「さて、先ずは合格おめでとう」

 声を発したのは男性だ。低く落ち着いた声。その声の主は今高級な皮の椅子に座り、机に腕組みをしている。男の身を包んでいるのは青い服、警察の制服だ。胸には勲章らしき物が見える。その勲章の意味を示す物は警視庁警視総監。つまりは警察のTOPだ。
 机を挟んだ向かい側には五人の男女が居た。女性は一人だけ。全員若い。二十代前半と言ったところだろう。皆、緊張した顔で男の話を聞いている。

「君たちは今をもって警察官となった。君たちは我々警察の未来だ。そのことを自覚してもらいたい。これからの君たちの活躍に期待している」
「敬礼!」

 警視総監の話が途切れると同時に号令がかかった。
 部屋の中にいる五人が手を頭に付け、数瞬置いて元の体勢に戻る。

「君たちはこれから三ヶ月間研修に行ってもらう」

 警視総監とは別の男が数枚のディスクをもって五人に歩み寄る。彼は副総監だ。
 五人は渡されたディスクをしげしげと見つめる。それには個々の名前が書かれていた。しばらく眺めていたが直ぐに我を取り戻しディスクをポケットに仕舞った。

「そのディスクの中には君達の研修先が入っている。現場の現状をしっかりと把握し今後に役立ててくれ」

 そこまで言い、一呼吸置いた。

「では、解散!!」
『はっ!』

 五人は再び敬礼し部屋を後にした。




















Audacious
第一話
From "kanon" (C) 2002 VisualArt's/Key
Presented by HIRO [TRASH BOX]





















 逃げる。どこへ? 何処でも良い! あいつ等が居ないところなら何処でも。
 路地が見えた。考えるよりも早く身体が動く。壁に手を掛けて勢いを極力殺さないようにして曲がる。路地裏にひっそりと並んでいる怪しい店の看板が突然現れた。避ける暇もなくぶつかった。転びそうになるのを辛うじて堪えながら、とにかく足を動かした。
 路地を抜ける間、店から出てきた店員とぶつかりそうになった。これを身体を強引に捻ってやり過ごす。後ろからは慌ただしい足音が聞こえる。その音は段々とこちらに近づいている。
 男は必死に逃げる。足音ともに追ってくる恐怖に押し出されながら。
 必死に逃げたお陰か路地の終わりが見えた。

(あそこを抜ければっ!!)

 男が路地を抜けるとそこには一人の男が立っていた。

「見〜つけた」

 その男はにやりと口端を吊り上げる。

「な、ナンだよ!? お前は!?」

 その男は黒いカッターシャツと黒いスラックスを着ていた。シャツの裾(すそ)を出し、袖は捲っている。目元が隠れるくらい長い黒髪は風に流されているが、瞳は見えない。全部が黒かった。男が思ったのはその印象だけだ。
 黒服の男は戯けたように言った。

「警官だよ」

 その言葉を聞いた瞬間、今出てきた路地の方から声が聞こえた。男は反射的に後ろを向いてしまった。
 それは鮮やかだった。
 男が後ろに気を取られた瞬間走り込み、腹部に一発、顔に一発、拳を放った。道に倒れ込んだ所を馬乗りになり右腕を捻りながら取り上げる。男の呻く声が聞こえたが無視し、ポケットから鈍く光る金属を取り出した。それは輪っかの様な形をしている。
 手錠だ。
 がちゃりと倒れ伏す男の腕に打ち込み一回転してきた歯をまた入れ直す。続いて、もう片方の腕にも同じ事をした。

「うし!」

 黒服の男がそう言ったとき路地から数人の人間が出てきた。

「被疑者、確保。おーい。誰か、起こすの手伝ってくれ」
「まったく、何時の間にこんな所に来てたんだよ?」

 黒服の男に駆け寄ったのは金髪の男だ。白のYシャツにグレーのスーツを着ている。走ってきた所為で額にうっすらと汗が滲んでいた。

「お前等が必死こいて追っかけてくれるもんだから簡単にコイツが行きそうな場所が割り出せたんだ。人間、追いつめられると行動が単純になるからな」
「汚ねぇ」
「そう言うなっての。今度一杯奢るからさ」

 遠くの方にサイレンが聞こえた。サイレンの音は近づいてきて、男達の近くで消えた。パトカーが到着したようだ。

「ったく。おら、行くぞ!!」

 金髪の男と一緒に被疑者と呼ばれた男を立たせた。

「俺はコイツを送検してくる」
「任せた」

 金髪の男は未だに呻いている男を半ば引きずりながら、パトカーに乗せドアを閉めた。程なく発進する。

「やれやれ。さて、署に戻るか」

 黒服の男−相沢祐一は独言ちて署に向かっていった。















「けんしゅ〜い〜〜ん!?」

 俺が署に戻って先ほど確保した男の報告書を書いていると課長に呼ばれた。また小言かと思ったが、今週に入って特に思い当たる節もなかったので何故呼び出しをくらったのか見当が付かなかった。
 そして課長が俺に言ったのは小言ではなく、研修員が来ると言うことだ。
 別に研修員自体は珍しくはない。下から上がってくる人間も出世してそのまま現場投入というわけにはいかず、何日間かの研修期間が設けられている。その研修期間の成績で初めて現場に本格的に入って来れるというわけだ。もちろん成績が悪ければ出世は出来ず、また一からやり直しになる。あの時は大変だったなぁ。何せ見ること聞くこと全部初めてのことだったし。パトカー使うにも手続きがいるなんて夢がぶっ壊れたよ。
 それは兎も角。

「なんで俺が研修員の教育をせにゃならんのですか?」
「お前一人だけ空いているからだ。北川は斉藤と組んでいるし、細川は森重とだろ? 他に手の空いている奴が居ないんだ」

 何の因果か知らないが、城ヶ崎署刑事課は総勢八名。所轄としては標準的な人数なのだが、刑事課は基本的に二人一組で捜査にあたる。なので九人が通常なのだが、ここの警察署は八名。課長は俺達(平職員)とは組むことがないので一人端数になるのだ。そしてその端数が俺というわけだ。
 今までは一人と言う行動力を活かして捜査にあたっていた。それが二人となると、今までの捜査方法とか使えない。むぅ。どうしてくれようか。

「すいませんが、私めとしてもまだまだ半人前の身の上でして自分のことで手一杯なのですが……?」
「先月の麻薬密売の時の件だが……」
「相沢祐一巡査部長誠心誠意をもって教育に当たる所存です!!」

 あの件を出されたら洒落にならないぞ!! ちくしょー。

「そうかそうか。引き受けてくれるか!!」

 満面の笑みで俺の手を握ってくる課長。脂ぎっててあまり長くは触っていたくない感触だ。この狸め。

「研修員は一時にここに来る予定だ。まあ、仲良くやってくれ」

 かくして俺は研修員の教育係となってしまった。一人の方が身軽なんだがなぁ。




















「はあ、あの娘達。不安にさせるような事言って……」

 そう言って深いため息を付いてのは美坂香里だった。
 肩下まである軽くウェーブがかかっている髪を掻き上げながら歩いている。彼女の容姿は見る者を引く容姿だ。今、彼女の横を通り過ぎたサラリーマンの男は見とれて電柱にぶつかった。鼻が潰れて血が出ている。自業自得である。

「何も直前で言うこと無いじゃない」

 先ほどから愚痴を言っているその理由は、ここ(城ヶ崎署)に来る前の同僚の台詞が頭をちらついているからだ。















「香里は何処の配属になったの?」

 同期の友人水瀬名雪が訊いてきた。
 彼女とは高校時代からの付き合いだ。
 香里は刑事課志望だが、名雪は交通課志望だった。これから互いに忙しくなるからと言うのと、香里が国家試験に無事に合格したことの祝賀会をしていた時、唐突に名雪が訊いてきたのだ。
 そもそも、香里には何故この年中爆睡娘が試験に受かったのか不思議でしょうがなかった。

「なになに〜? 何の話〜?」

 もう既にいくらか出来上がっている声で香里達に寄ってきたのは同じく同期の上原遥だ。彼女は名雪と同じく交通課志望である。

「香里の配属先のことだよ」
「ああ〜。確か研修生とか言って、三ヶ月どっかの署にお邪魔するのよね?」
「そうよ。私の研修先は……城ヶ崎署だったかしら」

 香里が渡されたディスクには配属先の名前と住所その他諸々と職員の名前と今までの経歴が入力されていた。何気にプライベートな事まで入っていたのには面食らった香里であった。面食らいながらも香里は渡されたディスクのデータは頭に叩き込んでいた。何が必要になるか解らないからだ。

「城ヶ崎署? 何処かで聞いたことがあるような〜?」
「確か城ヶ崎署って私と上原さんが配属される所の近くじゃなかったっけ?」
「いや、それはそうなんだけど…………ああ!! 思い出した!!」

 遥はポンと手を叩いた。

「城ヶ崎署って確か『常識破りの異端児』なんてあだ名が付いてる刑事が居るところじゃない!」
「何? その『常識破り』って言うのは?」

 とてつもなく不吉なあだ名である。既にその刑事のことを一言で言い表している何とも安直なあだ名である。しかし、絶対に関わり合いたくない人間であることは確かだ。

「何でも、警察のマニュアルにない行動をして懲戒免職になりかけながらも、首の皮一枚で繋がっている刑事のこと。常識破りなお陰で難事件を解決してるらしいわ」
「居るんだねぇ。漫画に出てきそうな人だよ」
「その人をイメージしたドラマがやるとか言う噂が有ったりもするのよ」

 いきなり胡散臭くなった。テレビの制作者側としてはこれほど美味しいネタはないのだろう。何でもお金にしたがる悪い癖だ。

「そんな刑事とは組まされたくないわね」

 下手すれば連帯責任で懲戒免職だ。それだけは嫌だ。

「大丈夫よぅ。首の皮一枚で繋がるって言ってるじゃない」
「そう言う問題でもないでしょうが」

 酔っぱらっている人間に何を言ってもダメである。酔っぱらいは全てを楽観的にしか考えず、しかも後先を考慮に入れない言動を取るから始末に置けない。

「ドラマ的には香里はその『異端児』さんと組まされることになるのかな?」
「そんなことがある訳ないでしょ!! 現実はそんなドラマみたいになる訳ないんだから!」

 名雪の天然な発言に必死に反論する香里。そんなことが本当に起こったら困るぐらいでは済まされない。香里の脳裏に懲戒免職と言う単語がちらついた。香里はそれを必死に振り払おうとする。
 が、しかし、

「私が聞いたのは銃をもってコンビニ強盗した男に無許可でライフル持ち出して応戦したとかー」

 香里の脳裏に殉職という単語がプラスされた。

「車で逃げる犯人にパトカーでカーチェイスして海に突っ込んだとか」
「不安を煽るような発言は止めてよ!」
「えー、だってただの噂じゃない。実際、そんな事件起こってるのなんて聞いたこと無いわよ」
「私もないなー」

 遥の意見に名雪も賛同する。実際そんな事件は耳にしたことがない。噂は尾ひれが付いて広まっているのだろう。

「そうだけど……」

 香里は未だに頭の中でぐるぐると回っている二つの単語に悩まされていた。
 懲戒免職と殉職。
 それだけは絶対に勘弁して欲しかった。

「ま、私達には関係のないことだけどねー」
「他人事だと思ってぇ!」

 遥の無責任な言葉が香里の怒りを助長する。

「ああ、香里様!? どうかお怒りをお鎮め下さい〜!! 言い過ぎましたー!!」
「……分かればよろしい」

 ほうと胸を撫で下ろす遥。香里は怒らせると本当に恐い。怒りの形相ならまだしも、笑顔で居るときが真に怒っているときだ。過去に一度だけ傍目から見たことがあったが、自分でなくて良かったと心の底から思っている。あれは触れてはならない領域だ。あれを見て以来、遥は香里を極力真の怒りモードにしないよう努力した。だって、とばっちりでも嫌だし。

「まあまあ。そんなことより、今日はぱーっと飲もうではないか!」

 そうして祝賀会は全員泥酔になるまで続けられたのだった。全員が二日酔いになったのは言うまでもない。





 三日後。
 言い替えると、今日は刑事として初出勤である。例え見習いだろうと、世間からは刑事として見られるのだ。警視総監と対面した時とは違った緊張が香里を包む。
 また、新しい環境への不安もある。その不安の中にはこの三日間常に頭の隅にあった『異端児』のことも含まれている。

「…………まさかね?」

 三日前の名雪の言葉がリフレインする。

『ドラマ的には香里はその『異端児』さんと組まされることになるのかな?』

 何ともお気楽な事を吐いてくれた物だ。あんたのお陰であたしがどれだけ悩まされたことか……。
 名雪にはまったく他意がないことは解っているのだが、それでもあの言葉はないんじゃないのかとも考える。しかし、考えたところでどうにかなる理由もないので香里は意を決して署内へ入ることにした。出来れば普通の人をと願いながらも……。















 時計の針は今一二時五〇分を指している。確か、研修員が来るのは一時だったな。
 そのことを考えるとため息が出てしまう。

「何だって俺が教育係にならなならんのだ?」

 目の前で舟漕ぎをしている北川にでも頼めばいいじゃないか。めちゃくちゃ暇そうに見えるぞ。俺は報告書が溜まってて休憩もないのに。
 世の中不公平だ。
 愚痴ってもしょうがないので、目の前の書類に集中することにした。今日こそは定時に帰りたいからなー。

「すいません」

 これは……。ああ、一週間前の空き巣か。
 …………。
 おりょ? 確かこれ前に書いた筈なんだが。って、これ斉藤の書類じゃねえかよ。書類の記名欄に『斉藤修司』と名前が書いてあった。
 俺はぺしと隣の斉藤の机に書類と叩き付け、次にかかる。

「北川ー。お客だぞ」

 誰か尋ねてきたので先ほど暇そうにしていた北川に接客を促す。ついでに、机の下に足を突っ込んで蹴ってやった。
 うつらうつらと頭をカクカクと前後に揺らしながら、北川の席を立つ気配を感じ取った。俺は顔を上げず、さらに書類をめくる。
 三日前のひったくりか…。確か犯人は学生だったな。まったく、最近の若いもんは何を考えてるんだか。金あんだろ、金が。
 ちゃっちゃと書いて次へ。

「どういったご用……け…ん………」
「……あの?」

 今度は請求書が出てきやがった。うへ!? 何枚あるんだ、これ? 怠けてたからなー。でも、これ書かないと俺の自腹になってしまう。それは非常に御免被りたい。

「あ! はい、すいません! それで、どういった御用件でしょうか!?」

 あー、これは被疑者の尾行中の奴か。む? こっちは俺の自腹か。何か色々ゴチャゴチャしてるな。
 先ずは、自腹のと経費とに分けるか。

「研修で来たんですが……」
「研修? 課長ー! あれ。居ない」

 これとこれは経費でー、こっちは自腹だな。……何じゃこりゃ? 1/60Sガンダムゥ!? しかもMGシリーズ。俺は持ってないぞ。誰だよ。領収書なんて取って来るのは。
 俺も欲しいのに。家にはまだ明けてもいないシャイニングガンダムとHGνガンダムが眠ってるのに。

「おい! 課長は何処に居るんだよ!?」

 突然視界が揺れた。な、なんだ?

「……北川か。何だよ? 俺は溜まってる仕事を片付けたいんだよ」

 景色が揺れたのは北川が俺を揺らしたかららしい。俺は自分の仕事を片付けて帰りたいんだ。

「それは解ってる。が、そんなことよりも課長は何処だ?」
「……俺が知るかよ。だいたい、課長に何の用なんだ?」
「研修員だって人が来たんだよ。ちなみに、かなりの美人だ」
「研修員? ああ。来たのか」

 部屋の壁に掛けられている時計に目をやると丁度一時だった。時間通りに来たんだな。ちなみ、北川の後半の台詞は聞いてなかったりする。

「何だ知ってるのか?」
「さっき課長に言われたんだよ。俺が研修員の教育係だって……」
「なにいいぃぃぃぃぃぃ!?」

 突然、北川が魂の咆吼をあげた。耳の近くで言われたから頭の中がキンキン言ってる。
 パンパンと自分の耳を叩き鼓膜が破れていないか確認して、その手をそのまま北川の頭に叩き込んだ。
 俺の拳によって北川昏倒。
 俺は北川に一瞥くれると、さっきから待たせている研修員の方へ歩み寄った。

「待たせてすまない。えーと、名前は?」
「あ、はい。美坂香里です」

 美坂香里と名乗った女性は慌てた様子で頭を下げた。

「ああ、頭下げなくて良いから。俺は相沢祐一巡査部長。一応君の教育係だ」
「三ヶ月間、よろしくお願いします」
「だから、そんなに畏まらなくて良いって。さて、何から教えたもんかね」

 今のところこれと言って教えることはない。教えられるとしたら書類書きぐらいか。

「うーむ」

 俺が何から教えようか悩んでいると、部屋をつんざく音が鳴った。出来れば永久に聞きたくない音なのだが……。それでも、刑事としての習慣からその音に聞き入ってしまう。

『緊急警報。城ヶ崎二丁目の繁華街において殺傷事件発生。容疑者は被害者を刺した後逃走。目撃情報は追って伝えます』

 部屋に備え付けられているスピーカーからアナウンスが入った。

「おい! 北川、寝てる場合じゃないぞ!」
「解ってる!」

 斉藤が北川を叩き起こし、ドタドタと部屋を出ていった。
 俺はとことこと課長の席の横に歩き、そこに置いてあるマイクの電源を点けた。

「こちら本部。現場の状況は?」
『こちら城ヶ崎七号。被害者は腕と足に一カ所ずつ傷があり出血は少量。先ほど、城ヶ崎病院に連絡しました。命に別状はない様子です』
「了解。被疑者は?」
『目撃者の証言では、黒のジーパンと白シャツ。シャツには背中に英語の文字が書いてあったとのことです。後、応援をもう少しお願いできませんか? 野次馬が凄くて』

 現場は繁華街だったからだろう。この時間だと人が多い。

「了解した。君たちは野次馬の抑えにまわってくれ。俺も直ぐに向かう」
『課長は?』
「どこかに行っちまった。何処にいるか皆目見当が付かない」

 平職員の俺が応対していることから疑問に思ったのだろう。
 無線機の向こうからため息が聞こえた。

『……とーさん。仕事してよ』
「聞こえてるぞ」
『……ぇ!? あ、あの! 今のはなかったことに……』

 かなり慌てた様子で弁解する。

「言わないから仕事しなさい」
『…………解りました。信じてますから……』
「……誤解を招くような発言をするな」

 ただでさえ謂われのない中傷を受けてるんだぞ。

『私的には誤解から始まって欲しいなーと……』

 ぷちんとマイクの電源を落とし俺の後ろで手持ちぶさたの様子の研修員に振り向いた。

「じゃ、行くぞ」
「了解」

 研修員−美坂香里−は表情を引き締めて頷いた。















 現場には車で向かった。当たり前だが。許可を取るのが面倒くさいんだが、研修員がいる手前走るわけにもいかない。一人だったら走るんだがなー。
 現場は野次馬でごった返していた。
 俺は警察手帳を掲げながら強引に人垣に割り込んでいった。後ろに付いてきている美坂巡査にも注意を払う。
 見習いと言っても三ヶ月間刑事の役職に従事するので研修員には階級が設けられる。研修員は出自に関係なく巡査だ。尤も、親が警視総監だって言うなら警部から始まったりするんだろうな。
 ま、そんなこと今は関係ない。仕事仕事。

「付いてこれるか!?」

 野次馬の騒音で声が届かない。俺は仕方なく声を張り上げて美坂巡査に聞いてみた。

「大丈夫です! あ、ちょっと! 何処触ってのよ!?」

 後ろでばきっと音がしたが意識下から強制排除して先へ進むことにする。知らぬが仏な時もあるのだよ。

「通して下さーい! 警察でーす!」

 何とか現場に張り巡らされているテープまで来た。ここまで来るのに一日分の労力を使った気がするぞ。
 ロープの見張り番をしていた警官に手帳を見せ許可を得て、ロープをくぐった。美坂巡査も俺に続く。テープの中は天国だった。死体あるけど。

「さて、北川は何処に居るんだ?」
「さっきの人ならあそこにいますよ」

 美坂巡査が指差した方向に北川が居た。あの金髪とアンテナは確かに北川だな。

「うし、事情を聞きに行くか」

 俺達は北川の所へ寄っていった。

「北川。状況は?」

 俺は後ろポケットに入っている手帳を取り出しながら聞いた。
 俺の行為にはっとさせられたのか美坂巡査も慌てて自分の手帳を取り出した。

「被疑者の背格好は一七〇cm前後。黒のジーパンと白のシャツ。シャツの背中は英字のプリント」

 さっき聞いたのと変わりは無しか。

「被疑者は被害者を斬った後、繁華街のどこかへ消えてしまったそうだ」
「被害者の身元は?」

 俺の問いに北川は淡々と回答していってくれる。

「松岡誠司、三〇歳。弁護士。名うてらしい」
「はぁ……」

 よりにもよって弁護士かよ。恨みでも買ったか?

「弁護を引き受けている依頼人の所に向かっているところで襲われたらしい。容疑者は…多数」

 一気に気力が萎えた。これじゃ今日も帰れないな。

「絞り込めないんですか?」

 今まで黙っていた美坂巡査が口を挟んだ。

「今の情報だけじゃ無理だな。これからの捜査次第だ」

 とりあえず今は捜査しかない。俺は美坂巡査を諭して車に戻る事にした。















 車のドアを開け乗り込む。シートベルトを持ちながらさっきから仏頂面の美坂巡査に話しかける。

「どうした? 想像と違ったか?」

 刑事に憧れてって言うのは良く聞く理由だが、あれはドラマの中での話。実際は地味な仕事の方が多い。やってることはそこら辺のサラリーマンと変わらないんだよな。ただ、命の危険が伴ったりするけど。

「いえ。容疑者が多数ってところで許せない物がありまして……」

 どうやら俺が考えていたのとは違うことに憤慨しているらしい。

「世の中、ああいうのが日本経済を動かしてるんだよ。ただ、容疑者に関しては多少は絞り込めるだろう」

 俺の言葉に美坂巡査は驚きの声を上げた。さらに半目にして俺を凝視してくる。完全に俺の発言を疑ってやがる。
 俺はそれを気にしないことにした。無視だ無視。

「被害者は弁護士だったわけだが……弁護士を襲う奴ってのは大体パターンがあるんだよ」

 美坂巡査は俺の話をただ黙って聞く。
 車のキーを回しエンジンに火を入れる。

「弁護している人間を不利にしたい場合。ある被告人の弁護に失敗しその逆恨みを買った。犯人は被告本人でもその関係者でも良い。後は、突発的な通り魔的場合」

 サイドブレーキを下げてアクセルを踏み発進させる。
 美坂巡査は目を見開いて俺を見ていた。そんなに意外なのか? 俺ってそんなに頭悪そうに見えるのかなぁ。

「今回の場合、二つ目のは除外。北川の証言からだと松岡は腕が立つらしいからな。まあ、可能性的に低いってだけだ。もしかしたらこれが真実かも知れない」

 数十m先の信号が黄色に変わった。ゆっくりと減速しながら直進車線に車を入れる。

「残ったのは弁護している人間を不利にしたい場合と通り魔的な事件。まあ、俺としては前者の方が大変そうだから後者になって欲しいんだが……」

 ウィンカーを左に点灯させ、左折する。
 その時車に備え付けられている無線から声が聞こえた。

『本部より各職員へ。被疑者の居場所が判明した。被疑者が目撃されたのは城ヶ崎駅の東口。連絡が入ったのは今から十分前。まだ付近にいる物と思われる。各員現場へ急行してくれ』

 無線から流れてきたのは課長の声だった。俺は無線のマイクを取りスイッチを押す。

「課長。どこ行ってたんですか?」
『うむ。野暮用でな。それより、お前研修員には会えたか?』
「隣にいますよ」

 香里の方を一瞥し視線は前に向けたまま俺は喋る。

「それより、京香。怒ってましたよ。仕事してよって」
『たまたま俺が部屋にいなかっただけで怠惰人間にされるのは理不尽だと思うんだが……』
「シャラップ。事件は何時如何なる時でも起きるんだから、そんな言い訳通用しませんよ」
『一本取られたな』

 俺と課長は低く笑いあった。

「あの、それ、貸して下さい」

 俺と課長の笑いの引きを見計らって美坂巡査がそう言ってきた。俺は無線機をポンと手渡す。

「平岡課長ですか? 私は本庁より研修員で派遣されました美坂香里です。こんな形で挨拶をしてすみません」
『ほう、声を聞くとえらく美人のようだな…』

 何で声だけでそこまで解る?

『うむ。美坂巡査は正式に城ヶ崎署の職員となった。三ヶ月よろしく頼むぞ』
「全力を尽くします」

 美坂巡査は無線機に向かって軽く頭を下げた。

『相沢。被疑者の居場所予想できるか?』

 課長は話を切り上げ仕事モードに入ったようだ。ようやく真面目にやる気になったか。

「無理ですね。情報が少なすぎます。もう少し情報が欲しいです」
『情報はこちらで集める。今は、被疑者を追ってくれ。それで確保できるなら越したことはない』
「解ってますよ。では」
『頑張ってくれ』

 俺はハンドルを切った。















 とりあえず繁華街へとやって来た。
 人捜しに車は邪魔なので入り口近くの所の路上駐車した。

「あんなとこに置いてきて良いんですか?」

 美坂巡査は俺が路駐したことに不満があるらしい。

「大丈夫だよ。いざとなったらこれがあるし……」

 そう言って俺は尻をぽんぽんと叩いた。そこには警察手帳が入っている。

「……あの、つかぬ事を聞いても良いですか?」
「ああ、良いけど。美坂巡査、俺には敬語はいらないって言っただろ」
「友人から聞いたんですが……、城ヶ崎署には『常識破りの異端児』という人がいるって聞いたことがあるんですが…」
「……なんだそれ?」

 『常識破りの異端児』? 何やら物騒な名前だ……。うちにそんなのいたか?

「……聞いたことないなあ」
「……そうですか」

 美坂巡査は残念そうな、それでいて嬉しそうな顔をしていた。何なんだ?
 それは一時置いて置いて、俺達は城ヶ崎駅東口に到着。辺りを見て回る。被疑者の服装は……

「黒のジーパンに白シャツなんて腐るほどいるぞ」
「英字のプリントだけでは判別できませんね」

 きょろきょろと周りを見るが、同じような服装の人間がごった返していた。ただでさえ人が多いのにこんな中で人一人捜すなんて不可能だって。

「相沢ー」

 雑踏を掻き分けて森重と細川がやってきた。びっしょり汗をかいていることから結構捜索したのかも知れない。

「そっちはどうだ?」
「いや。こっちは駄目だった。大体の所を探したが、それらしい奴らばっかりで誰に任同かければいいか判らん」
「学生は夏休みにあった辺りだからいつもより人が多いんですよ」

 そんなことだろうと思った。

「ち。これじゃ探しても見つからない。一旦署に戻ろう。おい、そこの汗っかき」
「誰がだ!」
「車に乗っけてやらないぞ」
「ご一緒させていただきます」
「細川!」
「長い物には巻かれろです、先輩」
「くっ」

 森重は悔しげな顔を見せた後、忌々しげに細川を睨み、俺に向かって頷いた。

「じゃ、早く行くぞ。ここは暑くてやってられん」

 後ろで美坂巡査が溜息を付いていた。















 署に戻ると課長が椅子にふんぞり返っていた。

「涼しそうですね」

 そう言ったのは美坂巡査。車の中冷房ガンガン効かせても、四人乗ってるからそれほど涼しくならず、代わりに汗がだらだら出ていた。彼女は額から流れる汗をハンカチで拭き取ってたっけ。それでも治まらないから窓明けて風を拭き入れてたなぁ。なびく髪と流れる汗をじっくりと堪能させてもらいました。ちなみに、余所見運転です。

「お、君が美坂巡査か。予想通り美人な娘じゃないか」
「セクハラです」
「こりゃ手厳しいなぁ」
「と言うか、課長も少しは働いてください」
「やってるって。新しい情報入ったぞ」

 グロッキーの森重達は机にぐったりしていた。まあ、後で聞かせればいいか。

「被害者の松岡弁護士が顔を見たって」
「それで?」
「歳は二十代前半。もしかしたら十代後半かも知れない。サングラスをしていて解らなかったそうだ。後、金髪」
「うーん。通り魔ですかね?」
「それを捜査するんだ。森重と細川は弁護士から詳しく事情を聞いてきてくれ。北川と斉藤は引き続き目撃証言の収集を頼んでいる。君達二人は弁護士の身辺調査な」
「げ、何も一番面倒くさいのを回さなくても……」

 こっちは新人を抱えてるのに。

「一番厳しい物を経験させておけば後が楽に感じるからな」
「あーほうでっか。じゃ、行くぞー」
「あ、はい」

 課長の意地の悪い笑顔をさっさと振り払って部屋を出た。















「身辺調査ってどうするんですか?」
「んー? 事件によって調べ方が変わったりするんだが、今回は結構楽な方かね」

 今回、松岡は弁護士と言うことで弁護士会からの批評と事務所からの評判。後は友人関係と家族関係の把握。こんな所である。

「弁護士会の成績と同期の奴を掴まえて評判を聞きに行く。その後は、事務所に行って評価と評判を聞く。後は、あいつの出身校と大学を調べて友人関係の調査。最後に家族からの印象を聞きに行く」
「聞いてるだけで、辛いですね」
「だろ? 足が棒になるまで歩くぞ」

 そう言うと美坂巡査はかなり嫌そうな顔をした。まあ、誰だって嫌なものである。面倒くさいは。

「あ、そう言えば君ってキャリア組?」
「そうですが……」

 だから何なんだという表情。それと、少しの嫌悪。そんな目で見るなと言う目である。どうやら、彼女はノンキャリで差別する人間ではないらしい。

「何処の大学?」
「慶応です」
「へー。何で警官なろうとしたの?」
「憧れてたんですよ」
「……もしかして、ドラマとかに?」

 そうであるならかなりの落胆があるだろう。あれは展開のテンポやらのせいで警察の裏側とか全く出てこない。事情聴取してくれって一言言うだけで、情報がぽんと出てくるわけがないのだ。少なくとも一日はかかる。それなのに、ドラマは僅か五分足らずで情報を引き出してくるのだ。そんな魔法があるなら教えて欲しいものだ。

「いえ。前に、色々とお世話になったんです」
「あんまり、警察の世話になるのは良くないと思うが……」
「そうですね。私もそう思います」

 どの様な形で関わったのか知らないが余り突っ込むのも気が引ける。俺は話を変えた。

「歳は?」
「二十三です」
「あれ。俺と同じ?」
「え。そうなんですか?」
「そう。俺と、金髪の野郎がいただろ? あいつとは同期。俺は早生まれなんでね。未だに二十三なんだ」
「私もそうです」

 結構な偶然である。

「だからさ。敬語は止めない? 同い年だし」
「……解ったわ」

 どうやら、気持ちの切り替えは速いらしい。良いことである。

「じゃ、まずは弁護士会に行くぞ。俺は手続きしてくるからロビーで待っててくれ」
「ええ」

 俺は交通課に手続きを取りに行った。















 あたしはロビーに設置されている待ち人用のソファーに座った。なれない内から事件の調査になるとは流石に気疲れする。とにかく今は、見ることやること全てが初めてだ。一つ一つ吸収して行くしかない。
 私の担当になった相沢巡査部長は気さくな人だったわね。親しみやすい性格というのか。何処か、優しい雰囲気がある。どうやら、遙の噂は真実ではないようだ。相沢さん自身そんな話は聞いたことがないと言っていたし。噂は所詮噂でしかないと言うことだ。
 ソファーに身を預けて気を抜くと、少し冷静になれた。今なら、事件について少しは考えられるかも知れない。
 今回の事件の被害者は弁護士の松岡誠司、何でも腕が立つらしい。ならば、何処かで恨みを買う可能性もあるわけだ。
 被疑者は二十代前半の男性。平凡な服装をしていたところから、計画版の可能性がある。何より、松岡弁護士の行動スケジュールを知っていたのかもしれない。
 ああ。だめだ。
 これでは先入観が入ってしまう。マニュアルにあったじゃない。
 私は頭を振って先程の思考を捨てた。そこへ、相沢さんがやってきた。
 手に車のキーを引っかけてくる来ると回している。見ようによっては、ナンパしてるように見える。
 事実、彼の知り合いであろう人から茶化されていた。

「相沢ー! 頑張れよー!」
「おう! 漸く掴んだチャンスだ。失敗するわけがない」

 軽口を叩くのは彼の癖なのかも知れないと思った。

「ほい、お待たせ。じゃ、行きますか」

 軽い調子は残っているが、仕事には幾分真面目になるらしい。ほんの少しだけれど。

「出来れば、仕事に真面目になって欲しいわね」
「真面目にやったら、病院行きだ。俺は神経胃炎で入院したくない」

 それは、私も同感だと思った。