聖杯戦争は聖杯の破壊と言う形で幕を閉じ、決着を見せたのだ。冬木を覆っていた暗い影は晴れ、これまでのように長閑な風景へと戻っていくのだろう。
さて、最終決戦から数えて約47時間後に衛宮士郎は目を覚ました。いつの間にか、自室の布団にいた自分を不思議に思い、そう言えば戦いの結果はどうなったのかと考えたとき、自分がここに居ることが全てを物語っていることに気付いた。
どうやら、戦いは良い方向で終わったらしい。
そして、彼女とももう逢えないことに気付いた。
「一言、礼が言いたかったな」
思えば、助けてもらってばかりだった。自分は何一つ恩を返せていない。純粋に、それが悔しかった。
「……起きよう」
呟いて、士郎は布団から抜け出す。取り止めの無いことを考えていても、暗くなるだけだと知っていたから。
居間へと向かう廊下の途中で、良い匂いが漂ってきた。誰か居るのかなと、何とはなしに思う。そう言えば、時間を確認していなかったなと苦笑交じりに思った。
居間の障子を開ける。居間には新聞を広げる人物が独りだけだ。匂いの漂ってくる台所を見れば、髪形だけが違う背格好の似ている少女達が調理をしていた。
「……遠坂に、桜?」
名前を呼んだ。
それに反応して、二人は同時に振り向いた。
「あれ、起きたの」
「先輩、おはようございます」
「あ、うん」
なんと言うことはない普通の受け答えに、士郎は戸惑った。
「あんたは座ってなさい。まだ本調子じゃないでしょ」
「いや、そうだけど……」
「先輩は休んでてください」
「さ、桜……」
ぐいぐいと座らされてしまう。抵抗しようと思えば出来たのだが、明るく笑う桜に士郎は戸惑ってしまい、大人しく座るしかなかった。
台所へと戻っていく桜の姿を見送って、じゃあ料理が出来るまで待とうと思い、テーブルの上の急須に手を伸ばしたところで、目の前で新聞を広げている人物が目に入った。
「……?」
誰だ? と思う。
この家を訪ねてくるのは主に三人だ。その内の二人――凛と桜は台所で格闘中。最後の一人である猛獣が妥当かと思いもしたが、猛獣故に新聞と言う高尚な物を読むなんて事はしない。
――じゃあ、一体誰が。
そう思いかけて、新聞の主はおもむろに新聞を畳み、急須に手を伸ばしたところで固まっている士郎を見つけた。
「――シロウ、お茶ですか?」
耳障りの良い透き通った声が聞こえる。聞こえているはずなのに、脳が反応してくれない。
「私が淹れましょう」
盆の上に重なっていた士郎用の湯飲みを取り、茶を注ぐ。その時、癖の無い髪がさらりと流れた。それに目を奪われてしまう。
コポコポと注がれた湯飲みをそっと士郎に差し出し、眩しい笑顔で勧める。
「どうぞ」
「ど、どうも……」
畏まって湯飲みを受け取り、一啜りする。うむ、全く味が解らない。
「……シロウ? 熱くは無いのですか?」
「熱い――?」
小首を傾げながら訊いてくる女性を可愛いなと思いつつ、言われた単語をロボットの如く繰り返した。
えっと、熱いって、なにが?
瞬間、
「うわっちぃ!?」
「シロウ!?」
熱湯を注がれた湯飲みの熱さをようやく知覚したのだった。
零した茶を拭き取り、場を落ち着けた頃、朝食が完成したらしく、そのまま食事になった。その間も、士郎の意識は目の前の金髪の女性に向けられており、折角凛と桜が作った料理の味が半分も解らなかった。
明らかに落ち着きの無い士郎の様子を見て、苦笑を浮かべるのは女三人。微妙な雰囲気の中、食事は終わったのだった。
『私たちはちょっと出かけてくるわ。学校の方で連絡があるらしいし。ついでにあんたの分も貰ってきてあげるから、今はその人とお話してなさい』
そんなことを食事の終わりに一方的に告げられた。
苦笑を浮かべる桜と、意地の悪い笑顔をする凛は無慈悲に出かけてしまい、援軍はいなくなった。
沈黙が居間に流れる。
がっちがちに緊張しているのは士郎だ。向かい側に座る女性は真っ直ぐに士郎を見詰めている。彼女は別段緊張している風には見えない。ただ、その碧の目で士郎を見つめているだけだ。
その視線に負けたわけではないのだが、長い沈黙は相手に失礼だろうと思い、士郎は思い切って声をかけてみた。
「あ、あの……」
「はい、なんでしょうか?」
「えっと、その……」
いざ声をかけてみて、はたと気付いた。
声をかけるのは果たしたが、一体何を話すべきなのか決めていなかった。あまりにも思慮の足りなさに頭が痛くなってくるが、それでも何か話題をと思い、女性を注視して、気付いたことを言ってみる。
「どこかで、逢ったこと、ないですか?」
彼女のを見て想起されたのは、蒼の騎士だ。真っ直ぐな瞳も、綺麗な金の髪も、真面目そうな雰囲気も、似ていた。
そう思って士郎は訊ねたのだが、女性はやれやれと溜息を吐いて、答えた。
「――シロウ、よもや私を忘れたと?」
「うぇえ!?」
予想外な返答が返ってきた。どうやら自分はこの美人さんとあった事があるらしい。
「い、いや、あの、親父の知り合いだとか?」
幼い頃の記憶を全部持っているわけではないので、もしかしたらその頃に尋ねてきた人なのかもしれない。それならば、忘れているのも仕方が無いかなと思うのだが。
「切嗣は確かに知り合いと言えば知り合いでしたが、あなたは私を知っているはずですよ?」
「う……?」
そ、そんな事言われたって、こんな美人な人、見たら絶対に忘れない。
「やれやれ。一目見れば解るかと思いましたが、シロウは存外に鈍いのですね」
なんか、酷いことを言われている。
それだけは解った。
「供にあの夜を駆けたというのに、姿が少し変わったくらいで見分けがつかなくなるとは……。シロウは薄情なのですね」
「……――え?」
そこで、ようやく士郎は目の前にいる人物が誰なのか理解した。
「セイ、バー?」
「いいえ、違います」
しかし、それは否定される。
「私はアルトリア。アルトリア・ベンドラゴン。この世に生を受けた、一人の人間です」
「あーあ。今ごろあいつらいちゃついてんでしょーねぇ」
「ふふふ。そうでしょうね」
商店街の喫茶店。その一席に遠坂凛と間桐桜はいた。
学校の用事はもう済ませてある。授業の再開時期を記されたプリントを受け取って、ぶらぶらと商店街を歩いていたのだ。衛宮邸に行くにしても、夕刻まで時間を潰そうと思っているのだ。
「でも、いいの? 桜は」
「なにがですか?」
出し抜けにそう訊いてきた凛に、桜は訊き返した。
「衛宮君、取られちゃうわよ?」
ストレートにそう言った凛に、桜は苦笑を浮かべるだけだった。
「ま、いいけどね」
「――『姉さん』こそ、いいんですか?」
「…………」
言われ、少しだけ周囲の雑音が消えた気がした。しかし、すぐさま現実に戻る。
「いいのよ、いいの。あの二人の間に入り込む余地なんて無いでしょ。特に、アルトリアが怖くって……」
「それは解りますね」
士郎が起きたとき、恐らく真っ先に抱きしめたかったはずなのは彼女だ。なのに、なんでもない風に士郎と会話をし、一緒に食事を摂っていた。
寝込んでいた二日間は凛にも桜にも看病を許さなかったくせに、起き出した途端、冷静さを装っているのだ。
「あそこまで気持ちが表に出てるのを見ると、横から手出しするのって興醒めなのよね」
それに、宣言されたし。『あげない』って。
「これから、どうしますか?」
「んー? とりあえず協会には事実を伏せて報告して……」
「そうじゃなくて、これからどこに行きましょうかって、話ですよ」
「あ、そっち?」
「喫茶店にいつまでもいるわけにはいかないですしね」
「それもそっか。じゃあ、新都の方に行ってみる?」
「あ、いいですね。私、下着を見に行きたいんですけど」
「なに? 太ったの?」
「いえ、その、また大きく……」
ひきっと凛の顔が引きつったが、そこは持ち前の自制心で我慢我慢。
「くそぅ。なんでこうも……。アルトリアもでかくなってるしっ」
「早く行きましょう、遠坂先輩」
「はいはい」
喫茶店を後にして、凛は強い日差しに目を細めた。
緩やかにではあるが、暖かくなってきている。春の到来はまだ少し先だが、今日は春のように暖かい。
叶うことなら、こんな穏やかな日々を送ってみたいとも思うが、それは遠坂凛には似合わないだろう。やはり、自分の本分は魔術師で、長閑なんて言葉とは程遠い存在なのだ。
けれど、そんな存在でもいま少しだけはこの空気に浸っていたいと思う。
願わくば、だけれど。
「生を受けたって……」
「私は既にサーヴァントではありません。受肉をした人間です」
「え、ででも、セイバーにしては、その……」
背も高くなってるし、顔つきも少し丸みがなくなっている。髪は以前と同じ長さなのか解らないが、肩より下までのストレートヘアだ。格好だって、あのドレスみたいなのじゃなくて、青のYシャツに白いジャケットを羽織っていて、現代人みたいだ。
「それについては私も詳しいことは解りませんでした。凛が言うには、シロウの魔術の特性が、私に流れ込んだ結果らしいのです」
「ん?」
「『魔力を永続的に具現化する』と凛は言っていました。士郎が投影をしたものはずっと残っているのでしょう? 何かしらの外的要因を与えない限り、それはあり続けると。それが私に流れ込み、私は受肉を果たした、ようです」
もとより魔術の造詣に深くないアルトリアも全てを理解できたわけではない。
解っているのは、こうして士郎とまた共にすごす時間が出来たと言うことだけだ。
「シロウ。貴方が私を庇ったときのことを覚えていますか?」
「ああ」
「貴方が庇ってくれたおかげで私は助かりましたが、その代わりに、シロウの下半身は吹き飛んでいました」
その言葉にはあまり現実感が無かった。今もこうして二本の足があるのだ。腰から下が無くなったといわれても、実感が無い。
「それを見た私は必死に鞘へと魔力を送ったのです」
「鞘?」
「私の鞘――『全て遠き理想郷』がシロウの体の中には埋め込まれています」
「俺の、中に? なんで?」
「貴方の――いえ。ともかく、前回の聖杯戦争のときに起きた火災の中、切嗣はシロウを見つけ出し、死にかけていた貴方に鞘を埋め込んだのです。鞘には魔力を通せば持ち主を自動的に癒してくれる効果がありますから」
「ああ、だからか」
前に傷の治りが早いと言われて、凛が興味深そうだったことがあった。いや、あれはもうそんなレベルではなく解剖とか実験体を見るみたいな目つきだった気がする。
「鞘へ魔力を送ると言う行為が、どうやらラインの主従を逆転させてしまったようなのです。それで、私が魔力を送ると同時に、シロウから何かを吸い上げてしまった」
「それが、俺の魔術の特性?」
「恐らくは。そして、シロウを半壊させたギルガメッシュに我を失うほど怒り狂った私の魔力が増大して、それを受けるための器が大きくなってしまったのだと」
「……なんか、こじつけっぽいな」
「もとより、こじつけ以外のなにものでもありません。起きた結果から推測しただけの話ですから。事実は、私がここにいると言うことだけです」
嬉しそうに笑うアルトリアに、士郎はどぎまぎとしてしまう。顔や体は大人のお姉さんなのに、笑うと幼く見えるのだ。なんだろう? アーサー王の年齢は今のアルトリアよりも高いはずなのに。
「じゃあ、セイバーは……」
「シロウ」
「え?」
言いかけた言葉の途中でアルトリアが口を挟んできた。彼女の性格を思うなら、そんなことは絶対にしないはずなのに。
「私はもうサーヴァントではないと言いました」
「うん。それは聞いた」
「私はアルトリア・ベンドラゴンだとも名乗りました」
「うん。それも聞いたな」
「…………」
「…………」
沈黙が降りた。しかし、それは一瞬だった。
「シロウ」
「え、ちょ、なに?」
すくっとアルトリアは立ち上がった。つかつかと士郎の横に座りずいっと顔を寄せてくる。
突然の行動に慌てる士郎だが、そんなのお構いなしにアルトリアが迫ってくる。
「私は?」
「え、セイバー、あの、なんで、近づいてきてるのかな?」
ずずいっとアルトリアが体を寄せる。彼女の髪が頬をくすぐり、背中に電撃が走ったみたいに震えた。
「私は?」
「あ、あのー、近すぎるかと思うんですけど?」
とんと、士郎は倒れた。倒れるつもりはなかったのだが、迫ってくるアルトリアから逃れようとして体が倒れてしまった。
その士郎の両側に手をついて顔を近づけてくる金髪の美人さんが一人。
「私は?」
「え、えーと?」
この体勢はマズイ。何がまずいって、彼女の息遣いがモロに聞こえたり、さっきから髪の毛先が肌をくすぐってて、甘くのしかかっている体重が気持ちよくって、やば過ぎる!
更には、体を沈めてくる。士郎の腹に同じく腹を乗せ、体重を支える必要が無くなった足を絡ませて、逃がしはしないと意思表示する。
彼女の服の上からでも判る二つの膨らみは、士郎の胸に柔らかく潰れていた。そこまで体を密着させて、アルトリアは耳元に呟くように言った。
「シロウ。私の名は?」
「あ――」
そこでようやっと気付いた。自分は、彼女のことを『セイバー』と。
彼女が聞きたいのはそっちではなくて。
「あ、あるとりあ――」
それが精一杯だった。言いなれない言葉に、どもってしまった。
しかし、折角名前を呼んだのに、アルトリアは返事をしてくれなかった。
「あ、あの?」
「もう一度です」
「え?」
な、なにを――言っているのか。
「名前を呼んでくれなかった罰です。後一回ほどお願いします」
「い、一回ですか」
「ええ。一回です」
で、では、意を決して。
「――アルトリア」
「はい! シロウ!」
「んん!?」
ようやく呼ばれた自分の名前に喚起して、アルトリアは愛しい人と口唇を重ねるのだった。
――ちなみに。
「あ、あんたたちなにやってのるのよーーーーぉ!!」
絶妙なところで野生の虎に目撃され、言い訳に小一時間ほど費やしたのだった。
「はあ、前途多難ですね」
「それよりも、あっちで呆けてる馬鹿に、一体何したのよ」
「無論、秘密です」