「あれから一年か………」
 空を見上げれば相変わらずの青い空。
 一年前の騒動なんて無かったかのように思えてくる。でも、それはただの逃避で。確かにあの時俺はあそこにいたんだ。










「祐一ー。今日はなんだかおかしいよ?」
「おかしくもなってくるだろう。何で俺が走らなきゃならないんだ?」
 毎度毎度のマラソン登校を俺はこの三ヶ月続けてきた。はっきり言って、こんなに物事を続けたのはこれで三番目くらいだ。大体はあることが原因ですぐに諦めるんだけどな。
「それとは違う気がするよ」
「同じだ」
 名雪は微妙に鋭いところがあって困る。
 人の心理を簡単に見抜いてくるから、こっちは極力こいつの前では考えないようにしていたのに。まあ、考え無しってのもそれはそれで新たな発見があって良いのだが。
「兎に角。こんな短距離風マラソンは金輪際ゴメンだ。明日からは見捨てて行くぞ」
「そう言って二週間経つよね」
「………………………………」
 何も言えなくなった俺は無言でスパートをかける。それに余裕綽々で付いてくる名雪に俺は隠れてため息を付いた。
 あの頃はあの頃で騒がしい人間が一人いたが、こっちはこっちで騒動の種が尽きないので困る。俺は平穏無事に生きていきたいんだ。










 祐一達が走り去った後を人影が見つめていた。
 その人影はおもむろにポケットに手を突っ込み、中から手帳を取りだした。
「朝は毎日マラソンっと。あの人もかなり変わりましたね〜」
 メモを取って満足したのかその人影は歩き出していった。
「……私から逃げられるとは思わないで下さいねー!」




















螺旋のキセキ
第一話
From "kanon" (C) 2002 VisualArt's/Key
Presented by HIRO [TRASH BOX]




















 無駄に早く付いてしまった。
 いつもなら少し余裕を残して登校、と言うか全速力で走ってる時点で余裕も何もないのだが。兎に角、いつもより余計に早く付いてしまったのだ。
 いや、それに関しては大いに喜ばしいことだ。いつもいつも遅刻寸前な俺達が始業五分前に着いたから。ただ、周りの視線が懐疑的なのにはウンザリした。
 まるで幽霊を見たかの様に青ざめながらも、目の前にいる物を否定しようと頑張って言い訳を探しているように見えるのが俺の気持ちをダウンさせてくれる。
「きょ、今日は早いのね」
 現実を否定しようとしている香里。あからさまにどもってるんだが……。
「香里これは夢だ」
「そ、そうよね。私はまだ暖かいベットのなかで静かに眠ってるんだわ」
 とりあえず鬱憤を晴らさせて貰った。
 ブツブツと呟く香里を眺めて内圧を下げていく。こんな方法でしか安らぎを覚えられないなんて……。
「ひねくれてんなぁ」
 そう声を掛けてきたのは北川だった。
 どうやら、俺達がここにいることを素直に受け止めているらしい。お前ぐらいだよ。俺の知り合いの中で真っ直ぐなのは。
 北川に片手で挨拶をして俺は席に着いた。
 既に名雪は机に突っ伏している。いつものことだ。
 俺が席について一分もすれば教室もいつもの通りの光景が戻ってくる。
 椅子に座って始業を待っていると、近くの女子のグループから話し声が聞こえてきた。何となく聞き耳を立てる。
「アイズ様カッコよかったよねー!」
「そうそう! 私生で見た!!」
「あー!! あんたこの前学校休んだのそれを見る為ね!?」
「ふふふ! そうなのだよ。前の方の席は取れなかったけど、バッチリオペラグラスで拝見させて貰いました」
「このー! 羨ましいぞー!!」
「痛いってばー」
 彼女達が話しているアイズ様とは、世界的なピアニストのことだ。
 アイズ・ラザーフォード。
 彼はまさしく天才だ。彼の指が奏でる音は聴く者を圧倒する。
 新曲が出ればヒットチャートに長期間留まり続けるなど人気は高い。海外を中心に活動していたが、日本にも近年進出してきた。
 ラザーフォードの容姿と実力とが相俟って、年頃の女子達の間では神格化されている存在だ。
 確か今は、アメリカでレコーディング中だったはずだな。
 久しぶりに新曲を作ると言っていた。
「おらー。席に着けー」
 石橋が入ってきて俺の思考はそこで中断された。
 クラスの人間もぞろぞろと席に着く。
「あ〜、連絡はない」
 これもいつもの言葉。この言葉を聞いた途端に席を立ち上がる気の早い奴らがいた。
「あ〜、ちょっと待て。席を立つな」
 そう言って石橋が再び席に戻らせた。連絡はないんじゃないのか?
「連絡はないが、新しい生徒が転校してきた。おい、入ってきてくれ」
 石橋の言葉に応じて教室の扉が開いた。
 そこから出てきたのは両側に緩く三つ編みをした女の子がいた。転校したてなので制服が届いていないのだろう。この学校とは違う制服を着ていた。
 そして、その制服と人物には心当たりがあった。ありまくった。正直もう二度と見たくない顔と服の組み合わせだった。
「結崎ひよのです。月臣学園から転校してきました。よろしくお願いします」
 彼女が頭を下げたと同時に両肩のお下げも揺れた。















「じゃあ、本当にあの月臣学園から転校してきたのか!?」
「はい、そうです」
 にこやかに言い放つのはあいつ。北川はいろんな意味で押されていた。
「そんな名門校をわざわざ転校して、こんな学校に何故来たんですか?」
「何も言わずに突然転校していった新聞部副部長をお仕置きしに来たんです」
「はぁ……?」
 香里の疑問は良く解らない解答で返されていた。あいつにしか解らないことを言われても香里に解るはずがない。
 大体にして、俺の席の隣というのはどう言うことだろうか? 窓際の最後尾に配置されたのにあいつの席はその隣。謀られているとしか思えない所業だ。
 多分こいつが裏で手を回したに違いない。
「ね? 相沢さん?」
 自己紹介もしてないのにいきなり名指しで呼ばれたが無視した。
 こいつに関わってしまったら、要らぬ苦労を背負うのは俺だ。断じて無視だ。
 俺は返事をせずに教室を出ていった。
 どうせ授業はないだろう。石橋もそう言ってたし。
 俺は教室から逃げるように出て行った。




 明らかにいつもの祐一の行動ではないのでクラスの一同は奇妙に思った。彼なら何かしらやってくれるのではないかと期待していたのだが、ある意味その期待は裏切られた。
 呆然と祐一が出ていった扉を見つめる人達の中でひよのはクスリと笑った。
「そっちがその気なら私にも考えがあります」
 そう呟いたひよのの台詞は、誰にも聞こえなかった。




 休み時間ぎりぎりになって祐一は教室へ戻ってきた。
 授業中は静かに黒板を写していく祐一。普段の祐一なら間違いなく寝ている時間だ。教師は祐一が珍しく起きているのが嬉しいのか、それとも今まで寝てこられた恨みを晴らすためか祐一を集中的に指していく。
 時に無理難題を押しつけられるが、祐一はスラスラと淀みなく答えていった。模範解答並の答えを突き返された教師は悔しそうな顔をして授業を再開する。
 そんな構図が昼休みまで続けられた。




 昼休みになるまでの十分休みの時。祐一は素早く席を立ち何処かへと消える。その行動はあからさまにひよのを避ける行為だ。
 その様子を見て名雪はなんだか不安になってきた。
「香里。祐一どうしたんだろ?」
「さあ? 結崎さんが関係しているのは確かだと思うけど……」
 先ほどのひよのの台詞が引っかかる。

「何も言わずに突然転校していった新聞部副部長をお仕置きしに来たんです」

 あの台詞と祐一の名前を呼んだことから確実にあの二人は顔見知りの筈である。しかし、祐一は避け続ける。
 何故だろうか? 香里と名雪は頭を悩ませていた。









 昼休みになった。
 さっさとこの空間から出よう。あいつに何か言われても無視だ。
 俺が席を立つのと同時に隣から椅子を引く音がした。横目で見ればあいつがこちらを見て笑っている。
 俺はそれを無視してさっきからと同じように教室から出て行った。




 廊下をこつこつと二つの足音が聞こえる。
 俺の後ろを追ってきている人間がいるんだ。犯人は分かっているが、構ってしまっては負けだ。
 無視を決め込む。
「相沢さ〜ん!」
 名前を呼ばれても無視。
「相沢さん相沢さん相沢さん相沢さん!! あ・い・ざ・わ・さ・ん!!」
 連呼されても無視。
「もしかして本当に相沢さんじゃないんですか?」
 いい加減しつこいので少し相手をすることにする。相手をしてやれば帰ってくれるだろうし。
「俺はあんたの知る相沢じゃない」
「ええ〜? 私の情報網に落ち度があったんでしょうか? いいえ! そんなことは有り得ません! 全国の相沢祐一をピックアップしたんですから!!」
「 俺の他にも同姓同名がいるんだろ? きっとそっちだ」
「はぁ〜。そうなんですか。じゃあ、私が知らない相沢さん」
「……何だ」
 えらく癇に触る言い方だったが、堪えた。
「これを見て下さい」
「……これ? ……………………………………………………………………………………………!?」
 こ、これは!? 何故こいつが持ってるんだ!? ネガから何から全て焼却したはず!!
「私が知らない相沢さんには関係ないですけど、これを公表したいんですけど、本人じゃないなら許可が取れませんねぇ。仕方ありませんから無断に学校中の掲示板に張っちゃいましょう!!」
「それだけは勘弁してくれ!!」
「おや? 私が知らない相沢さん。何故止めるんですか? 私が知らない相沢さんには関係ないでしょう? あ! 同姓同名ってところで関係がありますけどね」
 ただそれだけですよねーなんて言ってやがる。
 しかし、これをばらまかれたら俺は二度と太陽の下を歩けないだろう。
 文化祭で女装した写真なんてばらまかれたら…………。
 ぞくりと背筋が凍った。
「無視して悪かった。謝るから、それだけは勘弁してくれ」
「ムフフ。私を無視したりするからです」
 こうして俺は全面降伏せざるを得なかったと言うわけだ。




「はあ。教室に帰るぞ。話はそれからだ」
「そうですねぇ。楽しみです」
 何となくこいつの考えてることが解った。昼時だから、こいつの目が怪しく輝いているのが見えたからか。兎に角、考えてることが手に取るように解ってしまった。
 何というか単純だ。
「あー。弁当はないぞ」
「ええ〜〜〜〜〜〜〜!?」
 案の定か。
「こっちに来てから台所に立ってない。だから弁当は作ってない」
「じゃあ、相沢さんは今までどうしてたんですか!?」
「学食で飯を食ったりとか……」
 後上級生の弁当にありついたりとか。
「……………………解りました。今日は諦めます」
「……大体、俺の弁当をなんであんたが横取りするんだ? 俺の昼飯だぞ」
「良いじゃないですか! 相沢さんの作るお弁当は美味しいんですよ。じゃあ、さっきまで私を無視した責任をとって、一週間お弁当を作ってきて下さい」
 そんなことを話ながら俺達は教室に帰ってきた。のだが、運が悪い事は続くらしく、
「相沢君、料理できたの!?」
 話を聞かれてしまったらしい。まずったな。
「はい。相沢さんの作る料理を毎日食べていた私が保証します」
「何であんたが自慢する」
 あんたに保証されてどうするんだよ。
「それは本当なのかしら?」
「うそつき」
 何やら、怒気を含んだ視線をびしびしと受けているんだが。
「…なるほど。あの二人もですか」
 何やら小声で言っている。その台詞は小さすぎて俺の耳には聞こえてこなかった。
「誤解するな。俺が作った弁当を横取りして食ってたんだよ」
 事実だけを伝える。あくまで俺は昼飯を奪われていた哀れなウサギなのだ。
 何とか二人を宥めて北川が気を使って買ってきてくれたパンを腹に詰めた。後で金は払うぞ。









「大体さあ。同じクラスなんて出来過ぎだろ? しかも、あんた、俺より上級生だったじゃないか」
「それは学校長を脅しゲフンゲフン…!! ぐ〜ぜんですよ〜」
 何かやったな。訊けば共犯者になることは明確なので深くは追求しなかった。俺は一般市民でいたんだ。
「……なぁ? この人一体何者なんだ?」
「北川。好奇心は猫をも殺すんだ。関わり合いになると吸い取られるぞ?」
「そんなことはしません! これは私の知的探求心を満足させるべく、日々趣味のためにかき集めたものです。その中に、他人のちょっと言えない物が入っていても何ら不思議はありませんよ?」
 そうやって人を脅して、情報を取ってきたんだな。
「例えば、この写し「ところで北川!!」……ちっ」
「な、何だよ」
 あの写真は誰にも見せられん! 見せたら最後、俺の品性が疑われる。くそ〜。何で、よりにもよって、最悪なこいつが持ってるんだよ!
 あいつが事ある毎に写真を見せようとするので必至にそれを誤魔化して、今日の一日は終わった。
 はぁ。ため息しか出ん。
 蜂の大群が襲ってきてもこの疲労感は感じないぞ。
 また悩みの種が出来てしまったな。