はぁ、暑い。

 漏らした吐息は熱く、けれど心地よい疲労と倦怠感に包まれている。
 ぐったりとした体を動かすとこの気持ちよい気分が消えてしまいそうで、だから首だけを静かに動かして隣を見やる。
 目に飛び込んだのは私と同じく横たわっている顔。その瞳は閉じられており、規則的な寝息も聞こえてくる。
 完全に寝入っているようだ。
 少年と青年の境目と言う不安定な時期特有の曖昧なフェイスライン。寝ている表情はそれはそれは気持ち良さそうで、見ている人間を幸せな気分にさせてくれるものだろう。
 私は、もう一度深く息を吐くために天井に目を向けた。

 はぁ。

 体に残っている熱は、一度の呼吸では全てを出し切れず、もう一度深く息を吐いた。
 時間は午前零時半。
 視線だけ動かして見やる窓からは、暗い世界が見て取れる。閉め切られていないカーテンの隙間から覗く夜空は、星とネオンに彩られ見た目ほど暗いと言う印象は抱かなかった。
 再び天井に視線を戻し、今日あった事を反芻してみる。

 今日は二学期の最初の登校日――つまりは始業式だった。
 まだまだ夏の気配の消えないこの時節に、密閉空間の体育館に総勢840人に登る人間を詰め込んでの式は、べたつく汗と髪の毛との格闘の時間だった。
 とは言え、うちの学校は何故だか知らないが始業式や他の行事での開閉会式などは世間一般的な学校よりも格段に短い。校長の話は形式ばった台詞だけしか言わず、聞くところによる長ったらしいご高説とは無縁だ。そのほか、学年指導やら教頭などの話もカットされている。なので、始業式は大抵は十数分で終わる。長くても、三十分かかった覚えは無い。
 それでも、800人近い人数が同じ空間にすし詰めされていれば、熱気むんむん、汗だらだらと言うわけで、とても不快なものだった。
 それからは、確かホームルームだったはずだ。
 記憶がおぼろげなのは、おそらく暑さに思考回路が鈍っていたからだろう。私は暑いのだけはだめなのだ。
 そんな事を友人の一人に話したら、『このクソ忙しい時期になんでそんなに余裕ぶっこいていられるんだ』と羨ましがられた。
 私の学年は三年生である。つまりは、嘆かわしき日本教育主義の犠牲者――受験生なのである。
 大学受験を控え、夏は受験勉強に費やしていた友人は私の気楽さを心底恨めしく思ったらしく、仕返しとばかりに私の自慢のバストを公衆の面前で揉みくだし、その付加効果である体をくっつける事で生じる汗のべたつきと言う不快さをプラスした罰則を与えようとしたのだが……。
 私の胸を揉む事で彼女自身が恥ずかしくなったらしく、途中で止めてしまった。

 ちっ。もっと揉め。

 あ、余計な感想が入ってしまった。
 その後、クーラーをガンガンに効かせた我が家に帰ろうとしたのだが、生憎と藤代に捕まり二学期二大行事の一つである文化祭の手伝いをやらされた。
 肉体労働がすこぶる嫌いな私に、藤代は何を血迷ったのか角材の切断なる仕事を押し付けてきた。
 私はそんな面倒な事はしたくないし、第一にして関係者ではないので断ったのだが、生憎と紫を人質に取られたので、やむなく承諾した。
 それでも、やはり汗をかくのは御免だったので、手っ取り早く片付けるために、ちろっとだけ抜刀した。
 春の新入生確保のために毎年演舞をしている剣道部である。多分、文化祭でも演舞なり何なりをするために出されていたのであろう刃落としされた模擬刀を抜いた。ご先祖には申し訳ないが、そもそもこんな性格の私に技を教えた爺に文句を言って欲しい。私はあの頑固爺の被害者なのだ。
 角材を指示されたように斬り終えた私は、呆然としている剣道部元部長(剣道部員は夏休みで役目を引き継ぐ)赤星勇吾に模擬刀を投げ渡して、心持ち早足で帰宅したのである。
 その後は、昼食を摂ってクーラーで快適温度で冷やされた部屋で夕方までぐっすり。夕食には紫が家に上がりこみ、二人で晩餐と言うわけである。
 夕食時に、紫が部長がどうこうとか言っていたが、私は目の前にある食事に集中していたので聞き流した。私が話を聞き流すのはいつもの事なので、別段気にしていなかったようだ。
 それから、お風呂に入って、テレビを見て、少し話をして、それからなんとなくそんな雰囲気になって、致して、現状と言うわけだ。

「ん」

 漸く、体の熱も引いてきた。
 時間は午前一時。とりあえず、眠れるようにはなった。
 私は隣にいる恋人の頬に軽いキスをして、眠りに着いた。
 明日もまた、普通の日でありますように。

/ / /

 東の空が白み始めてくる頃、海鳴の北東部に位置する八束神社の脇に鎮座する森の中から、耳障りな音が響いていた。
 金属を打ち合わせる音。
 地を蹴る音。
 風を切る音。
 肌を焦がすような緊張感がその森を包んでいた。
 目の前にいる剣士は、乱れる息を整えながら、こちらの動きを伺うように睨みつけてくる。
 両手に握っているのは刀。
 俺が両の手に握っているのも刀。
 脇差と太刀との中間に位置する長さの刃物。小太刀と称される冷たく光る武器だった。
 山際からもれる木漏れ日が、森を照らしていく。差し込む陽の光に一瞬視界が白く染まる。
 その隙を突いて、敵が飛び込んでくる。
 俺は一瞬遅れて駆け出した。
 相手は体を横に振ってフェイントを織り交ぜながら、斬撃の軌道を解りにくくする。
 それに対して、こちらは手首から飛針を二本抜き出し、足元と腹部に向かって投げつける。
 敵はこちらの意図を読み取り、飛針の軌道を見切って、体を半身にしながら跳んだ。横滑りと言うよりも、滑空に近い姿勢で腰元のホルスターから抜いた鋼糸をこちらに投げつけてくる。
 下手に弾こうとすると絡めとられるので、体を折ってそれを避ける。同時に、前方に向かって踏み出しながらの右の一刀。
 とっさに手に持った刀で斬撃を受けようとするが、空中だったので踏ん張りが利かず俺の一撃で大きく姿勢が崩れた。地面に着地するが、姿勢を崩したままの着地で次の展開への対応が遅れる。
 その隙を逃さず、こちらは返す刀で斬りつけた。
 からくも防御体制をとるが、足の踏ん張りは満足にいかず、斬撃に押し切られ仰向けに転がった。

「……終わりだ」

 最後までやる必要はなかった。あそこまで完全に不利な状態になれば、確実に殺されている。

「うぅー、悔しいー」
「飛針を弾かず避けるのはいいが、その後の展開も考慮しろ。不用意に跳ぶのは危険だ」
「それは解ってたんだよ。弾いたら隙が出来るし、かと言って、左右に跳んでたら向こうのペースになっちゃうから。だから、前に進むしかなかったんだよ」

 悔しそうな顔をしながらも、さっきの打ち合いへの不満は無いようだ。
 理由としては、前方に進むと言う部分だけは合っているからだ。俺がその点について何も言わなかったのも解っているのだろう。
 前に進むのなら、あそこは体を半身にして跳ぶのではなく、駆けるべきだった。

「空中での鋼糸の攻撃は無難だが、あそこは飛針を数本放って間合いを取るべきだった」
「鋼糸じゃ、一本しか使えないしね」

 先代の中には鋼糸を数本用いた人物もいたそうだが、うちの弟子はそちら方面の才能はあまり高くない。

「前方に突っ込むにしても、地に足をつけてろ。俺達の剣は機動力――足が要だからな」
「はい! 解りました、師範代!」
「じゃあ、今日はこのくらいにしよう。行くぞ、美由希」
「うん、恭ちゃん」




















とらいあんぐるハート3 ファンフィクション
なまぐさ剣客徒然草


『その一 発見? 怠け者の女』

From "Triangle Heart 3" (C) 2002 ivory/JANIS
Presented by HIRO [TRASH BOX]





















 始業時間10分前に教室に入った高町恭也を出迎えたのは、驚きと興奮と歓喜の感情を笑顔で表した親友――赤星勇吾だった。

「高町! 今日は素晴らしく晴れていると思わないか!?」
「確かに空は晴れ渡っているが、お前がそこまで興奮しているのは何故だ?」

 赤星の異様なほどのテンションの高さを涼しくスルーした俺は、とりあえず席に着く。

「何故伝わらない!? これほどまでの心のうちから込み上げてくる熱い感情を!!」
「珍しく熱血入ってるね、赤星くん」

 横から聞こえたのは、月村忍の声だった。俺の隣の席で、共に居眠り道に日々精進している間柄である。

「おはよう、忍。それで、この現状の原因を何か知ってるか?」
「おはよう、恭也。残念ながら、私は何も知らないんだ」

 諦めと呆れの表情を溜息一つであらわす忍に俺はそうかと頷いた。

「では、赤星の持病の末期症状と言う事か」

 赤星は昔から、剣に関する事で大きな収穫、あるいは発見があるとこのように朝っぱらから上機嫌になるのである。他の人間ならばうるさいの一言で終わるのだが、赤星のキャラクター故に、さわやかに熱血と言うわけの解らない状態になるのだ。

「赤星、一体何があった?」
「聞いてくれ、高町! 俺は、素晴らしいものを見たんだ!!」
「それは解った。だから、何が素晴らしいのか話せ」
「よし話そう。しっかりと聞いて噛み締めてくれ」

 中々に偉そうな態度であるが、これがこの状態のデフォルトなので気にせずに耳を傾ける。

「昨日の始業式で、俺は芸術を見てしまったんだ」
「芸術?」

 首をかしげる忍に赤星は熱に浮かされた声で続ける。

「そう、芸術だ。
 鯉口を切った瞬間それは抜き放たれ、神がかった軌跡を描き、寸分違わずその道筋を辿り、標的に至った瞬間、電撃が走ったように煌き、次の瞬間には鞘に納まっていた。
 ……うおおおお!! お、俺の貧相な言葉では語りつくせない! あの感動を味わうための言葉が足りない!!」

 自分の言葉では表現しきれなくて苦悩する赤星をよそに、俺はその言葉からあるものを連想した。
 小太刀二刀御神流斬式 奥義の極 閃
 心技体全てを備え、最大まで高められた集中力が合わさって初めて見える境地。
 それは技ではなく、一刀の太刀筋が相手の間合い、呼吸、視線、反射、五感の全てを凌駕すること。振るわれた太刀は防ぐ事も、かわす事も出来ずに討たれる。
 御神の剣士でも最高峰の剣士でなければ辿り着けないとされるそれを、赤星は見たと言う。

「一介の剣士から言わせてもらえば、相当凄いことだな」
「だろ!? 解ってくれるか、高町!! 俺は今生きてて良かったと思うよ!」
「……はぁ」

 剣術にあまり興味の無い忍は相槌のような曖昧な返事をした。
 しかし、そんな事が出来る人間がこの学校にいたとは、気づかなかったな。

「興味本位で訊くが、どんな人物なんだ?」
「いや、俺も面識があるわけじゃないから詳しい事は解らないんだが……」

 そう断りつつも、赤星は続ける。

「藤代さんが知り合いみたいでさ、詳しく話を訊いてみたんだ。
 角材を一閃したのは居合いの技で、その人の家に伝わる剣術らしいんだそうだ」
「――居合いか。……その手合いとは戦った事は無いな」

 と言うよりも、居合いの技を持つ人物や流派が少ないからなのだが。
 居合い――抜刀術は御神の技の中にもある。俺が得意とする系統の技の一つに、四連撃の奥義がある。連撃を主体としているので、太刀での居合いよりも速度を重視した『打つ』よりも『斬る』事を前提とした連撃だ。抜刀からの連撃は斬撃に分類されるので、実質居合いを放っているのは左右の刀での一撃目のみ。
 抜刀から始まるのは同じだが、俺達の――御神の技の場合、相手のどこでもいいから斬りつければ、後は最後の一刀でしとめる形になっている。
 恐らく、赤星が見たのは太刀での居合い術だろう。
 太刀の重量と腰の回転、剣士の体重移動、筋力等の様々な要因が一点に収束され、研磨されたもの。
 最早、技ではなく術。
 発動すれば、確実な結果を残す。高め、極められた一刀。

「居合いの話はいくつか聞いた事があるし、見た事もあるが……そんなに凄いのか?」

 剣道家であるが、草間一刀流の道場にも通っている赤星だ。生半可なものではここまで嬉しがる事は無いんだが。

「ああ。居合いは後の先を取る技だけど、アレは前に出る技だな」
「前へ……出る?」
「そうだ」

 その後も、その居合いの素晴らしさに感動し続ける赤星をうっちゃって、俺はその剣士について思考を巡らせた。

「……話についていけなかった」

 隣で忍が拗ねていたがご愛嬌と言ったところだろう。

/ / /

 四時間目の授業が終わって、私はぐてっと机に倒れた。
 朝っぱらから四時間連続で授業を受けたのは41日ぶりくらい。つまりは、夏休み以来。世俗の受験生が予備校通って知恵熱出していた間、私は麗しの君と一緒にスイカかじってました。悦楽です。
 それにしても、久しぶりなもんで完全に体が忘れてる忘れてる。ましてや、窓際で日差しがポカポカあたって気持ちいいの何の。

「景子ー。ご飯食べよ」
「んー」

 眠気はびこる脳細胞は眠いと命令を発しているが、それと同レベルでお腹も空いているので、エネルギー摂取のためにしばし無視をする。
 私の前の席の椅子に腰掛けたのは、悪人――違った――悪友の藤代妃姫(きさき)である。
 名前が乙女入りまくって親の神経を疑うが、家にお邪魔したときはまっとうな人間だったので、恐らく祖父か祖母がつけたのだろう。前時代的である。
 それでも、藤代はその名前を気に言っているらしく凹んでいる様子は無い。むしろ、その乙女的名前をぶち壊すかの如く、剣道に六年間も勤しんでいるので、名前とキャラと容姿に反して彼氏が出来たためしが無い。嘆かわしいことだぁね。

「今日は何が詰まってるんでしょうかねー」
「あ、昨日は泊まったんだ?」
「ん」

 お弁当と筆記用具しか入っていないかばんから、青いバンダナに包まれたお弁当を抜き出す。男っぽいバンダナなのは、まあ、昨日夜を共にした所謂一つの彼氏さんが作ってくれたからである。
 ちなみに、私の腕は並。あいつの腕の方がおかしいのである。
 これ、言い訳じゃないよ?
 藤代はすでに食べ始めていた。薄情者め。その玉子焼きを私にも分けろ。

「東条君、ちゃんとお世話してるみたいね」
「下世話もね」
「お盛んなこって」

 と、黒い冗句を口にしつつ開封。今日はご飯とひじきにポテトサラダ。それと青椒牛肉絲チンジャオロース
 アルミ紙の器に入っているのは味が混ざらないための処置。私は面倒なのでそのままぶっこんでしまう。この辺り、友人一同からはがさつの一言で切って捨てられているが。
 そして、ごぼうの煮物。こちらも同様の処置が施されている。
 ここまでならば、私は朝早くお弁当を作ってくれた愛情あふれる彼氏に感動するのだが……。
 弁当の隅にはミニトマトが二つ鎮座していた。

「……ヤロウ。私がトマト嫌いだって事が未だに解ってないようね」
「解っててやってると思うけど」
「なお悪いわ」

 なんつーか、私が緑黄色野菜の中で唯一駄目なのがトマトなのである。噛んだ時のなんとも言えない歯ごたえに生理的悪寒を感じてしまって食えたもんではない。味自体は嫌いではないんだけど。
 そんな私の偏食を治すためなのか、我が愛しの君は食事担当と言う立場を利用して、時々隙を見計らって突っ込むのである。

「せめて、調理してあるのにして欲しいのに」
「やっぱり、生は駄目?」
「駄目、却下、不許可、不了承、認められません」
「東条君も大変ねぇ」

 と、全く大変そうに思っていない藤代はそんな事を口にする。

「藤代。そのにやけた顔は止めなさい。ムカついてくるわ」
「一人身にとって、そのお弁当は眩しいのよ」
「……思ったんだけど、それ、男の台詞よね」

 とか何とか言いつつ、箸を進める私。
 間に昨日剣道部で呆けていた元部長の話を挟みながらお弁当箱を閉じる。無論、トマトは綺麗に現存していた。

「……徹底抗戦ね」
「譲歩したほうが負けなのよ」

 帰ったらネックブリーガーからの両腕両足のサブミッションコースを叩き込んでくれる。

「好きな人の事を考えて料理を作ってくれる健気な年下の可愛い彼氏に関節技は酷いと個人的には思うんだけど」
「それを心の中で、かつ表に出さないように顔を取り繕ってくれると、私は嬉しいわ」
「眠たそうな顔してる割に口が回る事で」
「今は真顔よ」
「うそっ!?」
「素で驚かないでよ」

 失敬な。私は確かになまぐさだが、顔にまで表れるほどでは……あるかもしれない。

「ま、東条君は大事にしなさいよ? 今時あんなに純情な子って珍しいんだから」
「希少価値が高いのは認めてる」

 私を好きになるだけで世界天然記念物級の馬鹿である。

「あ、そう言えば」
「なに?」

 何かを思い出したのか、思い出してよかったと頷く藤代。

「剣道部って、二学期が始まってすぐに合宿行くのよ」
「はぁ?」

 だからどうしたと。

「無論、東条君も合宿に行くのよ」
「それはそうだ。あいつ、二年の主力部隊なんでしょ?」

 腕前の方は知らないが、藤代からの伝聞ではそれなりの戦力になっているらしい。

「うん。だから、合宿の間は東条君に会えなくなるんだけど……」

 なにやら、申し訳なさそうに言葉を濁している。
 ああ、つまり彼氏と離れて私が不安定にならないかとか心配しているのか。

「今までだって、そう言う状態になった事あるんだし、大丈夫よ。電話さえできれば十分じゃない?」
「景子がそう言うのなら、いいんだけど」

 なにやらまだ喉に引っかかっているようである。
 私は視線で先を言えと突っつく。

「会いたい時に会えないって、結構つらいよ?」

 その言葉に、私は鼻で笑って、こう言った。

「私の胸に泣きついたあいつが私の胸以外で泣くはずがな」

 思いっきり、はたかれた。

/ / /

 放課後を終えた俺は、何するでもなく学校を出た。
 最上級生の受験生ならば、この時期は真っ直ぐ家に帰って受験勉強、もしくは予備校へと足を向けるのだろうが、生憎と予備校には通っていないし、受験勉強に熱心と言うわけでも無い。
 かーさんや姉的存在からは大学には行っておけと言われているのだが、元来勉強と言うものに熱心に取り組む気が無い俺としては、進んで勉強しようとは思わない。
 精々が、片手間にやるくらいだ。
 そんな事を考えていて、ふと気が付くと商店街に来ていた。
 いつもの通学コースを進んでいたらしい。ついでとばかりに、母の職場の様子を見に行く事にした。

「あら、恭也。お手伝いに来たの?」

 ドアベルを鳴らして店に入ると、フィアッセが出迎えてくれた。
 高町家の姉的存在にして、世界規模のうたうたい。
 明らかに後者の方が重たいはずなのに、のんきに喫茶店のウェイトレスをしているところがフィアッセらしい。
 とりあえず、荷物をカウンター裏に置きながら店内を見回す。

「ん。今はそんなに混んでないようだな」
「うん。でも、まだまだ暑いからね。そろそろお客さんが入ってくるかも」

 そんな会話をしていると、入り口の方からベルが鳴った。

「とりあえず、フロアは今のところ平気だから、桃子の方に行って来てくれる? 多分、ラッシュになったらフロアになると思うけど」
「任された」

 チーフウェイトレスの指示に従い、俺は厨房へと足を向けた。

/ / /

「だから、ちゃんとご飯食べてよ? いっつも、適当で済ますから心配で心配で」
「んな、子供じゃあるまいし。人間食欲満たさないと死んじゃうでしょ?」
「欲望の方が重要なんだ、生き死により」

 彼氏と下校。
 まあ、学生の交際中でするべきイベントの一つをやりながら、私と紫は商店街を歩いていた。
 慣れ親しんだ道を歩きながら、横を歩く小柄な少年を見やる。
 お年は17歳。身長159cm、体重50kg。
 その名を東条紫(ゆかり)と言う。
 顔は子供と大人の境目特有の曖昧なライン。笑うと子供っぽいと自覚している彼は、笑顔と言うものを遠ざけようとするのだが、何せ根が素直なので、面白い事があれば問答無用で笑う子供っぽい性格をしている。
 その割りには、世話を焼きたがる面倒見の良いところもある。
 眠たければ腹が減っていてもその時の気分しだいで二日三日食べないで眠り続ける私を叩き起こして、口に冷たい素麺をつゆごとぶっこむ豪胆さも持ち合わせている。いや、こっちはどちらかと言うと私の性格ゆえに変化せざるを得なかったものだろうか。
 まあ、ともかくとして、私の横にいる彼氏さんは男らしく無い事に少々、いやかなり、もしくはとてもすごく気にしている普通の男の子である。
 私が言う『男の子』と言う響きも嫌いのようで、私が揶揄するときに使っているのもある所為で、一層嫌いになったそうな。
 そんな多感なお年頃の紫君は、自分が留守の間私が不精するのが心配でたまらないらしい。

「夏休みが終わって間もないから、すぐに乱れた生活するに決まってるんだから、それは諦めと言う妥協をする。それと引き換えに食事だけはとって、お願いだから」

 ……随分な言い方である。
 それに対して反論できないのも悔しい。

「爺もいるんだし、生きて会えるのは間違いないわよ」

 あの爺も余生は少ないが、食事は摂るのでそれにあやかればいいだけの話だ。

「……食事を摂るようになった事を喜べばいいのか、お爺さんに恵んでもらおうとしてる根性を嘆けばいいのか」

 今にも頭を抱えそうな紫に、私は言った。

「革新的な進歩ね」
「普通の事だよ!!」
「まあ、そんな生死の話しはしなくていいから、小腹が空いたから翠屋で奢れ」
「生死が係ってるのにさらっと流さないでよ! と言うか、奢るのは確定なの!?」
「彼氏が彼女に奢るのは宇宙の真理よ」
「年上の懐の深さを示そうとか思わないの!?」
「私は財布が重くなると持ち歩かない主義なの」
「なおさら、お金持ってるように聞こえますけど!?」
「今は漱石さんが一人だけ」
「夏の屋台のバイト代は!?」
「……さあ?」
「あさっての方向向きながら白々しく惚けないでよ」
「紫、お腹減ったよ」
「話し繋がって無いでしょ!?」

 とまあ、わいのわいの会話をしながらも翠屋に連れ込む事に成功。
 この界隈では有名な日本語ぺらぺらの美人外国人ウェイトレスの接客を受けて、紫が押し黙ったところで私の勝ちだ。
 大きな溜息を吐く紫はとぼとぼと言う形容詞をつけてもいいくらいに肩を落として席に着いた。
 その様子に、ウェイトレスさんは嫌味にならないくらいに小さくクスリと笑って、注文を取る。
 私はコーヒーとシュークリームを二つ、紫はメロンソーダとチョコチップクッキーを一皿頼んだ。

「いつもいつも、強引だよね」
「それが私」

 今更確認するまでも無い。

「それでも、優しいときは優しいから許しちゃうんだよねぇ」
「…………」

 私は照れくさくってそっぽを向いて、表情を隠した。それでも、紫はそんな私の心情はお見通しだと言う顔で笑顔になる。
 それがちょっと生意気なので反撃に出る事にした。

「付き合って半年で、優しくしないと潰されそうになる機会が多いのが悪い」
「ぐっ」
「第一。最初に泣きついてきたときの理由が、夢で私に振られると言うのがなんとも情けな……」
「そそそれは口に出さないって言ったでしょ!?」
「私は二人の秘密だって事で、誰にも言って無いだけで、あんたとの秘密なんだからこうして喋ってるんじゃない」

 秘密は共有する人間が話題にして、初めて秘密なのだ。
 双方が口にしないと言うのは、秘密ではなく封印である。

「だからって、公共の場で言う事じゃないでしょ!」
「まあ、隣の席の人間に聞かれてたら、ご愁傷様」

 崩れ落ちた少年に優越感を感じながら、お冷を口にする。

「どーして、そう、人の苦しむ様ばっか見たがるかなぁ」
「どうしてもこうしても、楽しいし?」
「いや、疑問系で言われても、僕にどうしろと?」
「質問を質問で返すのは悪い事よ?」
「正しい日本語を使わないのも悪いことだよ!」

 溜息一つ。口に水を運んで落ち着く紫。

「お待たせしました」

 丁度間が開いたところへ、注文の品が到着。トレーを片手に現れたのは、男の店員。無愛想な表情をしているが、それなりに鼻筋の整った綺麗な顔をしている。

「あ、高町先輩。ご無沙汰です」

 紫が、そんな美形ウェイターに挨拶をした。どうやら、顔見知りであるらしい。

「……ああ、東条か。……相変わらず、小さいな」
「ぐっ。これでも2cmは伸びたんですよ?」
「伸びるのなら10は伸ばせ」
「ご尤もです」

 テンポよく会話していく二人に私は、コーヒーを飲みながら眺めていた。
 そんな私に気づいたのか、ウェイター――高町とやらは紫に紹介を求めた。

「あー、えっと、こちらは三年の響谷景子さんです」
「どうも、高町恭也です」
「こんにちは、響谷景子です。こっちのちびっこいのの夜のダッチワ「やめようね!? 初対面の人に本性出すのは!!」

 いきなりのストレートパンチのダブルに高町は驚いたのか、どう言ったリアクションを取ればいいのか困った様子でこちらを見ていた。

「ええっと、その、こちらは広義的には僕の彼女と言う位置なんですが、どっちかって言うと保護動物飼育係と言いますか」
「私ゃ獣扱いですか」
「夜はそ、いいいいいいえいえいえいえいえ!! なんでもないDEATHよ!?」
「……絶賛混乱中なのは解ったから、落ち着け」

 意外と冷静なのか、高町はぽんぽんと紫の肩を叩いて落ち着かせる。紫も我に返ったのは深呼吸して心を落ち着かせていた。
 高町の落ち着け方に妙に慣れた感触を感じたのが引っかかるが、それは瑣末ごととして私はシュークリームをちぎって口に放り込んだ。

「……高町先輩。どうですか、この何も堪えていない態度。この図太すぎる神経に、毎回毎回どれだけ僕が苦労しているか」
「……男女間の事に口を挟める立場ではないが、男と女は相互理解と妥協が重要と聞いた事がある」

 高町はそこでいったん切って、目を逸らしながら言った。

「主に、妥協した方が苦労を背負うそうだが」
「――つまり、僕ですか」

 高町は少しの動揺を見せながらも(傍目には全く動じていないように見える)、紫の肩に手を置いて諦めろと瞳で言った。
 紫は、その場からトイレに向かって駆け出していった。

/ / /

「にしても、随分と親しそうね?」

 東条が撃沈したところでそう切り出したのは響谷だった。
 その目には、こちらを探るような意思が見える。
 彼女とは初対面と言うこともあるし、東条と親しい人間と言う事で値踏みされているのだろう。

「ちょくちょく、剣道部には顔を出していたのでな。赤星が可愛がっていたので、それが縁だ」
「ふーん?」
「疑わしい顔をするな。事実だ」
「ホモ疑惑のあるあんたの証言はあんまり信じられないけど」

 納得していない顔で、物騒な事を言う。
 ――と言うよりも、

「…………それは本当か?」
「Yes。運動部の女子は100%知ってる情報よ」
「…………訂正してくれ。俺は同性愛者じゃない」
「そんなの、自分で消せばいいじゃない。私に言わないで」
「噂の張本人が言ったところで騒ぎが大きくなるだけだ」
「じゃ、諦めれば?」

 それでは根本的な解決になっていない。
 明らかにこちらが慌てる様を見て楽しんでいる。
 真雪さんやリスティさんのようにからかってくるのには慣れているので、この程度で取り乱したりはしないが、だからと言って言われなれているわけじゃない。

「どうせ、後半年の辛抱だ。放っておく事にする」
「無難すぎ。もっと騒ごうとか思わないの?」
「賑やかなのはいいが、煩わしいのは勘弁だ」
「同感」

 突然、共感した響谷はきっかり3秒目を瞑って、口を開いた。

「仮評価。孤立傾倒周辺把握型。理性論理的思考力配備」
「………………」
「ま、害は無さそうだぁね。ただ、騒動の中心付近にいそうだからお近付きにはなりたくないけど」
「……ずばり、言うな」
「高町に言っても苦笑で終わると判断したからよ。普通の人間には言わないわ」

 コーヒーを啜って、店内のトイレがある方を見ながら言う。

「あいつが懐く理由も判るわ。面倒見がいい人間をかぎ分けるのは上手いから」
「……そうか」
「そーよ」

 シュークリームをちぎり口に運ぶ。コーヒーを適度に喉を潤す響谷に、俺はある事を訊いた。

「一つ訊いてもいいか?」
「詰まらない問いには答えない主義よ」

 一瞬、考えて彼女が詰まらないと判断すれば答えてくれないだけと判じて、俺は言った。

「…………東条は響谷のどこを好きと言ったんだ?」

 俺の問いに、響谷は首を傾げ、うーんと唸り、天井を眺め、またトイレの方向を見て、「ま、いっか」と小さく呟いて、はっきりと言った。

「おっぱい」







































 この日、翠屋、延いては高町家で初めての衝撃的出来事ビックニュースが巻き起こった。
 商売従事中の高町恭也(19歳 一留年)は、突然高笑いを上げ、腹を抱え涙目になるまで爆笑したらしい。
 この事は、翠屋店長を始め、店内にいた客を含む全ての人間が目撃して、女性限定で顔を真っ赤に染めていたと言う。
 年中無休生後19年間、大声で笑い転げた事が無い彼は、以後仕事が満足に出来ず早退した。
 家に帰り着いた頃には笑いの衝動も収まったようで、母親と姉的存在以外の住人がその話を聞いたとき、たいそう、大層悔やんだと言う。



「高町先輩、なんであんなに笑ってたんだろ? と言うか、高町先輩って笑うんだね」

 と、騒動の原因は何気に失礼な事を言っていた。



その二

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