは思えなかった。だって、自分はもう失ってしまったから。だから、後は死ぬだけ。
『――僕はね、魔法使いなんだ』
――だから、君を生き返らせる事が出来るんだよ。
心底嬉しそうな顔をしていた。泣きながら、笑顔を浮かべていた。
それを綺麗だと思った。美しいと思った。
誰かの為に流す涙と笑顔は貴い物だと思った。
だから、それが最初に刻まれた。
誰かの為に流す涙と笑顔。それを見る為に、自分はここにいるのだと思った。
それが、衛宮士郎の最初の記憶であり、『正義の味方』を目指す理由だった。
目が覚めた。
ぼんやりと見えたのは天井だった。
寝起きだからか、目の前がすっきりしなかったが、顔に手をやったとき、自分が泣いている事に気付いた。
体も霊体ではなく、実体化している。
凛の部屋に行った後、そのまま士郎の隣の部屋に来てしまったらしい。霊体になることも忘れ、そのままずっといたのだろう。そして、いつの間にか眠ってしまった。
不覚を感じるよりも先に、悲しかった。
士郎の過去を改めて見て、やはり悲しかった。
彼が失ったもの。全てを失ってしまった事。そして、最初の刻まれた記憶。
その記憶にある顔をもう一度見たくて、目指した。
目指して、辿り着いて、裏切られた。
させてはならない。
死してなお、人を救おうとして、更に裏切られて、磨耗して。
誰にも感謝されず、ただ黙々と敵を倒していくだけ。
自分の理想を叶えられなかった未来。
出来れば、彼も救いたい。
彼は磨耗してしまったとは言え、士郎なのだ。欲張りであろうとも、出来るのなら救いたい。
しかし、英霊として昇格した彼をどうやって救うのか、見当もつかない。
過去である今の衛宮士郎を正せば未来は変わるだろう。だが、アーチャーとして存在している彼を正す事にはならない。それでは、彼の存在が矛盾する。
もし、自分の願いを叶えられるとしたら、それこそ神秘だ。魔術師が求めてやまない、それを使って叶える類の夢。
人に頼るよりも頼られる立場だった頃では考えられない発想に、彼女は笑った。
士郎に出会う前は、全て自分の内に抱えて処理しようとしていた頃とはずいぶんと違ってしまった。
あのマーリンがいたら、こう言うのだろう。
――女は男で変わる。
確かにそうだなと、セイバーは笑った、
この問題は今のところ自分ではどうしようもない事だと解る。常識を超えた力が必要だとわかれば、一時問題を置いておこう。
「――さて、朝食の時間ですね」
部屋を出るセイバーの顔に、もう涙の跡はなかった。
「だから、もう一度僕に令呪を渡せって言ってるんだよ!」
「で、でも、兄さんはもう……」
「もう? もうってなんだよ? 僕はまだ負けてない! サーヴァントもあるし、僕だって生きてる! なら、まだ戦えるだろ!! だから、渡せよ! お前が戦わないって言うから、僕が代わりにやってやってるんだろうが!!」
恫喝する慎二に、桜は項垂れるしかなかった。
慎二が帰ってきてから、ずっとこの調子だった。
慎二の様子と『偽臣の書』を持っていない事から、負けたと言う事が判った。
桜は、兄には戦って欲しくなかった。戦えば少なからず傷を負う事になる。今回は怪我らしいものはなかったものの、それは相手が情けをかけたからだろうと推測できた。だが、それが間桐慎二にとっては不愉快な事なのだろう。
自分が見下されるのが我慢ならないから、こうして桜に当り散らす。
「あいつが、あいつさえ倒してれば……!」
復讐心からか、そんな事を呟く兄を桜は見ていられなかった。
例え、血が繋がっていなくとも、一緒に生活してきた家族のそんな姿は見たくなかった。
だから、桜は、
「……これで、いいですか?」
「……そうだよ。それでいいんだよ。妹が兄の言う事を聞くのは当然だよね」
奪うように本を取った慎二は、口端を吊り上げながら笑う。
それを見て、桜は思わず言った。
「約束、してください」
「約束?」
「もう、これで最後にして欲しいんです。もう、これ以上こんな事したくないんです」
「どういう意味だよ?」
「兄さんがもし負けても、もう令呪を渡したくないんです」
「どう言う意味だよ!?」
「だって、負けるって事は死ぬって言うことでしょ? 今度は生きて帰ってこれるか判らないのに、もう一度戦いに行くなんてやめて欲しいんです!」
目に涙を溜めながら、訴える。
身近な人がいなくなるのは、嫌だった。
引き離される事がどれだけ辛いか、桜は知っているから。
「はっ、僕が負けるなんて事はない。僕はマキリなんだ。魔術師の家系の長男なんだ。回路があろうとなかろうと、僕はもう負けないんだよ」
しかし。慎二に桜の思いは伝わらなかった。
「兄さん!」
「うるさい!!」
「あっ!」
桜を振り払う為に挙げた手が、桜の顔を殴った。
床に倒れこんだ桜に、慎二の動きが止まる。
ギリっと、奥歯を噛み締めた。
「フ、フン。兄に逆らうのがいけないんだぞ! お前の代わりに戦ってやってるんだ。逆に感謝して欲しいくらいだね」
「――兄さん?」
空虚な声だった。いつも自信過剰の兄の声が空虚に聞こえた。
頬を刺す痛みが何故か痛くなかった。
でも、腫れは酷い。
頬を撫でながら、桜は言った。
「学校、行けないな……。先輩、ごめんなさい」
衛宮家の朝食は美味い。
日本屋敷の景観にそぐわない和食の品目で構成された料理は、思わずつばを飲み込んでしまいそうになる。
いや、若干名飲み込んでいた。
「士郎ー。早く食べようよぅー」
「藤ねえ、箸で茶碗を叩くな。行儀が悪い」
味噌汁をお椀に移しながら、士郎がそう指摘するが、空腹の虎は取り合わない。
「おなかすいたー、おなかすいたー」
「士郎、ご飯をよそいましょうか?」
「あ、ありがとう」
「いえ」
茶碗にご飯をよそうセイバー。
丼が一口あったが、すぐに誰のだかわかった。わざわざ縞模様の茶碗を使ったりするのは、一人しかいない。
「大盛りでねー」
「はい」
言われたとおりにする。空腹の虎に逆らうのは厄介だからだ。
全ての茶碗にご飯を盛った。士郎のほうも用意が出来たようで、各自に配って、位置に着く。
「いただきます」
『いただきます』
士郎の号令で、朝食が始まった。
かに見えたが、
「ん? あれ?」
食の帝王、藤村大河が首をかしげた。
いつもより、おかずが多い気がする。
事、食に関しては超能力者並に鋭い冬木の虎が皿の枚数を数える事など朝飯前、――いや、朝飯中だったか。ともかく、間違える事はない。
「あれ? んー?」
「どうした、藤ねえ」
いつものように豪快に箸が飛ぶわけでもなく、うんうんと唸っている様子に、士郎が声をかけた。
「うん。何でこんなにお皿が多いのかなぁって」
「はぁ?」
「だって、私と桜ちゃんと士郎の分にしては、一人分多いような」
「今日は桜は来てないぞ」
「あ、そっか」
士郎の言葉に、頷いた。
そっか、だからお皿が多い……、
「なわけあるかあああああああぁぁぁぁぁぁ!!」
「うるさいぞ、虎」
「うるさいです、先生」
「うるさいですよ」
「だ、だ、誰よ、この娘達は!? いつの間に女の子なんて連れ込んでたのよぅ!!」
「いや、誰よって。遠坂は知ってるだろ、いくらなんでも」
「なんで、遠坂さんがいるのよ! おかしいじゃない!!」
叫ぶ虎に、凛が説明を始めた。
セイバーは黙々と食事を続けている。
「私は衛宮君に届けものがありまして。届けるなら早い方がいいと思って来たんですけど、御礼に朝食でもどうかと誘われたんですよ」
「え? そうなの?」
あくまでも。あくまでも用事があってここにいると言う事にしたいようだった。
――一昨日から泊まってるって言ったら、どうなるかな。
一瞬、怖い妄想が膨らんだ。
怖い妄想はなかった事にして、士郎も食事に専念する。口達者な凛が藤ねえを論破できないはずはないのだし、楽観視してもいいと判断する。
「でも、連れ込まれたと言うのは間違いではないですけど、先生が考えているような事はないですから」
「う、うーん。納得していいのかなぁ?」
首を捻りつつも、なんとなく野性の本能で悟ったのか問題はないと判断したらしい。
「で、こっちの娘は一体誰なの? 外人の娘の知り合いなんて、士郎にいた?」
矛先がセイバーに向いたとき、士郎は軽く呻いた。
適当な理由をでっち上げるのはいい。虎を論破するのにはそれ程苦労しない。しかし、このままここに住み続ける、と言うか、士郎に張り続けるので、顔を合わす機会が多くなるだろう。それも、この家で。
つまり、知り合いだと言う説明は簡単でも、ここに住まわせる理由が思いつかないのだ。
どうしようかと士郎が悩んでいると、横から声がした。
「私はアルトリア・ペンドラゴン。切継の知り合いです」
「え? 切継さんの?」
「――っ!」
「どうした、遠坂?」
固まってしまった凛に士郎が心配そうに声をかけるが、聞こえていないようだった。
そんな二人に構わず、藤ねえとセイバーは話を続けていた。
「少し暇が出来まして、それで諸外国を廻ってみようと思って知人である切継に会いに来たのですが……」
「あー、でも、切継さん、アルトリアちゃんが訪ねて来てくれたんなら、喜ぶと思うよ?」
「そうですか?」
「うん」
笑顔で頷く藤ねえに、セイバーも笑顔で答えた。
「うん、そう言うことなら、アルトリアちゃん」
「なんでしょうか」
「日本にいる間はここにいていいからね。もー、わたしが許可しちゃうから」
「はい、ありがとうございます」
「藤ねえ。ここ、俺の家なんだけど」
「何よぅ。じゃあ、士郎はアルトリアちゃんが他のところに行ってもいいっての? せっかく切継さんを訪ねてきたのに」
「いや、そう言うわけじゃなくてだな。もちろん、泊まる事はいいんだけど、その許可を何で藤ねえが出してるんだよ」
「いいじゃない、別に。ここはもう私の家も同然なんだから」
ふふんと胸を張るが、子供っぽく見えるので、全く偉そうに見えなかった。
「タイガー、自分の家に帰れ」
「私を虎と呼ぶなー!!」
なんか、そんな感じで滞在を許可されたセイバーだった。
「ああ!? 私のおかずがない!!」
「シロウ、いい味付けでした」
「私のおかずを返せー!!」
「さっさと仕事に行けよ、藤ねえ」
「うわーん! 士郎がいじめるー!!」
「……あの人は本当に大人なんだろうか」
未だに祖父の雷画からお年玉を貰ってる辺り、子ども扱いなのだろう。と言うか、それがさらに藤ねえの子供化に一役買っている気がする。
「やれやれ。……ところで、遠坂? 食器を片付けたいんだが」
未だに固まったままであったが、手はしっかりと動いていたので、とりあえず放っておく事にする士郎だった。