既に夕闇も終わった午後六時半。
滑りの悪い自動ドアを潜るのはまだ大人になりきっていない一組の男女だった。肩を寄せ合い、互いの体温を感じ合っている。それを、曇った自動ドアの向こうから一人の老人が何するでなく眺めていた。瞳には既に感情の色さえ混じっていない。絶え間なく見続けていたからそのようになってしまった。いちいち心を動かしていたら身が持たない。第一にして自分がやっている商売の客人だ。そうそう無碍にも扱えない。例え、見た目が高校生であろうとも。
ドアの向こうは少々肌寒かった。吐く息が白いとまではいかないが、それなりに寒い。こう言う時に人肌が恋しくなるのだが、今はお別れの時だ。
俺は彼女の方から手を離して正面を向いた。甘い女性の匂いと石鹸の匂いが鼻孔をくすぐる。何度も嗅いできて既に感慨もない匂いだった。
「もう、お別れなんだね……」
夢のような時間はあっという間に過ぎる。楽しいことは一瞬のくせに悲しいことは尾を引きずる。まあ、今は悲しいことは関係ない。先輩は楽しかったと感じてくれたなら幸いだ。
「また、良いかな……?」
顔を上気させ俺に問いかけてくる。もちろん俺は良いよと言って頷いた。もちろん、笑顔でだ。
「じゃ、そろそろ行くね」
寂しそうな顔をする先輩を見て、俺は腕を優しく掴んだ。そのまま身体を抱き寄せて、口付けをする。情熱的なキス。身体の芯がとろけそうになるほどの熱いべーぜをして、俺はようやっと先輩の身体を離した。彼女はぼうっとした瞳で俺を見上げるだけ。その視線の中に熱いモノが混じっているのは一目で解る。しかし、今はお別れの時。また会うときまでの挨拶だ。
「……はぁ。お別れの時は何時もするんだから。だから、次もって思っちゃうんだよ」
「俺としては綺麗な先輩とは何度でもって思うけど?」
「こら。年上をからかうな。あんまり調子乗ってると、あの二人に言っちゃうぞ?」
「うっ、それは勘弁」
それは、マヂに勘弁して欲しい。
姉弟として、人として、あの二人は俺の行為を怒るだろう。まあ、当然か。でも、俺はこれが悪いとは思っていない。一時の快楽に身を委ねることは良いことだ。一時(いっとき)でも全てを忘れられるならそうしたいと思う。
世間の柵(しがらみ)や、モラルや、親の目。全てを忘れたい、逃げ出したいと思うときは必ずある。その一時を俺が提供できるならいくらでもしよう。
何時の頃から始まったこの行為の根幹はそんな思いがあったからだ。でも、あの二人は全く理解してくれない。それは、家族故の怒りなのか、或いは……。
「じゃ、もう行くね。また今度付き合ってね」
「お安いご用です」
そのまま彼女は駅方面の道に消えた。俺は踵を返して住宅街を目指し、地面を踏みしめた。
血脈幻想
Presented by HIRO
帰宅したのは午後七時を少し回ったくらいだった。秋の夜風は制服越しでも寒いもので、俺は身体を丸めて玄関を開けた。玄関は暖かくなかった。それでも外よりは幾分楽にはなる。風がないだけマシって事だろう。俺は、靴を脱いで二階にある自分の部屋に向かうことにした。歩いたことで暖められた足には冷たいフローリングは少々キツイ物がある。しかし、我慢するしかない。
二階へ通じる階段の一段目に足をかけようとした時、リビングのドアが開いた。顔を出してきたのは姉貴だった。
「あ、やっと帰ってきた。姉さーん。帰ってきたわよー」
顔を出してきたのは俺の一つ上の姉貴、美咲だった。もう一人、双子の真琴ってのもいる。
二人は学校でも有名な美人姉妹だ。二人のお近づきになろうという輩は後を絶えず、そのとばっちりを受けて俺にも何人か群がってきたこともあった。全て撃退したが。
俺の二人の姉貴は双子と言ったが、一卵性ではなく二卵性。だから顔も似ていると言えば似ているのだが、双子のように瓜二つというわけではない。共に、美人な顔立ちをしているが姉妹だと解る程度に似ているだけである。
姉貴は、姉さんに俺の帰宅の報告をした後、俺に近付いてきた。自分の部屋に用でもあるのかと思ったが、明らかに俺を見て近付いてきている。と言うことは、俺に用があるって言うことだ。何だろうか?
「……あなた、また『喰った』 わね?」
ぎくっ
何故解ったんでしょうか? 別段こちらは何が変わったと言うわけでもない。髪を切ったとか、耳にピアスを付けたとかの外的要因があるわけでもないのに、姉貴は確信的に言い当てる。しかし、ここで顔に出しては面白くもないので俺は心外だという顔を作った。
「何でそう決めつけるんだよ? 俺が何時も何時もそうだって言うわけじゃないだろ?」
「いいえ。『喰った』わね。女の匂いがする」
あなたの嗅覚は犬並ですか? シャワーまで浴びたんだから匂いも何も落ちてるはずだった。
「シャンプーと石鹸の匂いがする。後香水の匂いも……」
不覚。
ホテル出るまでくっついていたのがいけなかったのかも知れない。と言うか、間違いなくそれ。失敗した。
俺が、どう言った言い訳をしようかと考えていると姉貴の後ろから声がした。
「あんたら何やってるの? ご飯だから着替えるなら着替えてきなさい」
エプロン姿で出てきたのは姉さんだった。変なものでも見るように俺達を見ている。特に、俺の服の匂いを嗅いでいた姉貴には驚きを通り越して呆れも混じっていた気がした。
「へーい」
まあ、とにかく。逃げるには好都合のきっかけが舞い込んできたのだ。乗らない手はあるまいて。俺はそそくさと部屋に向かった。
とんとんとんと軽やかに階段を上がっていく祐一を眺めて、私は深い溜息を付いた。
あの子から漂う女の影が私の脳裏に住み着く。一体どんな女があの子に抱かれたのだろう。年上か、年下か? 同年代か。
とにかく、不快で仕方がない。
私は頭を抱えて階段の手すりに寄りかかった。
「ちょっと、大丈夫?」
声をかけてくれたのは姉さんだった。心配そうな顔が私を覗いてる。私は、姉さんの手を借りながら立ち上がった。
「どうしたの? 気分悪くなった?」
「……そうね。最悪」
「一体どうしたのよ?」
「あの子から、女の匂いがした……」
私はそれだけ言うと、姉さんに寄りかかった。既に涙は枯れている。こんな事今まで何度もあった。だから今更泣きはしない。
でも、一人で耐えるには辛い物がある。私は自分の半身に縋った。姉さんは私の頭を優しく撫でてくれた。それが心地よくてさせるままにする。
そして、姉さんは口を開いた。
「そう。辛いわね。特に、私達は……」
辛い。辛いのだ。
この胸を引き裂かれるような痛みが。心臓がばくばくと言って、爆発しそうなくらいに鼓動するのが。このやり場のない怒りにも似た嫉妬は私の身体も心も暗い感情に染めていく。
憎い。憎い憎い。憎い憎い憎い。
祐一と寝た女が憎い。簡単に誰とでも寝てしまう祐一が憎い。自分と祐一が血が繋がっているのが憎い。そして、祐一を産んだ、両親が、祐一を産みだした世界が憎かった。
「泣かないで。泣いても解決できないわ。もう、泣くのは止めたんでしょ?」
「そうだけど……。私は、全てが憎いよ!」
姉さんの両腕に爪が食い込むほど私は強く握っていた。そして、はっと気付く。見れば私が握っていたところは真っ赤になっていて、爪が食い込んでいたところは少し血が滲んでいた。
「ごめん、なさい……」
「良いわよ、別に。妹に泣きつかれるなんて私は幸せ者よ」
姉さんは苦笑いを浮かべていた。私は頑張って涙を止めることにした。祐一が降りてきても大丈夫なように涙の痕を拭く。
「んー、目は赤くなってないみたいね。あの子でも気付かないでしょ」
姉さんは私の瞳を見てそう判断した。私はこくんと頷くだけ。声を出すのが億劫になっていた。
「さ、行こ」
私は頷いて姉さんの後に続いた。
三人だけの夕食が終わった。
私達の両親は出張が多く、しかもその殆どが海外絡みだ。出張が多いからか、収入は良いらしく今のところお金に困ったという話は出てきていない。私は食器を洗いながら、先ほどの美咲が漏らした弱音を思い返す。
そして、沸々と怒りが湧いてきた。食器を扱う音に怒気が混じり始める。私はそれに気付くことなく考えを進める。
何時からか祐一は不特定多数の女性と関係を持つようになった。それは、恋人とかそう言うものではなく、セックスフレンドのような関係だ。
一時の快楽のために、ただ相手の身体を貪る。そこには愛や思いやりと言った物は無い。ただ、弟に抱かれたと言った女は優しくて素敵だったとほざいていた。それはそれは嬉しそうな語る顔にどれ程拳を叩き付けたかったか。怒りを我慢するために、シャープペンが二本ほど駄目になってしまったほどである。
かしゃんと皿が滑った。その音で我に返る。
怒りの任せて洗った食器は乱雑になっており、中には洗剤を落とさないまま籠に入れている物もあった。自分の不甲斐なさに沈み、怒りで我を忘れた自分に自嘲する。私は、溜息を大きく付いて、再度食器洗いを再開した。
リビングからテレビの笑い声を聞きながら私は食器を全て洗い終え風呂場へと向かった。
テレビのチャンネルを回すが、面白そうなものはやっていなかった。時計を見れば九時を十分ほど過ぎた辺り。俺はリモコンをテーブルの上に置いてソファに寝転がった。惰性で、照明のついた天井を見る。少々目に来たがそれも次第に慣れた。天井の染みも木目の数も数えられないが、目玉を動かすことも面倒くさいのでそのままにする。
そう言えば、今日の先輩。少し無理してたな。無理して笑っていたというか、笑顔が引きつるというか。それも、行為が終わればスッキリとした顔になっていた。つまりははけ口を探していたと言うことだ。彼女の怒りや不満が解消されたのならそれで良い。俺はそれが目的で身体を提供しているに過ぎないのだから。
その行為が例えセックスだとしても別に気にはしない。この世の中でストレスを解消する方法ならいくらでも転がっている。癒しブームやら健康ブームでストレス解消商品なんて腐る程生産されているのだ。セックスが嫌ならそっちに行けば良いだけのこと。でも、これ程健康食品やら癒し療法が乱在している中で、何故情欲を求めるのだろうか。
確かに、俺と身体を重ねたいという女性は多い。さっきの先輩のようにストレス発散にする人や、純粋に俺のことが好きでしようとする人もいる。俺に好意を持ってくれるのは嬉しいが、既に俺は汚れた存在だ。何人もの人と関係を持ってしまった俺という存在は、純粋な好意を持っている人とは決して交わらない。その事を伝えてもなお、俺のことが好きだという人は後を絶たない。
何故だろうか?
こんな汚れた俺の何処が好きなのだろう? 容姿? 性格?
良く解らないが、とにかく俺が好きという人間にはさっきのことを話して諦めて貰っている。それで、諦める代わりに自分の処女を貰ってくれと言ってくる。
おかしい。これは非常におかしい。
俺は最低の人間だと話したのはずなのに、何で初めてを貰ってくれなんて言えるんだ? そんな疑問を何時も口にするが、答えは大体同じ内容で返ってくる。
『相沢君にあげるなら安心できるから』
その根拠が良く解らなかった。
「はぁ……」
「ふぅ……」
私達は同時に溜息を吐いた。こう言う時に自分達は双子なのだなと実感する。例え、卵が同じでなくても私達は同じ時間を長く共有してきたのだから自分の半身も同じだ。
「どうしたのよ、溜息付いちゃって」
「そっちこそ」
互いに口調が堅い言葉を交わして、また同時に溜息を吐いた。言葉に出さないでも解っている。私達を悩ませているのは他ならぬ祐一だ。
私達双子は、何時の頃からか自分の弟に恋をした。何故かは解らない。血が繋がっているにもかかわらず何故男女の関係を求めようとしているのか。しかし、この想いは本物で何物にも変えがたいほど大切なもの。でも、この恋は報われない。
姉弟でそんなことは出来ないし、日本人の古くから根付く倫理観が邪魔をしていた。いっそ、そんなもの無くなってしまえばいいと思うのだが、例え無いとしても、小さい頃から共に過ごしてきた相手を前にして自分の身体を開けるかと思えばそんなことは出来ない。
多分、私の中では弟としての祐一と、一人の男性としての祐一が半々くらいに内在しているのだろう。どちらとも手放せない存在であり、どちらかを選べばどちらかが消える。それは恐いことだった。
私は、ぎゅっと身体を抱き寄せる。しっかりと自分の身体を感じていなければ何処かに消えてしまいそうだったから。
「ねぇ、美咲。私達、何で姉弟なのかな」
姉さんの言葉に私は顔を上げる。女二人が入れば一杯の湯船の中で姉さんの顔は無表情に近い物だった。なりきれていないのは、感情が爆発しそうだからか。
「もし、私達が姉弟じゃなかったら、こんなに苦しまないよね?」
私は頷く。そうだ。その所為で私達はこんなにも苦しんでいる。でも、どうしようもできない。近親という事実が私達を踏み止まらせるのだ。
「他の女は祐ちゃんの身体を思う存分味わえるのに、私達は出来ない。お預けをくらってる。それも無期限のお預けを」
「……私達は姉弟だから」
幾度と無く交わした言葉。呪詛のように自分に言い聞かせて続けた言葉。
姉弟だから。
姉弟だから私達には資格がない。私達には祐一と交わる資格がない。その事実が、楔のように胸を穿つ。私は、苦しい胸をぎゅっと抱いた。
それから、私達は一言も喋らなかった。姉さんは俯いたままで、私からは何も見えない。私は汗と共に流れる涙を拭うこともせずにあさってを見続けた。
思わず目が覚めた。目が覚めたと言うことは今まで眠っていたと言うことだ。ソファで横になっていたらそのまま眠ってしまったらしい。時間を確認すると九時三十分だった。そんなに長くは寝ていない。
「それよりも……」
今は火急の用事があった。目が覚めたのはこの用事が発生したからだ。
恥ずかしながら、尿意だったりする。
俺は、トイレへ直行した。
だだだっと廊下を駆け抜けて洗面場に辿り着く。うちの家では何故か、洗面場の横にトイレへ通じるドアがあったりする。その洗面場は風呂場に通じていうるわけで、並より広めの家ではおかしな作りをしていた。まあ、スペースの確保のために纏められる物は纏めたと言うことだろう。とにかく今は便所である。俺は、洗面場のドアを荒々しく開けた。
中に駆け込もうとして、俺の足は意に反して止まってしまった。
見てしまったのだ。正確には見えてしまったのだが。二人に言っても信じてもらえないだろうなぁ。
「…………祐ちゃん。覗きって言うのはもっと遠方から隠れてみる物よ?」
バスタオルで胸の辺りを拭いていたのであろう姉さんは、身体は硬直したように動かないまま俺にそんなことを言った。胸は姉さんの手で押さえられ柔らかそうに変形している。思わず触ってみたいなどと思ってしまった。
「姉さん。これは覗きではなくレイプよ」
「あ、そっか」
姉貴は二の腕の下辺りを拭いていたところで身体が硬直していた。高校生としては発育が行き届きすぎた胸と、均整の取れた細い腰。まだ拭き終わっていないのだろう濡れた股下と、細くて綺麗な太股が眩しかった。
「……所で、何時まで眺めてるつもりかしら?」
「あ、その。違うんだ」
「言い訳を……」
「……するくらいなら」
『とっとと出てけええぇぇぇっ!!』
「うおっ!?」
怒声と共に洗面場から飛んでくる化粧品のボトルやら、ドライヤーやら、洗剤の箱やらを何とかかわして俺は脱兎の如くその場から逃げ去った。足はそのまま二階の自室へと向かい、ばたんとドアを閉めてそのまま寄りかかる。ずるずると身体が落ちていって尻餅を付いて身体の落下は終わった。
乱れた息を静かにする。自分の息遣いでさえ今は鬱陶しかった。頭の中でぐるぐる回るのは二人の姉の裸体。女性としてハイレベルな容姿とプロポーションを誇る二人の美女の裸体を見てしまったお陰で、俺の息子はいきり立っていた。
何、実の姉に欲情してるんだ。変態か、俺は。
しかし、一度勃ってしまった物が静まるには時間が掛かる。更には、忘れようとしても何度と無く二人の裸を思い出してしまい一向に治まってくれなかった。女の身体は見飽きるほど見てきたつもりだが、あの二人は全くの別格だ。あれは将来、何人もの男を堕とすことになるだろう。既に学校で人気を二分するほどの美人なのだ。その上、年齢まで重ねれば……、
「完璧じゃねーか……」
数年後の二人の姿を想像して俺は舌打ちをするように言葉を吐いた。そして、年齢を重ねると言うことは、何時かは誰かの下へ嫁ぐと言うことで、それはまだ見ぬ野郎に持っていかれると言うことだ。
それを想像して、もの凄く腹が立った。あの二人は誰にも渡したくないと思った。そして、気付く。
何でそんなこと思ったんだ?
実の姉が結婚することは、寂しいことではあるがそれ以上に喜ばしいことだ。なのに何故俺は怒る?
そして、気付いた。気付いてしまった。
俺は、あの二人を、女として、見ていた、と言うことを……。
その日は、そのまま寝た。
私達は無言で体を拭いていた。
あの子に裸を見られて気まずくなったと言えばそうなのだけれど、それ以上に嬉しい気がした。
「美咲。恥ずかしかった?」
既に私達は寝間着に着替えている。美咲は男物のシャツだけの格好。私は短パンと白いTシャツ。共にゆったりとしたものである。
美咲はカップを口に付けながら答えた。
「当たり前でしょ。覚悟もないまま見られてら恥ずかしいわよ」
「覚悟があっても恥ずかしいと思うけど」
「……それもそうね」
私達はいつもと違う雰囲気のまま床についた。
翌日。
俺は、一人街を歩いていた。
授業中も上の空で受けていたので何処か時間的感覚が欠如していて、一日中街を徘徊していたような気分だ。適当にコンビニや本屋など時間を潰せる場所を回る。ゲーセンも候補にあがるが、生憎と金欠だったので止めた。
街を徘徊し始めてどの位経っただろうか。既に街の色はイルミネーションという人工灯に照らされていた。大通り沿いをただ何も考えずに歩く。電灯の光が少し眩しかった。
とん
肩が誰かに叩かれた。いや、触られたと言った方が良いか。普通なら気が付かないほどに弱く触られた肩。俺は振り返ってその誰かを確かめた。そこには、懐かしい笑顔をした女性が立っていた。
「久しぶりねー。元気だった?」
俺の肩を叩いた女性。彼女の名前は柳瀬菊菜。中学校時代の保健室の先生だ。
歳は確か、今は二十六〜七だったはず。女としては一番華がある時期ではないだろうか。最後に会ったときよりも断然綺麗になっている。綺麗に流れる黒髪は彼女が言葉を発するたびに揺れ、人工灯に照らされているはずなのに神々しく光っている気がした。
水色のブラウスの上に白のベスト。黒のタイトスカートを着た菊さんはなんだか俺の知っている菊さんを遙かに上回っていた。
あー、なんだか表現が可笑しくなってる。久しぶりにあって嬉しがっているのか、或いは目の前の人が初恋の女性だから舞い上がっているのか。どちらにせよ。浮かれているのは間違いないか。
俺と菊さんは手近な喫茶店に入って、久しぶりの再会を祝った。コーヒーと紅茶だったけどね。
「いやー、さっきはビックリしたのよ。前を見てたら見たことある頭が動いてるじゃない? だから、もしかしてって思って……」
「間違ってたらどうするつもりだったんですか?」
「間違えるわけ無いじゃない。私が初めて手を着けた男の子を……」
「ぶはぁっ!!」
飲みかけだったコーヒーを吹き出してしまった俺。げほげほと気管に入ったコーヒーをどうにか出して一心地付いてから、テーブルをだんと叩いた。周りの視線が集まるのを感じるがこの際全く関係ない。
「公の場でその話はなしです!」
「いいじゃない。聞こえてないから大丈夫よ」
「……はぁ」
そうだよ、そうだよ。こう言う人だったよ。人をからかって楽しむ人だった。
「でさ、最近はどうなの? 噂によるとえげつないことやってるって聞いたけど?」
「えげつない事って?」
今までの生活の中でそんなことをした覚えは全くない。人に誇れるような人生じゃないが、間違ったことはしてないと思う。
「えー? 解んないの? 数人の女の子を鬼畜のようにとっかえひっかえ蹂躙してるって……」
「あんた、なんばいっとんねん!?」
口を開けば爆弾しか吐き出さない彼女に俺はほとほと疲れ果てていた。誰か、この女を止めてくれ。
「だって、卒業生とかが結構遊びに来るのよ。その時に祐一君の話が出て来るんだもの」
「…………………」
もしかして、本人達から直接ッスか? そうなんでスか?
「君が手を出してるって言うか、彼女達がお願いしてるってのが本当みたいだけど……」
「なら、誤解を招くよぅな言い方をしないでください」
「事実じゃない」
「事実ですが……」
「……でもさぁ、不思議なことにさ、相手をしてる娘達って全員上級生ばっかよね?」
どうして? と首を傾げて聞いてくる。俺は、少し言葉を纏めてから話した。
「まあ、同年代の女子に手を出さないのは、仲間の彼女がいたりとか、クラスで気まずくならないようにしてるのが一つ。後は、あんまり同年代って楽しくないんですよ。話してて共通の話題はあるけどなんだか楽しくない。女の子と話してるよりか男と馬鹿やってる方が面白いし。
年下は全く眼中に無し。俺、年下好きじゃないから。
で、消去法で行くと上級生が来るって言うわけです」
俺の話を聞いて菊さんは腕を組んでう〜んと唸り始めた。まあ、俺個人の偏った主観なので他人には解らないだろう。首を傾げるのも頷けることだった。
「……それってさぁ、君の気持ちが全く入ってないじゃない」
疑問を口にする。俺はそれに首を傾げた。どういう意味だろう?
「さっき、年下が好きじゃないって言ったじゃない? 同い年もそう。だから、消去法で上級生って言ってるけど、じゃあ、君の好きな歳とかタイプっていないの? 簡単に身体を売ってるから誰でも良いのかな?」
「売ってるわけじゃないんですが……」
「じゃあ、『喰べてる』の?」
「姉さんと同じ事言わないでください!
いいですか? 俺は年下は好きじゃないし、同い年も駄目。余ったから上級生って言う考えははっきり言って嫌いです。さっきのは、人に説明するときの話ですよ。俺は年上好きですから……」
自分で言ってて何だが、何を言ってんだ、俺。しっかりしろ、俺。頑張れ、俺。
「ならさ、何で消去法とか言うのよ?」
「女の人をとっかえひっかえしてる事実があるじゃないですか。つまり、女に関しては酷い男というわけで、それを演じるのなら酷い男になろうってわけです。自己中心的な考えを言えば大抵の人間はそれで納得するでしょ?」
菊さんはなんだか難しそうに眉を歪めた。こめかみ辺りに指を置いてまたうんうん唸ってる。それを、コーヒーを飲みながら眺めていた。
しばしして、また菊さんが口を開いた。
「なんで、酷い男になる必要があるの?」
「だから、さっき言ったじゃないですか。女の人と誰とでも寝る男は俺の中で最低だって」
「じゃあ、その最低って思ってることを何で君はやってるのよ? 普通なら、やろうとか思わないわよ?」
「………………」
確かにそれは、一般的な考え方だ。俺だって何であんな事をしているのか時々解らなくなる。でも、目的は今まで変わっていない。手法がいくらでもある中で、俺はそれを自然と選んだ。それは俺が何処かでそれを望んでいたからかも知れない。先輩達を慰めるとか言ってるが、結局は俺が悩んでいる結論に辿り着くわけで、それを振り払うかのようにまた先輩達を抱いたりする。やっぱ、最低だ。
「上級生しか抱かないって事はさ、私が原因だったりする?」
「………………は?」
いきなりこの人は何を言い出すのだろうか? 何を根拠にしてそんなことを言うのか。
理解不能。
「祐一君の恋心に私が気付かないとでも思ってた?」
「え!? あの、えぇ……!?」
気付かれてた!? そんな素振りは一度だって見せてないのに。なんで解ったんだろ?
「解るわよ。伊達に君より歳食ってるわけじゃないんだから。素振りを見せてなくても、視線とかで解るわ。上手く隠してて私も半信半疑だったんだけど、あの時に漸く確信を持てたわ」
「あの時って?」
「卒業式」
柳瀬菊菜は満面の笑顔でそう言った。
俺が中学を卒業する日。俺は、写真を撮るときにふざけてのし掛かられて腰を打ってしまった。湿布を貰おうとして、卒業したはずの校舎に舞い戻り保健室のドアをノックした。
中には菊さんがいて、他の人間の相手をしていた。
しゃくり上げるような声が聞こえたので、泣いている人間を慰めていたのだろう。もしかしたら、菊さんが好きですって言って玉砕したのかも知れない。
俺自身、菊さんは好きだ。それは、一人の女性として。何時からか、保健室に入り浸るようになり、何時からか、菊さんが好きになっていた。
この気持ちを告白することはしない。だって、こんな中学生に言われても迷惑なだけだ。俺だって振るだろう。それくらいの想像は出来ていた。
「すいませーん。湿布もらえませんか?」
「あら。相沢君。どうしたの、老人みたいに腰を屈めて」
白衣を翻してやって来る菊さんに俺は事の顛末を話した。さっきまで菊さんが相手をしていた生徒(男)は一礼して、部屋を出て行っていた。
菊さんは湿布を取るために棚に向かっていた。その間、俺は出て行った生徒のことを考えてみた。俺と同じく卒業式の雰囲気で羽目を外してここの世話になるような事態になったのだろうか。しかし、先程の泣き声がそれを否定する。たぶん、さっき考えた通り、菊さんに告白しに来たんだろう。で、それを断られた。人生経験の少ない中学生が考えられる展開としてはこんなものだ。
俺は、菊さんが湿布を取る間、そんなことを考えていた。
私は、棚の取りづらい所にあった湿布薬をようやく取り出して息を一つした。棚には所狭しと色々なビンやら何やらがしまってある。数が多いのはストックがあるからであり、種類はそれほど多くはない。学校で治療できる怪我なんて擦り傷くらいだからだ。骨折なんて事になれば、病院レベルの治療が必要になる。こんな所では、満足のいく治療などできはしない。
私は薬を湿らせた布を持って、相沢君の所に行った。
「全く、卒業式には付き物のことをしたわね」
「先生には何度でもあることかも知れないけど、俺達は一回だけだから」
それはそうだ。卒業式を何度も迎えるというのは変な話である。教師の側からしたら普通のことだけど、子供から見たらそうではないのだ。昔は自分もそうだったというのが抜け落ちてしまった。失敗、失敗。
「だからと言って、ものには限度ってものがあるでしょ?」
どこが痛いと訊いて、この辺りと背中の痛いところを指さす。私はそこに布をおいて紙テープで留めた。激しく運動しない限りは取れることはないだろう。
「ハイ、完了。あんまり激しく動かない事よ。取れちゃうからね」
「了解です」
そこで、相沢君は聞きづらそうにあのっと私を呼びかけた。大体質問の内容は推測できるけど、私は黙って話を聞く。
「さっきの奴、何で泣いてたんですか?」
「……うーん。人のプライベートなことを詮索するのは良くないわよ?」
「でも、最後だから知りたいです」
「……まあ、良いかな。決着は着いてるんだし。お察しの通り、あの子は私に好きだって言ってきたのよ。断ったけどね」
苦笑混じりにそう言った。流石に歳が離れすぎているし、中学生を手に掛けるのは気が引けるのだ。
「年下が駄目ってわけじゃないけど、中学生は気が引けるのよねー」
「そう、ですか」
なんだか落ち込んだ声が聞こえた。そんなに私の言葉がショックなのかしら。まあ、彼の気持ちは解ってるんだけど……ね。
「ほら、そろそろ行ったらどう? 皆、待ってるわよ?」
「腰が痛いからここで休みます」
相沢君はそのままベットで横になった。その後もちらほらと生徒がやってきて、私は雑務に追われた。
やがて、生徒達も来なくなり、漸く卒業した連中も帰ったのだろう。ああ、そう言えば、忙しさにかまけて、忘れてた。まだ一人部屋に残ってたわね。
「相沢くーん。そろそろ起きなさいよー」
カーテンを開けて彼を起こすため、顔を覗き込んだのが私の失敗だったのかも知れない。
そこには、安らかに眠る天使の寝顔があった。
私は、数秒彼の寝顔に気を取られていた。いつものやる気のない様な気怠げな顔とは違う、純真無垢の寝顔に私は無意識に手を伸ばした。サラサラと指の間を流れる髪を分けてもっと良く見ようと身を屈める。
私は、ぐつぐつと内側から盛り上がってくる感情に戸惑いを覚えていた。
キスがしたい。
それが私を戸惑わせる感情。中学生相手に何を考えているのかと一笑したいが、それができない。この目の前に安らかに眠る顔にキスがしたい。
私は、葛藤することもなく、そのまま唇を付けた。
ひとたび行動を起こしてしまえば後早い。私は保健室の鍵を閉めて、電気も消し、外から覗かれないように、キッチリとカーテンを全部閉めた。包囲網は完了。侵入される恐れ無し。獲物は我が手の内。
私は、白衣を脱いで、『女』になった。
「それじゃあ、頂きまーす」
思い出して俺はテーブルに突っ伏した。
そうだよ。そうだったよ。
今まで記憶の奥底に沈めていたあの懐かしい(のか?)記憶がぶり返してきたよ。
確かにね? 認めるよ? 菊菜先生が好きだったこと。でも、それとあの出来事とは直結しないんですけど。
「いやー。意外に楽しかったわね。スリルがあって」
僕はそんな物楽しむ暇はありませんでした。ただ必死だっただけです。
「センセー。俺はあなたが原因で年上しか抱かなくなったわけじゃないですよ。俺の趣向がそうだっただけの話です」
「ふーん。好きな人がたまたま年上が多かっただけじゃないの?」
「うぐ」
見透かされてる。まあ、俺が良いなぁって思う人達は大抵が年上の人達ばかりだ。考えたこともなかったが、俺は何でそう言う嗜好になったしまったのだろうか。
仲間内では圧倒的に同年代以下が人気がある。それは、護ってあげたいからとか、可愛いからとかそう言った物ばかりだ。その中で異彩を放っているのは言うまでもなくこの俺、相沢祐一である。
俺自身の考えとしては、年下を護るとか好きな人を護るという感覚・感情には大いに賛成だ。しかし、本当にそんなことが出来るのかというと出来ない。
人一人護るには相当に腕っ節が強くなくてはいけないし、精神的重圧から解放できるだけの包容力がなければならない。そして、現代に生きる高校生がそんな凄い物を持ち合わせているはずもなく、護ってあげたいという言葉は理想論でしかなくなってしまうのだ。
俺はそんなもは嫌だった。理想を掲げる、理想を夢見るのは許せるが追いかけると言うことになったら話は別。現実的に考えれば仲違いはするし感情も擦れ違う。そんな当たり前のことがない清い関係なんて有り得ない。人は己の欲望を他人に押しつけて生きていく生き物だ。
人に自分の勝手なイメージを押しつけ、少しでも違えば怒る。
こんなはずじゃなかった、見損なった、幻滅した。
そんな言葉を良く耳にするようになった。
「祐一君はさ。自分を護って欲しいんだよね。勝手に突っ走っちゃう性格を自覚してるから、誰かに止めてもらったりとかそれは正しいとか間違ってるとか誰かに言って欲しいのよ。それは、物事を客観的に見れる相手じゃなきゃ出来ない。つまり、人生経験を多く積んだ人じゃなきゃ駄目。人生を多く歩んでいる人間と言うことで、年上嗜好という結論になるのよ」
違う? と菊菜先生は首を傾げて聞いてきた。それは、俺が無意識的に考えていたことかも知れない。
「祐一君は生まれついてのヒーローなのよ。厄介事に首を突っ込んだり巻き込まれたりして、それで問題を解決しちゃう無意識のヒーロー。
でも、時々立ち止まって考える。自分のしていることは良いことなのか、それとも悪いことなのか。
正しいことなのか間違っていることなのか。
その是非を誰かに言ってもらいたいんだと思う」
先生の言った言葉が俺の心の砂地に落ちる。先生の透き通った水は俺の砂地にするすると染み込んでいって染み渡った。
そうだ。俺は人を守れるほど強い人間じゃない。自分の気に入らないことに対して反発している子供だ。そんな子供には親のような温かい心を持った人間が必要。
俺は、親が恋しいのだろうか。
俺の両親はいつも家を空けている。あの家に住んでるのは俺と双子の姉さんだけだ。三人だけで今まで生きてきた。生活費はもらってるけど、余り顔を見せない親よりも、姉さん達の方が親に見えるときがある。
台所で食事を作ってる姉さんの後ろ姿や、外で洗濯物を干している姉貴の後ろ姿を見て、俺は母親の影を見ていたのかも知れない。
姉の後ろ姿で父親の方を思い出すのは困難だ。青空を見れば涙を滝のように流している親父の顔が見えた気がする。
親父、安らかに眠ってくれ。
「そして、それを正すのは他人じゃない。君の一番近くにいる人達」
それは家族と言うことか。
「でも、家族でもないんだよ」
「え?」
姉さん達じゃないのか。なら、あの顔の形すら忘れかけている両親のことか。
「それはね……」
私の話を聞き終えた途端、彼は席を慌ただしく立って出て行ってしまった。未だに鳴る入り口の鈴の音が私の耳に残る。
律儀に自分の分の支払いまでおいてあるところは感心したが、こう言う時は相手に支払わせるのが普通。相沢君のこう言った気の回るところが年上としては、頭を撫でて上げたくなる物なのだけれど。
「はぁ」
私は溜息を天井に向かってした。
「さて、私もそろそろ帰りますかね」
私はバックを手にとって立ち上がった。その時に不意に零れた涙が、伝票を濡らしていた。
そろそろ時間が七時を過ぎようとしていた。
あの子はまだ帰ってこない。探しに行きたいが擦れ違って会えずじまいというのは嫌なので私は家でずっと待っていた。窓の外から見えるのは自分の沈んだ顔。
向こうに見える向かいの家の中に半透明の自分の顔を見つけて、私は頑張って笑顔を作った。少し引きつっていて変だが、これが私の精一杯だった。
「美咲ー。ちょっと手伝ってー」
「……解ったわ」
私は小さく返事をして台所に向かった。
空の皿が積み重なっているのが見えた。今から盛りつけらしい。
「ご飯よそってくれる?」
「ん」
炊飯器から漏れる水蒸気。その中から見えるのは真っ白いお米。いや、炊いたのだからご飯か。
私は水で濡らした杓文字(しゃもじ)を突っ込んで適当に掻き回した。適度に冷やされたご飯を順々に茶碗によそっていく。
姉さんの分。私の分。祐一の分。最後のは少し多めにしておいた。あの子が良く食べるのは知っていたから。これを真琴がやると、祐一は物足りなさそうな顔をする。そして、もう一杯ご飯をお代わりする。真琴は気が付いているのだろうか?
いつもなら、まるで心を読んでいるかのように助言や後押しをしてくれるのだが、こう言った普段の何気ないところの気配りはない気がする。双子とは言え、二卵性では一卵性のように大体の心の内が解るわけでもないのでいつもそこまでで止まってしまう。
私が三個目のみそ汁のお椀を取ったときだ。玄関の方で大きな音がした。どたどたと廊下を走る音がして止まる。音の聞こえ具合から廊下の電話の辺りだろう。
「あらー。挨拶も無しにいきなり電話? 感心しないわねー」
「そうね。後で内容を聞こうかしら」
私達は夕食の準備をしながら、祐一を待つことにした。
夕食の準備も終えて、私達は台所から廊下を覗いていた。
祐一は受話器に向かって流暢な英語を話していた。
俺は菊菜先生から聞いたことを確認するため急いで家に帰ってきた。
電話するためだ。なら、携帯で済ませればいいじゃないかと思うが、生憎と俺は持たない派。そして、公衆電話からではかけたい先の電話番号も解らないしテレカも加速度的に度数が無くなっていくので却下だ。俺がかける先は、両親の所だった。
アドレス帳を捲って番号を確認。だだだだっとボタンを乱雑に押してしばし待つ。
相手が受話器を取った音が聞こえた。そして聞こえてきたのは、
『ちわー、こちら来来軒ですー』
思いっきり受話器を叩き付けた。アドレス帳を確認すると、親父達の電話番号の一つ上を見ていたらしい。自分の目が据わるのを自覚できた。今度は間違えないようにボタンを叩いた。
数コールの後、相手方が出た。
『Hello. How are you ?』
英語である。しかし、興奮状態の俺は何故か流暢な英語で答えた。
「My name is Aizawa. Youma can be taken out」
『hum? Please wait a little.』
ロンドン橋の保留音が俺の焦りを加速させる。
「あの子って、英語出来たかしら?」
「私の記憶が確かならあの子は私達が知ってる祐一じゃないわ」
「そうよねー。あの子の英語の成績って5だったでしょ?」
「いいえ。4よ」
二人の姉の会話が聞こえたが無視。そして、再度受話器を取る音が聞こえた。
『Hello?』
その声はまさしく相沢祐真の声だった。
「親父。俺だ」
『ん? 祐一か。どうした? お前が国際電話なんてかけてくるなんて珍しいじゃないか。受付のジェシーさんも流暢な英語を話すっていって驚い……』
「親父」
『……解ったよ』
すっかりアメリカ人気質になりやがって。俺は、用件を言った。
「親父、俺達が血が繋がってないって、どう言うことだ!?」
俺はさっき聞いた話を親父に確認した。
あの喫茶店で菊菜先生が語ったその話は質の悪い話だった。
「それはね。君の二人のお姉さん達。あの二人と君の関係なのよ」
「何を、言ってるんですか?」
俺は先生が言っている意味が解らなかった。俺と姉さん達の関係? 姉弟って言うことか?
「姉弟って事じゃなくて、赤の他人でもないけど近しい関係って奴よ」
「言ってる意味が良く解らないんですが……」
菊菜先生は難しい顔をしていた。今思えば、言ってよいことなのか考えていたのだろう。そして、ここまで話してしまったのだから話してしまうことに決めたのだろう。
菊菜先生は口を開いた。
「私さぁ、中学の保健室の先生じゃない?」
「まあ、そうですね」
「でさ。全校生徒の健康状態とか把握してなきゃいけないのよ」
緊急時に対応できるようにと言うことで菊菜先生はそう言ったことをやるらしい。これは、菊菜先生の超人的な記憶能力から出来ることであって他の先生は出来ない。
「で、君とあの二人のことも頭の中に入ってるわけよ」
「はぁ」
話の意図が見えない。見えさせていないのか、ただ単に先生が迷いながら話している所為で見えないのか。
とにかく、話を聞くしかなかった。
「最初は誤植かなって思ったんだけど、理論上有り得ないし事務員の人に頼んで調べたら事実だったと」
「……………………」
俺は答えを待った。
「結論から言うと、君は相沢家の人間じゃない」
「え?」
先生の言葉は俺の鼓膜を確かに叩いた。それは俺の脳にちゃんと伝わり意味を理解していた。今の言葉に文法的な間違いはないし、曲解できるような表現でもなかった。しかし、俺の心は今の言葉を事実として受け取ろうとしなかった。俺が出来たのは惚けることだけだった。
「君のお姉さん達の血液型って知ってる?」
「……………………」
俺は既に言葉を発せられなかった。さっきの衝撃がまだ残ってたからだ。
先生は俺の状態を見抜いて話を先に進めた。
「あの二人はO型。典型的なRH+よ。で、君はA型のRH+」
それは知っている。自分の血液型くらい解っている。
「それでね。君のお父さんの血液型はO型。もちろんRH+」
嫌だ。その先は聞きたくない。俺の予想は現実味を帯びて俺の神経を焼き始めた。
そして、悪魔の宣告にも似た先生の言葉が聞こえた。
「君のお母さんの血液型はO型。典型的なRH+。血液配合の理論から言うとA型の君が生まれる可能性は零なのよ」
俺は、泣きそうになるのを我慢した。我慢するために拳を握った。握った拳がじわりと汗で滲んだ。
「お、れは……」
姉さんの弟じゃない? あの二人とは赤の他人? そんな事って……。
足下が砕け散ったような浮遊感が俺を包んだ。今の俺にあるのは虚脱感だけだ。
「可能性は低いけれど、君の両親が血液型を書き間違えた可能性があるわ」
この時、先生は嘘をついていた。あまりにも絶望に彩られた俺を見て先生は嘘をついた。
俺は現実を認識しきれていない混乱状態だったから頭が回っていなかった。冷静だったなら先生の言葉に違和感を感じたはずだ。
先生は俺の家族構成を確認するため書類を確認しているはずだ。だからそれを見たなら解るはずだ。俺の欄には養子と書いてあったのだから。
「確認してみなさい。多分教えてくれるわよ」
俺は微かに頷いて店を出ていった。
受話器の向こうから溜息の音が聞こえた。そして重苦しい言葉が聞こえた。
『何処で知った?』
それは事実だという肯定に他ならなかった。俺はふらつく身体を支えるため壁に手を付いた。
「中学校の先生。柳瀬菊菜先生だ」
『あの人か。この前電話をもらったよ』
苦虫を潰した顔をしているであろう、親父だった人。今では、そうではないけど。
『そうだ。お前は俺達の子供じゃない。お前は捨て子だった。そこの街の繁華街の路地に捨てられてた。俺と冬霞はお前を見つけて警察に届けたんだが、門前払いを受けた。親探しに割く人員が足りないんだと!』
怒りに彩られた声。心の底から怒りを覚えているのが解る。
『見たところ生後二〜三週間って所だった。真琴達が生まれて一年だったから、見ただけで大体解ったよ』
昔を懐かしむ声が聞こえる。
『お前の誕生日は逆算して割り出した。多分誕生日の前後に生まれたはずだ。それから、お前達三人を養うことを決めて、俺達は生活費を稼ぐために今も奔走してるってわけだ』
「何故、教えなかった?」
俺は聞いた。
『必要なかったからだ。お前を育てると決めたその時からお前は相沢祐一となった。俺達はお前を息子と思うことにしたんだ。血が繋がってなくて赤の他人だと何故言える? 親は子供には残酷なことはしない』
「それでも、教えて欲しかった」
『……俺達も迷ったさ。教えるか教えないか。どちらにしろ、物事の分別がつけられるようになったら教えるつもりだったがな』
俺は何も喋れなかった。受話器から聞こえる声さえ現実味を帯びていなかった。
事実は確認した。俺はここの子供じゃない。心に穴が空いたような気がした。
『あー。近くにそっちに戻る。その時に正式に話してやる』
「……いいよ。目的は果たせたから」
俺は受話器を置こうとしたが、横から出た手に阻まれた。姉貴だった。
姉貴は俺から受話器を取ると話し始めた。俺は、自分の部屋に向かった。
「父さん? 祐一と何の話をしてたの?」
『美咲か。あー、まあ、良いか。心構えくらいはあった方が』
「何の話よ?」
私は、父さんの言葉を待った。
祐一はまるで幽鬼のように自分の部屋に戻ってしまった。相当ショックなことを聞いたに違いない。私はそれを確かめるつもりでいた。
『電話で話す事じゃないんだが、簡単に言うぞ? お前達姉弟は血が繋がってない』
「え?」
『あいつは養子だ。真琴にも話しておいてくれ。いい加減電話代が勿体ない。後日、休み取ってそっちに帰るからその時に話す。質問は受け付けません。うんじゃ』
「あ、ちょっと!? 父さん!?」
受話器からはツーツーという音しか聞こえなかった。私は逃げるように切った父さんの怒りを受話器に叩き込んでおいた。
その後、姉さんに事情を説明する。姉さんは驚いてたけど、同時に嬉しそうでもあった。それは私も同じだったかも知れない。
「今ね。私、そんなにショックじゃないんだ」
それは私も同じであった。そして、その理由も察しが付いている。
「心の何処かで姉弟でなければって思っていたのもあるけれど、弟に劣情を抱くことが苦にならなくなってスッキリした」
「ええ。私もそうよ。でも、あの子はそうじゃないみたいね」
見えない二階を見るように私を天井を見つめた。
ショックだったのだろうか。自分が家族じゃなかったことが。
……違うわね。私達はそんなこと関係なく家族として接すると言うことも解ってるだろうし、それ以上の関係になっても構わないことは薄々気付いてるはず。
人の気持ちに敏感な祐一だ。私達の気持ちなんて解ってるだろう。それが、枷となって割り切れないというなら、私はあなたの姉であって構わない。
血が繋がってないとしても私達はあなたの姉であることには変わりないんだから。
「祐ちゃんはどんな答えを出すんだろうね?」
「出来れば、私達の気持ちを理解して欲しい所ね」
「大丈夫じゃないかな。ほら、あの子優しいし」
「心を殺して付き合うほど私は安くないわよ」
「それを言ったら私もそうよ」
「……お互いにプライドだけは高いわね」
「一人の男すら振り向かせられないんじゃ女としての価値はないわ」
その後、私達は深夜まで待ったけれど、祐一が起きてくる気配がないので寝ることにした。
一晩だって、一週間だって待ってあげる。私達は、もう十七年待ったんだから。
不意に天井が見えた。
どうやら眠ってしまったらしい。俺はそのままぼーっとする頭で考えた。
俺と姉さん達が血の繋がっていない姉弟だと聞いて、親父に確認して。血の繋がりだけが家族じゃないことは解ってる。今更、血が繋がってないだけで家族じゃ無いという人達でもない。
俺の育ての親は俺をここまで育ててくれた。生活費を稼ぐために今も忙しいことは知っている。道ばたで拾った俺何かのために頑張って金を稼ぐために奔走している。
それが堪らなく嬉しくて、涙が出た。
手でそれをすくい取った。
涙を流したのなんて何年ぶりだろう。最後に泣いたのなんて覚えていない。それでももう五年は泣いてないだろう。俺は、久しぶりに泣いていた。
俺の育ての親……いや、こう言うのはよそう。俺自身あの二人は俺の両親だと思ってる。血の繋がりなんて関係ない。両親は両親だ。
なら、双子の姉はどうだろうか?
いつの頃からか、異性として意識しだしたことを不潔と思って封じ込めてきた。しかし、それは正常な反応で何処にも可笑しいところはない。ただ、世間の目が厳しいかも知れないが、もとより俺はそんな物を気にする性格ではなかった。例え、気にしたところでこの心の中に渦巻く感情に嘘は付けない。
二人が俺に向ける感情は知っている。あの二人は姉弟であろうとも構わないと思っていたと思う。あの二人は本当に強い人達だ。自分の心に純粋な人は強いと思う。俺は自分の心を奥底に隠し見えない振りをして嘘を付き続けた。雲泥の差だ。
そんな俺があの二人を愛して良いものだろうか。良いのだろう。あの二人がそう望んでいる。
そして、俺自身もあの二人を愛したいと思っている。
窓から見える空が白んできた。そろそろ夜明けらしい。
俺は腹を括った。今度は自分に嘘をつかないと。
「で、結局そうなったのか……」
「そう言うことだ」
祐一とお父さんが笑っていた。一方は苦笑いで、一方はニヤニヤとしたいやらしい笑い。
お父さん達はあの日から三日経って帰国した。溜まった有給を処分するとか言って二週間も休みを取ったらしい。会社の上司が泣いてたらしいけど、この二人には泣き落としは意味がないことを娘である私はよく知っていた。私は顔を知らない上司さんに会釈をした。
私は祐ちゃんの左に、美咲は祐ちゃんの右に座っている。と言うか、腕を掴んで頬ずりをしていた。
完全に猫化している私達。多分喉なんか撫でられたら、ゴロゴロと鳴くに違いない。と言うか、この前鳴いた。
「はぁ。祐真」
「なぁ。冬霞」
「「作戦成功!」」
「「「は?」」」
いきなりガシッと手を握り合うお母さん達。なんで?
「いやー。苦労したわよ。あんたをあの路地で見つけたときから考えてたのよねー」
「そうそう。母さんがそんなことを言いだしてな。俺もその話に乗ったわけだ」
「…………親父ぃ、お袋ぉ。大体話は読めてきた。言い訳を聞こうか」
「男らしい祐ちゃん素敵よー」
指をぼきぼき鳴らしながら二人に迫る祐ちゃん。そんな怒る祐ちゃんも良いわねー。
隣に目を向ければ頬ずりできなくなってむくれていた美咲が目に入った。あの子も変なところで子供よね。
「あ、いや、母さん。パス」
「へ? ちょっと、一家の大黒柱として説明するのが筋でしょうが」
「子供の前で見苦しい押し付け合いをするな! 親父! さっさと説明しやがれ!」
お父さんは困ったように頭を掻いたがやがて溜息を付いた。
「……俺が指名されることに関して問いつめたいところだが、話が進まないんで後にする」
あくまで問いつめるんだね、お父さん。
「俺達の作戦、と言うのもおこがましいほどのもんだがお前を拾った時ある期待をした。
もしかしたらって言うほどの欠片の希望だ。そんで、そいつは見事叶ったわけだ」
「それは、俺が姉貴達を好きになるって奴だな?」
「そうだ。まさしくドラマを仕組んだってわけさ」
つまり、私達姉弟が互いに恋に落ちることを期待したって事ね。でも、あまりにもその確率は低いような気が……。
「あんたらは何もしなかったじゃなねぇか!」
「当たり前だ。近親相姦を教える親が何処にいる。俺達は普通に育てることだけをした。仕事ばっかしてあんまり親と言えた義理じゃないが。
普通に育てても尚、お前達が惹かれ合うなら俺達二人は祝福しようって事にしてたんだ」
「もし、何も起こらなかったら?」
美咲は何処か怒ったように聞いた。珍しく感情を表に出してる。事祐ちゃん関連には強気なのよねー。
「起きないなら、それまで。どっちにしろ、二十歳になったら教えるつもりだったのよ。それが柳瀬先生の所為で早まっちゃったのよねー」
「思えば、馬鹿正直に書類書いたのが拙かったな」
「でも、それすると私達が偽証罪で捕まっちゃうわよ」
「それもそうだな」
そしてあっはっはと笑う我が親。今ほど、この親に呆れたことがあっただろうか? いや、断じてないわね。
「まあ、あんた達の選んだ道はそう言うことになったんだし、私達は積極的にバックアップして行くわよ?」
祐ちゃんにしがみついてる私達双子を指して言うお母さん。親公認なら問題はないか。
でも、眉間に皺を作ってる祐ちゃんとしては腑に落ちないところでしょうけど。美咲は至福の時のように顔が緩んでるし。
「差し当たっては祐一の戸籍を改竄しなくちゃな」
「あら人聞きの悪い。改竄じゃなくて更新よ」
「……はぁ。あんたらの身勝手さに呆れるところだけど、ここまでおちゃらけられると落ち込むのも馬鹿らしく思えてきた」
「うむ。重い話にならないようにした努力が実ったな」
「実は、祐ちゃんがいじけるか呆れるかも賭だったのよねー」
何でそこでお母さんは楽しそうに言えるのかしら。私もその位の余裕が欲しいわ。
美咲には遺伝してて、私には遺伝してないことが悔しい。
「さて、他に質問は?」
「……俺は、ここにいて良いのか?」
「良いわよ。あなたは私達の息子なんだから。お腹痛めてないけど」
一言多いよ、お母さん。
「この前も言ったが、お前を拾った時点で、お前は俺達の息子になったんだ。えっちしてないけど」
だから一言多いんだって。
「貴様らぁ!! そこになおれぇ!!」
「三十七ではあるがまだまだ現役の俺に初夜も迎えてないガキが敵うと思うのか!?」
飛びかかろうとした祐ちゃんがお父さんの台詞でぴたっと止まった。
見る見る顔が無表情になっていく。
私はあちゃーと天を仰ぎ、美咲は深く溜息を吐いていた。お母さんは何やらニヤニヤとしていた。
「……お前、もう、手、出したの?」
「あなた達も女になったのねー」
お母さんは私達の頭を抱えて良し良しと撫でた。美咲と私は顔を紅くして俯くしかなかった。こう言うことが、例え親であっても露見するのは流石に恥ずかしい。
お父さんは拳を下げて祐ちゃんに詰め寄っている。
「どういう状況だったんだ?」
「俺が、その、異性としてみてるって言ったら……押し倒されて……」
「皆まで言うな。父さんも経験あるから」
どうやら、私達の押し倒し癖は母さんの遺伝らしい。昔っからこうだったのか。
「祐一。呑むか?」
「イタダキマス」
男同士の熱い約束が交わされていた。そして、私達はと言うと。
「美咲ぃ。初めてはどうだったぁ? あの子に優しくしてもらった?」
「あ、いや、その、それは、えっと……」
顔を真っ赤にしてあたふたしている美咲は非常に珍しく、そして楽しい。
滅多に感情を出さない娘だからついつい虐めたくなるのよね。私も混ざることにした。
「あのね、美咲ったら、祐ちゃんに耳を舐められたと……」
「姉さん!?」
裏切ったわねと言う怨念が籠もった視線を向けられるが私は一向に構わず母さんに続きを話す。母さんは熱心に私の話に耳を傾けた。
「それでぇ……」
「こら! 口を閉じろ! 母さんも何顔赤くして聞いてんのよ!?」
「そうか。あの二人は立派に成長してるのか」
「パーフェクツ・バデェでした」
「息子よ!」
「父さん!」
今日も相沢家は平和だった。
「それでね?」
「ふんふん」
「やめてえええぇぇぇぇ!!」
平和だった。
その後、俺は先輩達との付き合いを止めた。かなり反対されたが好きな人が出来たと言ったら何故か祝福された。
曰く、俺の危うい心を掴むことが出来ない自分達は俺自身のことが心配で溜まらなかった。君に好きな人が出来たって事は、君の心を掴んだって事だから私達は安心する。
なんだか不意に目頭が熱くなった気がした。先輩達に慰められた俺は不覚にも涙を流してしまう。本当に不覚だった。
それで、先輩達は俺に詰め寄った。展開としてはベタ過ぎるほどであるが、人間、好奇心には勝てないと言うことだろう。
俺は素直に吐いた。俺の愛する人達の名を……。
Fin
あとがき
三〇萬ヒット記念でしたー。
何気にシリアスで、何気にエロイ。そんな話を作ろうとして、こんなんになりました。
設定をくれたユッキー様。ありがとうございます。(ぺこ
最終的にこんな形になりましたが、実は血の繋がったバージョンも存在してたんですねー。
そっちはひたすらダークです。シリアスです。書いてても凹むし、読んでも凹みます。私の書き物の心情として、凹むような物は創らないと決めています。
多少厳しい物や、辛い状況などがありますがそれは最後に目指すはっぴーえんどのためであり、ひたすら不幸な話を書いたら、私の精神がヤバイです。再起不能になります。
では、こんな文字しかないHPへやって来た下さった人達に感謝の言葉を。
ありがとう。