ぼやけた意識のまま、目を開く。いや、正確には天井を見ていた。そう察した時は、既に意識ははっきりしていた。
「…………っ!」
飛び起きる。
見渡す景色は、覚えがあった。ありすぎた。
「俺の……部屋?」
そう、ここは俺の部屋だった。懐かしい感触の布団も、使い古した机も、年季の入った本棚も、天井に吊るされている照明も、全部見覚えのあるものばかりだった。
寸分違わず、ここは俺の部屋だった。
「夢、だったのか?」
だとしたら、どっちが夢だったんだろう?
あっちの、若くなった妹がいた方が夢なのか? それとも、俺が今ここにいる方が夢なのか?
確かなのは、今俺が感じている感触は本物だと言う事だけだ。なら、これが現実で、あれはただの夢だったと言う事か。取り留めのない考えに、苦笑が浮かぶ。本格的に寝惚けてるのかもな。魔法なんて、突拍子もないものが出て来た事だし。俺はどこかしらでそんな力を欲しがっていたのかもしれない。
膝の感触を確かめながらそんな事を思っていると、
「うおーい、恭ちゃーん。起きてるー?」
「ん? ああ、起きてるぞ」
襖越しに美由希の声が聞こえ、俺は咄嗟に答えていた。そう言えば、コイツの声を聞いたのも、いやそもそも一ヶ月近く俺は家族の声も、顔も見てないんだったな。懐かしくて当然か。いや、それは体感的なものか。実際は一夜の夢に過ぎない。
夢にしてもここまで詳細に覚えてるのは初めての経験だ。上手く現実との齟齬を埋められないでいる。
「ご飯できてるから、早く来てね」
「解った」
そう返事を返して、俺はいつものように着替えて、顔を洗いに洗面台に向かった。
縁側を通る途中、庭の盆栽を軽く見た。どれも過不足なく育ってるな。葉の色もいいし、仕事と大学であんまり世話をやれていないにしては、ウチの盆栽は力強く育ってる。実は密かな自慢だったりする。しかし、自慢できる相手がいないんだよなぁ。
「まあ、仕方ないと言えば仕方ないんだが」
自分でも老成してる気はしてるから、むしろ理解できたらあいつ等はババアになってしまうしな。
後で手入れをしようと決めて、居間に入った。
「あ、ようやく起きた」
部屋に入った俺を見て真っ先にそう言ったのは長いお下げ髪の妹――美由希だった。皿を並べながら、しょうがないなーこの人と言う文字を顔に貼り付けながら、苦笑を浮かべている。
と言うか、ようやく?
「何の話だ?」
「だって、恭ちゃん、久しぶりに朝の鍛錬寝坊したんだよ? もしかしてまだ寝惚けてる?」
「む」
「のへっ!? ちょ、いきなりデコピンはないでしょ!?」
「鬼の首を取ったような顔が生意気だ」
「理不尽だよ!!」
知るか。
それよりも、久々に爆睡してしまったらしい。朝起きる事に関しては得意だと自負していたんだが、何年かに一回、やってしまうのだ。ちなみに美由希もやるんだが、そう言う時は俺が蹴り飛ばして起こしてた。
一度、フィリス先生に相談した事があったが、過酷な鍛錬の蓄積が一気に吹き出て爆睡と言う形で回復しようとするらしい。それよりも鍛錬の内容を掻い摘んで教えただけで、強制マッサージコースに突入したのだけが頂けなかったが。
まあ、あのやけにリアルな夢は、久々の爆睡が見せた絵空事だったんだろう。
「美由希さーん! こっちの皿お願いしまーす!!」
「あ、解ったー! ほら、恭ちゃんも手伝ってよ」
「お前がこけないように監視するんだな? 任せろ。お前を犠牲にしてでも料理は護ってやる」
「格好いい言葉で格好悪い事言わないでよ!!」
格好悪くとも俺は本気だ。むしろ格好悪い故に本気になる。お前の普段のドジっぷりには散々迷惑被って来たからな。一日の活力をお前のドリフ張りのズッコケで台無しにしてたまるか。
美由希の足取りに注意を払いながら台所へ入ると、いつものように二人が戦っていた。いや、比喩ではなく、大マジで。
「カメェェェェ!! テメ、俺の味噌汁に何入れてんだコノヤロウ!!」
「サルゥゥゥゥ!! ウチの炒めモンに勝手に野菜突っ込んだやろ!!」
ごっつい拳と、でらすっげー手刀が十一発交わされ、しかしどちらも無傷。
相変わらず仲が悪いようで息が合ってる二人だな。
「妙に白熱してるな、二人とも」
「あ、師匠! おはようございます!」」
「お師匠、おはようございますー!」
「まあ、元気はいいが、なのはに見つからないようにな」
「「う」」
城島晶と鳳蓮飛。
この家でも武闘派なこの二人の天敵たる人物は、衝撃的な事に運動神経ゼロの我が妹だ。ああ、あっちで足を縺れさせてる馬鹿弟子とは、
「って、お前!」
「う、うわ、わわわ!!」
少し気を逸らした隙に勝手に転びそうになってる馬鹿弟子に、即座にスライディングをかまし、
「ほぎゃ!?」
「よっ、ほ!」
「ほい、よいさ!」
受身も取れずに倒れる馬鹿弟子にでっかい溜息。放り投げた料理は晶とレンが危なげなく食器と中身を受け取った。うむ、いい反応だ。
「美由希ちゃん、いつになったらまともになるんやろ?」
「無理だ、万有引力的に」
「惑星レベル!?」
「せめて、その辺り自覚して欲しい所なんスけどね」
「無理だ、ミミズが世界一周するほどに」
「虫レベル!? と言うかグレード下がった!?」
しっかり落ち込んだのを確認して、晶達から料理を受け取り、テーブルに並べる俺だった。
「うぅ、いつにも増してツッコミが厳しいよ……」
「これに懲りたら、師を敬え馬鹿者」
「おろろ〜ん」
いや、それ泣き声か?
その後、どうにか精神に折り合いをつけたらしい美由希も手伝って、朝食の支度は完了した。してしまった。
「ち、もう一度転べばいいものを」
お前は『お約束』と言うものが全く解ってない。嘆かわしいぞ。
「わ、私だって早々転ばないってば! と言うか最近外道発言が増えてるよ!?」
「?」
「そこだけ解らない振りするのズルイよぉ!」
本当に、そう言う気はないんだが。強いて言えば、お前には殊更遠慮してないだけだ。
なおも食い下がってくる馬鹿弟子をデコピンで悶絶させていると、玄関先に気配を二つ感じた。時計を見れば七時を少し過ぎた辺り。と言う事はかーさんのはずなんだが……もう一人は誰だ? 松尾さんか? いや、朝飯は家で食べる人だし、こんな時間に来るはずはない。誰だろう?
「たっだいまー! ご飯できてるー?」
「うーん、この匂いはレンの中華だな。相変わらず美味い匂いだ。今日も一日元気にやれそうだな」
「そうねっ」
――――。
「あ、恭也ー、おはよー!」
「お? 起きたか。お前、朝寝こけてたんだぞ?」
「あ、ああ。おはよう。それは美由希から聞いた」
なんだろう? かーさんと一緒に上がってきた男に、物凄く見覚えがあるのは。
記憶では二つ。
一つは十年以上前に。
もう一つは一月ほど前に。
「あ、士郎さん、今日は新作なんで期待してください!」
「お、晶のか? どれどれ、味の方は……」
箸を伸ばして、晶の新作だと言う煮物を口に頬張るこの男は……、
「あ、恭也、新聞取ってくるの忘れた。取ってきてくれ」
「もう、士郎さん! つまみ食いしちゃ駄目でしょっ」
「い、いや、晶が新作だって言うから……」
「駄目です!」
「うぅ」
かーさんに叱られて小さくなってる男は、
「おとーさん、また怒られてるの? 今度は何したんですかぁ?」
「な、なのはぁ! おとーさんはなぁ! おとーさんはただちょっと晶の新作を味見しただけなんだぁ!」
「おとーさん、つまみ食いは駄目だよ」
「な、なのはああああああああああああああああああ!?」
……あんなの俺のとーさんじゃねぇ。
〜・〜
一先ず、落ち着きたかった俺はとーさんに頼まれていた新聞を取ってくる事にした。後ろから聞こえてくる阿鼻叫喚なんて知ったこっちゃない。
嬉しいはずなのに嬉しくないと言うよく解らない気持ちを引き摺りながら、玄関の引き戸に手をかけた時、突然玄関先に湧いた気配に咄嗟に戦闘態勢を取った。
持っている武装は小刀一本のみ。感じる気配は二つ。敵意は感じないが、俺が察知できないほど隠行に長ける人間。相当の手練れと見て間違いない。
引き戸を一気に引く。
開けると同時に体を滑り込ませるように、玄関を飛び出し、その気配に向かって刃を走らせようとして、
「――――とっ」
止められた。
続けて追撃をかける事は、出来なかった。
俺の斬撃を受け止めたのは小太刀。
見覚えのある反りの浅い小太刀。
龍鱗。
御神の伝承刀。
それを握る人は――、
「……今日はいつになくいきなりだね」
「…………い、いえ。いきなり、気配を感じたもので」
「ああ、すまない。職業病と言う奴なんだ。って、これは前にも話したよ?」
柔らかい苦笑を浮かべたのは御神美沙斗。美由希の生みの親。本当のあいつの母親。
あの時、死を賭して刃を交えあっていた俺に、この人は優しく笑っている。むしろ白いサマーセーターなんて着て、その手に持ってる小太刀の方が違和感を醸し出してるなんて、なんの冗談だ?
本当はこの人は俺が戦ってた人じゃないのでは、なんて思えてくる。
はは、なんだこれは? いつの間に俺達は和解したんだ? あの時、彼女の目的を知って、それでも止める為に必死の思いで刀を振った。決着は着かず、俺は爆弾の爆発に巻き込まれて、それで――、
「――まーあたしらも悪いんだし。これはそれでいいじゃない。あたしは早いとこ飯が食いたいんだ」
思考に割り込んできたのは、もう一人の気配。
女性だ。
丈の短い赤いジャケットに、無地の白いTシャツ。男らしいベルトとタイトな黒いパンツ姿の、見た目は活動的な印象を与える人がいた。
黒いセミロングの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜながら、その人は不機嫌顔をして俺を見た。
「んで? 今日はどっちのよ?」
蓮っ葉な言葉と具体的な事を何一つ話さなかったので、少々判断に困る。こんな喋り方をする人は、大体裏の業界に片足を突っ込んでる人間だ。それに、妙に馴れ馴れしい。いや、この状況から見て、俺やとーさんとは顔見知りなんだろう。知らない事がバレるのは、経験則と直感から拙いと感じる。
とりあえず、話を合わせておこう。
「競作です。ああ、そう言えば晶が新作の煮物を作ったようです」
「ほほう? それはちょいと期待しようか。……あー、ところで、さ」
ぐいっと俺の首に腕をかけてくる女性。一応警戒は解かないが、この人、本当に馴れ馴れしいな。
「いつになったら母さんって呼んでくれるのかしらぁ?」
――――。
「いや、まあ母さんって呼び辛いなら、せめて敬語は止めてくれないかい? なんと言うか、こそばゆくてねぇ」
「まあ、恭也は素直じゃありませんから」
「だよねぇ? まああいつが育てたにしてはまともな方だけど、もうちょっと、こう、なに? ねえ?」
「根気強くやってくしかないかと」
「ち、やっぱそうなるのかねぇ。いーよねぇ、あんたは。美由希はちゃんと懐いてるし」
「いえ、その、なんと言うか……」
「あー、いーからいーから。噛み締めときなさい。ね? 終わりよければ全てよしって言うだろ?」
「はい……」
いい感じに綺麗な絵になりつつある美沙斗さんと俺の母と名乗る女性。邪魔するのは無粋なのでむっつり黙り込んでおく。その間に回復した頭を無理矢理動かして、この状況を検証し始めた。
まず、とーさんが生きていた。この時点で俺の知ってる、俺の世界の事実とは違う。あっちの世界は生きてたが、あっちのなのはに晶とレンの事を訊いても知らないと答えていた。つまり、この世界はあっちの世界でもなく、俺の世界でもない事が証明される。
さらに、いつの間にか美沙斗さんが朝の食事を共にしようと訪ねてくるところからして、おかしい。俺が美沙斗さんと最後に会ったのは、海鳴の廃ビル群で雌雄を決するときだ。それが、いつの間にか和解した事になっていて、かつウチを訪ねるような状況になっている。
極めつけは俺の母と名乗る女性。俺はこの人を見た事がない。母だと言われても全く実感がない。突然すぎる事もあるが、俺が明確に自分の母親だと認めたのは高町桃子だけだ。自分を生んでくれた事には感謝する。それと俺をとーさんに預けたのも。ただ、顔を知らない人に突然母親だと言われても、認められない。
――夢、か。都合のいい、俺が夢見た、夢。
「そろそろ入ろうか。あたしゃ、さっきから腹が鳴ってるのよ」
「そうですね」
「ほら、きょーやー、入るぞー!」
いや、夢なら、夢でいいか。
束の間のささやかな夢。
魔導書か、あるいははやて嬢か。
どちらにしても、聖誕祭の贈り物には相応しいものだと思って、俺は自然と笑みを浮かべ、しばしの間夢に浸る事にした。
「解ったよ、母さん」
〜・〜
大学のカフェテラス。午前の授業を終えた俺は、知り合いに連れられてここで食後の一服をしていた。
「へー、それで夏織さん、舞い上がっちゃったんだ」
「もう二度と呼ばん」
「いや、呼んでやれよ。ただでさえ、お前人に懐かないし甘えないんだから」
あの時、色々と舞い上がっていた俺はついついあの人を母と呼んでしまった。それでテンションが青天井麻雀の如く倍々ゲームで昇ってしまった我が生みの親は、嬉しがりーの笑い上げーのして、早朝から近所迷惑な騒動を巻き起こした。個人的にどっかにトツギーノして欲しい。
この俺があの人に組み敷かれて、そこから脱出できなかったんだぞ!? 何故かキスしてくるのを力技で押しのけて、そこに乱入した晶とレンとなのはに助け出してもらった。美由希? 俺を見捨てて美沙斗さんと和気藹々と談笑してたさ。
馬鹿弟子ぃ、今日の夜、覚悟しておけよぉぉぉぉぉぉ!
「それにしても高町くんの家って凄いよね。お父さんは一人だけど、お母さんは実質三人いるんだよね?」
「一人しか母親らしい人はいないがな」
高町母と不破母は悪ノリが激しくていかん。あれは母とか言う保護者じゃない。騒音製造機かなにかだ。
その点、美沙斗さんは昔気質な人で良妻賢母を絵に描けばあの人になるだろうな。まあ、下手に怒りを買うと、膾斬りか、串刺しにされるかのどっちかしかない訳だが。あれ? 良妻賢母と違う?
「突然お前の実の母だって士郎さんに紹介された時は、本当に吃驚したな」
「だよねー。でも、私、あの人好きだよ」
「だな。結構面白い人だし」
「赤星、月村、縁を切ってもいいか?」
『またまたぁ』
ホント、切りてぇ。その屈託のない笑顔が、それこそ青天井で怒りゲージを溜めていくんだが。
大学に来て、こっちの交友関係は俺の記憶と違っていなかった事に深く安堵したもんなんだが、こいつ等が俺の癒しを粉砕してくれる。俺に安らぎの時間はないのか!?
「二人のこの後の予定は?」
「俺は部活だよ。今日も汗だくになってくる」
「色気ないねぇ。いい噂とかないの?」
「うーん、ないなぁ。部活が楽しいし」
「うっわ、ここにも枯れてる人が!」
「高町には負けるよ」
「……お前ら、楽しいか?」
『楽しいに決まってる』
さいですか。最早何も言わん。
「高町君は?」
「ん?」
「この後の予定」
さて、どうだったか。
この世界で目覚めてまだ半日。今日の予定なんぞ知らない。ここに来たのだって、とりあえず平日だったからだ。もしかしたら何かしら仕事が入ってたのかもしれないが、前情報を持ってない俺にそんな事を求めるのは酷だろう。
どれだけ頭を絞っても、この後に何か約束をした覚えはないので、俺は予定はないと告げた。
「じゃあ、ウチに顔出してよ。ここんところ、お仕事で全然顔見てないから」
「ノエルさんか?」
「ファリンとすずかもよ。まーったく、年下の子には相変わらず意地悪なんだから」
ファリンと言うのは誰なのか、なんて疑問すら浮かんでこない。もう俺の知らない人といつの間にか知り合いになってても、なんとも思えなくなってきた。我ながら順応性高いなぁ。激しく悲しくなる。
いやその前に、だ。すずかと言えば、あっちの世界で見かけた月村に似た女の子の事じゃないか? 俺の世界の月村はノエルさんと二人暮しだった。ファリンと言う人とすずか嬢の二人を加えると四人で住んでる事になる。なんともはや、ごった煮過ぎやしないか?
「そろそろノエルが迎えに来るから、ここで解散しよっか」
「そうだね。俺もそろそろ部室に行くとするよ」
「あ、じゃあ、また明日ー」
「おう」
相変わらずの眩しい笑顔を無造作に振り撒きながら、颯爽と去っていく赤星に、俺はいつもは言わなかった言葉を言った。これで別れだと決めていたからだ。
「赤星」
「ん? なんだ?」
「また、な」
「え、ああ、また明日な」
改まった俺の言葉に、赤星は虚を突かれた様子を見せたものの、爽やかに別れを口にして、今度こそ部活棟の方へと歩いていった。
〜・〜
車で迎えに来てくれたノエルさんに礼を述べると、それを何故か羨んだ月村が「私も褒めろー!」とか言って抱きつこうとして来たので、往年の癖通り足払いをかけて、流れるように車の後部座席のドアを開放、「うきゃー!」とか叫んでるノーテンキをそこに入れて、華麗にドアをシャットアウト。
「いつもとお変わりなくお見事です。むしろ更に洗練されてきましたね」
「最近、頓に神経を研ぎ澄ましてたからな」
「ご心労、お察しします」
あー、この人は本当の癒し人ではないだろうか。今までの喧しい連中とは違って、なんて癒されるんだ。
「では参りましょうか」
「ああ。よろしく頼む」
ノエルさんからの労わりの言葉でかなりリフレッシュされた俺は、意気揚々と車に乗り込、
「酷いよ高町君! 女の子に足払いしちゃ駄目だっていつも言ってるでしょ!?」
ああ、俺の心がささくれ立ってくなぁ。
「……ご心中、お察しします」
ノエルさんの言葉に、マジ泣きした俺だった。
その後、月村邸に着くまで、月村がマジ泣きした俺を殊勝な態度で心配してきた。本人はなんで俺が泣いてるのかいまいち解ってないようだったが、ちゃんと気遣いができるいい奴だって事はよく知ってる。惜しむらくは、なんでその気遣いを俺に常時発動してくれないのか。
「まさか高町君が泣いちゃうとはねぇ。人生何が起こるか解らないもんだ」
「お前等がもう少し俺を労わってくれれば、泣かないで済むんだ」
「じゃあ、もっと困らせよっか。そうすれば高町君の貴重な泣き顔が見られるからね」
「ノエルさん、時々泣かせてくれないか」
酷い事を言う月村に対抗して、俺はノエルさんの顔を見つめながら言う。ノエルさんは大真面目な顔をして頷いて、こう言った。
「胸ですか、腿ですか? それとも股ですか?」
「胸で」
「では、後ほどベッドルームを用意しますので、そちらで……」
「そこぉ! なにエロティックな会話してんのよ!?」
「?」
「?」
「そこで不思議そうな顔をする!?」
「いえ、高町様を労わうのは私の務めですから」
「と言うか、主人の言動で疲れた俺を世話するのはある意味当然だ」
「「俺は正しい」みたいな顔して言ってるし! ノエルは私のメイドなんだからね!? 高町君にはイレインあげるから、それでいいでしょ!?」
「私としては是非とも高町様を癒して差し上げたいのですが……」
「駄目ー!!」
必死になってノエルさんを止める月村。やり込めてやった事でちょっと胸がすーっとした。ノエルさんにも冗談に付き合せてしまったが、本人も楽しんでるようだし、いいだろ。何気に熱い視線を俺に送ってくるのは、ネタの続きがやりたくて仕方ないんだろうな。この人も月村をからかう事に関しては積極的だし。
と言うか、イレインって俺が倒したはずなんだが。あの後、回収して直したんだろうか。まあ、些細な事か。
「全くもう! 高町君もそう言う悪質な冗談は言っちゃ駄目だよ? 女の子が本気にしちゃうんだからね?」
「明らかに冗談だと解るだろ」
「解んない娘が出てくるから問題なの! 自覚してってば」
何をだ。そもそも、胸で泣かせろとか、どう見ても無茶な要求だろ。普通、ちょっと親しいだけの男にそんな事、女性が許すはずもない。なんの問題もないではないか。
「ほらほら、中に入ろ。なんかもー、疲れちゃったよ」
「では、リビングでお待ちください。お茶をお持ちしますので」
「はーい」
キッチンの方へ向かっていくノエルさんの後姿をなんとなく眺めた後、俺は先に行ってしまった月村を追いかけて、リビングへ歩き出した。
途中、庭園やら、テラスやらが目に入ったが、全く違和感を感じない。この世界は俺の記憶を基にしてると思うが、この世界は俺のいる世界とは違うと明確に認識していても、気を抜くと自分の世界だと錯覚してしまいそうになる。人の曖昧な記憶で作られた世界にしては説得力が強すぎる気がする。人は壁の模様一つ一つ、傷一つ一つにまで記憶を割く事はしない。なのに、ここに傷があったとしてもそれに違和感を抱かせないほどの現実感がある。
ある意味、この世界はこの世界で存在していたのかもしれない。とーさんがいて、かーさんがいて、美沙斗さんがいて、母さんがいる。もしかしたら御神宗家も存続してるのかもしれない。そんなご都合主義の塊のような世界が、どこかにあるのかもしれないな。
「拙い、な」
本当に、拙い。
ここにいたいと思ってしまいそうになる。それだけここは心地よい場所だ。求めていたものが全部、ここにはある。失ったはずのものが、ここにはある。
「高町くーん? 早くおいでよー!」
「……ああ、今行く」
取りとめもない思考を振り切って、俺は月村に誘われるまま、リビングに入った。
果たして、そこには妹軍団がいた。
「……なのは?」
「あ、お兄ちゃん、漸く来たね」
「恭也さん、お久しぶりです」
「お久しぶりですー」
「あ、あー、フェイト嬢、はやて嬢?」
「アタシも忘れんなよな」
「ヴィータ嬢まで……」
ちっこいヴィータ嬢と中学生サイズの妹ズがコントローラーを片手に、全国を電車で回るゲームをしていた。
なんでだ。激しく誰か疑問に答えて欲しい。
「な、何故ここに?」
「今日は管理局のお仕事ないから、皆で集まろうって思って」
「クロノも誘ったんだけど、仕事が忙しいって言って今日は来れないそうなんです」
「でまあ、私達がここに来たら、先に来てたヴィータがゲームしてたんで、私らも混ざったんです」
「そ、そうなのか」
きゃいきゃいと、なんかそんな擬音が聞こえてきそうなくらいに華やいだ雰囲気に気圧される。う、こう言う若々しい雰囲気を苦手にするところがどうしようもなく自分が老成してる事を自覚させられる。
「あれ? すずかは?」
四人を見回して、自分の身内がいない事に気付いたらしい月村が四人に尋ねた。
「ちょっと遅れるってさっき連絡が。アリサが生徒会の仕事で時間取られるから、それに付き合うって」
「そうなんだ。アリサちゃん、引っ張りだこね」
「元々人気ありますし」
「あの仕切り能力は中々見られへんしね」
女性陣の会話に全く入れない俺。いや、入る気もないんだが、微妙な疎外感はある。
「忍お嬢様ー? すずかお嬢様がお帰りになられましたー!」
その声と共にリビングのドアを開けて入ってきたのは、ノエルさんに似た子と月村によく似た子と知り合いの幽霊によく似た子と、知り合いの幽霊だった。
って、
「あ、先にお邪魔してるでー」
「ごめんね、なんか去年の決算漏れが出てきたとかで、今年の文化祭の予算枠が減るとか言われて、抗議してきたのよ」
「抗議って言うか、アリサちゃんが一方的に校長先生を大声で威圧してたよーな……」
「あのね、すずか。お金の問題は退いた方が負けなのよ。世の中一番声の大きい奴がお金を分捕れるんだからね」
『当然ね。中々あの声量は出せないわよ』
「でしょ?」
「自慢気に言う事じゃないと思うんですが……」
ノエルさんによく似た子の乾いた笑いが、俺達の心を代弁していた。
それよりも、アリサ嬢が二人いる事に皆違和感を感じないんだろうか。瓜二つとまではいかないが、似通った部分がある二人の少女。一人は人間で、一人は幽霊。どっちもアリサ嬢なんで、呼ぶのに困ると思うんだが。
「ファリン、帰ったのですか」
「はい、お姉様! あ、お手伝いします」
カートにティーセットを乗せて入ってきたノエルさんの手伝いに勤しむ、彼女に似た子はファリンと言う名前らしい。先ほど出てきた名前の人か。お姉様なんて呼んでるところから、二人は姉妹なんだろうか。いや、ノエルさんは機械人形だから、人間的な意味での血の繋がりはないはずだ。まさか猫と言い張る見た目狸のロボットが主張するように、同じオイル使ってるから姉妹なんだとか言うつもりなんだろうか。
「おい、恭也。茶、いらねーの?」
「ん? ああ、もらおうか」
かなりどうでもいい事を真剣に考えていた俺を、ヴィータ嬢が呼び戻した。
一先ず、色々考えたい事もあったが、流されてみるのも一興かと思い、彼女の言葉に従う。テーブルを囲む少女達――約一名は断固少女と言いたくないが、まあ彼女達がソファーを占拠してしまっているので、壁際に置いてあった椅子を引こうとすると、
「あ、恭也さんはこっちですよ」
「え、お兄ちゃんはこっちじゃないの?」
「ええ!? 私のとなりやあらへんの?」
「ちょ、高町君は私が誘ったんだから、とーぜん私の隣でしょ」
「じゃあ、間を取ってあたし達の横って事で」
「アリサちゃん、反対側私が座ってもいい?」
「すずか!? 抜け駆けする気!?」
「お姉ちゃん、こう言うのは早い者勝ちなんだよ」
皆がよく解らない事で勝手に盛り上がってしまったんで、ノエルさんに勧められるままさっき座ろうと思っていた椅子に座った。
『ああああああああああああああああああ!!』
「な、なんだよ?」
「ちょ、高町君!? 私の横が開いてるでしょ、ホラ!」
「ちゃうて! 私の横やねんて!」
「お兄ちゃんは私のお兄ちゃんなんだから、私の横だよー!」
「あんたら少しは遠慮しなさいよ! あたし達は恭也さんに全然会えないんだから!」
「それとこれとは別だって!!」
更に加熱する女性陣。なんつーか、お前等もう少し落ち着け。
肺の中身を全部出すほどの深い溜息をする俺に、ノエルさんは何か眩しいものでも見るかのような顔をして、楽しそうに話した。
「人気者ですね」
「解らない話です」
「皆さん高町様の事が好きなんですよ」
「だとしてもこれは行き過ぎな気が……」
「まー、手を抜くと取られちゃいますし」
「ファリン」
「あ、えーと、競争率激しいですし」
「ファリン」
「あいた! お、お姉様角は酷いですよぉ」
「もう少し言葉遣いに気を付けなさい」
「うぅ、他にどう言えばいいんですかぁ? だって、恭也さんの状況って漫画とかアニメの話ですよぉ」
「メタな発言もやめなさい」
「八方塞がりですー!」
頭を抱えてしまったファリン嬢を容赦なくゲシゲシ言葉で踏みつけるノエルさん。
あっちもこっちも軽くヘルピクチャーだった。
〜・〜
「けーっきょく、あんまり喋れなかったー」
「それはお互い様よ。と言うか、ノエルゥ、あんたご主人様ほっぽって何楽しげに談笑してたのよ!」
「私はお世話をしていただけですが、何か?」
「高町君の慇懃無礼さが学習されてるー!? なんで? メンテは完璧だったはずなのに!!」
「私のメモリ構造は日進月歩の進化を遂げています。開発者と言えど、隠しフォルダの位置は解りません」
「――ノエル、今から一ヶ月かけてオーバーホールしてあげるからね。元の優しいノエルに戻ろ!」
「私は今の自分が大変気に入ってるのですが……」
「それ錯覚だから」
「と言うか、お姉様がいなくなっちゃったら、誰が食事の支度をするんですかー?」
「あ……」
「あ、お姉ちゃん、ノエルをメンテするんだったら、私なのはちゃんの家に泊まるね?」
「ご、合法的に高町家宿泊イベント作る気!? く、なんて私に優しくない家族なの!?」
「遠慮と容赦がないのが家族だって、恭也さんが言ってたよ」
「結局高町君が原因じゃないのよおおおおおおおおお!!」
別れを告げたはずなんだが、後ろから聞こえる四人の声は俺達に聞かせたいらしい。まあ、敷地が広いから隣近所には……聞こえてるかも知れんが、連日意味不明な爆発が起こっても警察に呼ばれない家だ。大声程度で何か悪い噂が立つ事もあるまい。と言うか、その辺の面倒事の後始末に梃子摺った事があるので、もう二度と折衝役なんてやりたくない。
「あ、あはは、忍さん、凄く悔しがってるね」
「聞こえん。俺には何も聞こえない」
両耳を塞いだところであいつ等の絶叫が聞こえなくなる訳じゃないんだが。
「私達、これから駅前のデパートに行くんですけど、恭也さんはこの後何かありますか?」
今日二回目の質問に、さてどう答えたものかと悩む。
具体的な行き先や行動は決めていないが、妹達にくっ付いて駅前に行くのは、恐らく居心地が悪いだろうな。
あ、そう言えば。
「はやて嬢、シグナム達は今どこにいるか判るか?」
「え? えーと、シグナムとシャマルは買い物行ってる筈やから、そろそろ家に帰ってる頃だと思います」
「ザフィーラは?」
「あ、ザフィーラはアルフと一緒に散歩に行ってますよ」
「お、デートやな」
「多分ね」
くすぐったい様な顔を見せながら、フェイト嬢はそう言う。
あの野郎、ちゃっかり彼女作ってやがるのかっ。
「そんな感じやけど、どないしたん? 三人に用事があるんですか?」
「いえ、気になっただけだ。ああ、それと俺はこれから用事があるから、デパートには皆で行って来い」
「はーい」
「まあ、ないと思うが、痴漢とか食い逃げ犯とか悪人にはちゃんと手加減しておけよ、なのは」
「な、なんで名指しなのー!?」
お前の砲撃を間近で見た素直な感想だ。あと、魔導書が使ったあの魔法も元はお前の奴だと言うし。釘を刺しておく必要がある。
「じゃあな。あんまり三人とも遅くなるなよ。特にはやて嬢、シグナムが剣を振り回して警察に捕まるなんてオチ、期待してるからな」
「期待してるん!?」
その後、別れを告げて、バスに乗ってデパートに向かった三人を見送った。
俺は踵を返し、一路足の先を山の方に向ける。先ほど言った用事だ。急に思いついたものだが、確かめておきたい事が出来たのだ。正直、あんまり、行きたくはないんだがな。
「ともあれ、確かめねばならんか」
心労は溜まる一方だった。
〜・〜
「ごめんください」
「おお、恭也君じゃないか。どうしたんだ? 突然。いや、いいとこに来た。これは天の采配か!」
訪ねた先はさざなみ寮。
一応自分の知人関係を確認できるだけ確認しておきたかった。そのために、あまり来たくないここを訪ねた訳なんだが……どうやら拙いときに訪ねたらしい。
「あ、耕介さんの顔見れたんで、俺は帰りますね」
「きょぉぉやくぅぅぅん、君に爽やかな笑顔は似合わないよぉぉぉ」
「何井戸から這い出してきそうな怨念染みた声出してるんですか。と言うか、痛っ!? 痛い、ちょ、指、肩に食い込んでますって!!」
「ふふふふふふふふふふふふ!! 戦力、戦力だぁ。これで時間が、終わりの時間が来るぞおおおおおお!!」
ヤバイ。ヤバイって。この症状は仁村さんの締め切り三日前!
ここで掴まれば肉体と精神がガリガリ削られて、生粋のアシスタントに育て上げられてしまう!
力技で耕介さんの指を引き剥がし、脱兎の如く寮を飛び出す。後ろから怨嗟の悲鳴が聞こえたような気がしたが、どうやら俺を追ってこれるだけの体力は既になかったらしい。一度掴まれば、九割の確率で引きずり込まれる人外魔境だが、脱出出来てしまえば、あちらはこっちを追いかけては来れない。体力的な問題もあるが、長く席を開けていると……、
「あばばばばばばばばばばばばばばばばば」
お、思い出したくない。あの時の真雪さんの剣閃は、人のそれを超えた速度を叩き出してた。あんなものに襲われて、生き延びられた俺って多分凄い。いや、自画自賛じゃなくて、運がいいという意味で。
と、ともかく寮にも俺の存在は知れているらしい事は判った。それだけ判れば、もう十分だ。耕介さんが非常手段でバイクなんて機動兵器を出してこない限りは。まあ、那美さん辺りは強制的に駆り出されてそうだけど。ご愁傷様です。
なんか「祈らないでくださいー」とか聞こえてきたが、幻聴だろう。うん、俺に霊の声なんて聞こえないんだし。
「あれ、恭也じゃないか」
「リスティさん、そ、それとフィリス先生」
「うふふふ、ここで会ったが百年目って言うんでしたっけ? 高町さぁん? 今こそ膝の診察しちゃいますよー!」
飛び掛って、文字通り空を舞って俺がいるところにすっ飛んでくるフィリス先生。両者の間にあった三〇メートルほどの距離を地に足を付ける事無く飛んでくるっ!
十分に引きつけたところで、全身のバネを利かせて右に跳ぶ。トンボを切って塀の上に着地。同時に、フィリス先生は勢い余って、アスファルトの上をヘッドスライディング。うお、砂煙が舞ってる。
「あーあ、フィ・リ・スゥ、いい加減学習しなよ。恭也は抱きつこうとすると逃げる習性があるんだって」
「猫ですか、俺は」
「塀の上にそんな風に座ってればそうにしか見えないよ」
「む」
バランスを取る為に両手を着いて塀に座っている姿はどうにも猫を連想させる。俺に反論などなかった。いつまでも上に乗ってるわけにもいかず、さっさと降りる。問題は、未だに起き上がる気配を見せないちびっ子い人の方だ。
「えーと、どうしましょうか」
「脱がさないのかい?」
「なんでやねん! ――はっ!? こ、この俺がツッコミを!?」
「ふ、いつまでも君にだけボケを預けてる訳にはいかないのさ。そろそろ君の笑いを返上するべきだと思うんだよね」
「ボケは俺の独占市場だったはず。そこへあえて踏み込んでくるとは、勝算があるんですね?」
「四年前、君と出会ってから、そして真雪と出会わせてから、君は僕達の影響を受けすぎた。そろそろ立場ってものを教えなければならないと思ったまでさ。俄か仕込みと本醸造の違いってものを教えてやるよ」
「くっ、かつてない強敵がここに!?」
な、なんて事だ! リスティさんや真雪さんが最近大人しくなっていたのはそう言う意図があったのか! 市場を広げていたと思っていた俺を嘲笑い、俺が開拓した市場を、そのままそっくり頂く。な、なんて狡猾。しかし、この人達ならば――やる! そう確信できる!
だが、俺には切り札がある。取って置きのネタがな!
「ところで、リスティさん」
「なんだい?」
「今、寮が『三日前』に入ってまして……」
「あ、薫かい? 今日ちょっとそっちに泊まる。え? 今からじゃ夜中? は、嘗めちゃ困るね。九州なんて、ひとっ飛びに決まってるじゃないか」
俺にも見えないほどの速度で携帯電話を取り出したリスティさんは口早に電話の向こうの人に一方的に告げると、即座に切った。そして、滅多に見られない可愛らしい笑顔を俺に向けて、
「じゃ、僕は仕事で帰れないからー」
超愛想振り撒いて消えていきました。ありゃ、当分帰ってこないな。
ふ、ボケの市場開拓など誰がさせるものか。これは俺のものだ!
「うぅ、そろそろ気にかけてくれてもいいじゃないですかぁ」
そんなくぐもった声が聞こえたのは、俺が握り拳を天に突き出していた時だった。
〜・〜
あの後、フィリス先生には明日診察を受けに行くと約束をして機嫌を直してもらった。流石にぽろぽろ涙を流す姿に良心の呵責が。俺とて鬼ではない。いや、世間的に鬼畜とか言われるが、本当はそうじゃないんだよ? だもんで、ちゃんと明日は行くと約束したのだ。
それを信じてくれたフィリス先生には深く感謝したい。ただ、物凄く喜んでおられて、ポロっと、
「今まで溜まったツケがありますから、明日は一日病院ですね♪」
と本人は小さく言ったつもりなんだろうが、常人よりも耳がいい俺にはばっちり聞こえてた。
は、早まった。今から取り消す事は、無理だろうなぁ。上機嫌だもんなぁ。ここで断ったら、また泣いてしまいそうだし。俺に出来たのは、引きつった顔を出来るだけ悟らせないようにする事だけだった。
フィリス先生を病院へ向かうバスに乗るのを見送って、俺は山の方へと向かった。今度はさざなみ寮ではない。
墓だ。
「…………」
記憶にある通りに道を進む。道も記憶にある通りにある。だから、間違えもしない。
そして、辿り着いた。
足を止めた墓石には『高町家之墓』と彫られている。
「――やはり、あるか」
最近代えたのか、花は瑞々しさを失っていない。手入れもしっかりされている。墓石を撫でて、指が引っかかる。そこには、「高町士郎」の名前が、ある。
「先祖の墓って線も消えたか」
苦笑が浮かんだ。苦笑しか浮かばない。
全く。この世界は滅茶苦茶だ。死んだ人間が生きていて、知らない人間と知り合いで、いないはずの人間がいる。でも、誰もがいて欲しいと少しは思った人達で、その人達が実際にいるこの世界は多分幸せな世界なんだろう。
「はやて嬢もこう言う夢を見ているのか?」
望んだ夢。望んだ幸せ。それがここにはある。絶対に手に入らないであろう、理想の世界。そこにいるだけで幸せになれる。誰もが望むだろう。誰もが欲しがるだろう。
「だが、紛い物だ」
俺のとーさんは死んだ。だから俺は一人になって、自棄を起こして、無茶をして、そのツケを払って、美由希を育てて、家族を護ろうとした。それは俺が俺になった経緯。俺を形作った数々の出来事。これがあったからこそ、俺は俺でいる。
それを忘れてはならない。何もかもが手に入る人生を望んだ時もあったさ。でも、それは夢だからこそ考えられた事だ。実際にこうしてこんな状況になって、俺はこの微温湯に浸かり続ける事は出来ないと知った。
自分の手で築きあげて来たんだ。こんな、与えられた幸福、気味が悪い。
「なあ、とーさん。俺はここを出るよ。やっぱり考えは変わらなかった。納得できれば、ここに居続ける事も考えたけど、無理だ。ここは、俺には合わないらしい」
返答はない。死人が口を開く事はない。これは俺の独り言だ。別に返事を貰えなくてもよかった。既に俺は決めてしまった。それを覆す気はない。ただ、せめて誰かに俺の決意を話したかった。
「じゃあな、とーさん。今度来る時は……そうだな。呑めないが、杯を交わそう」
そう呟いて、俺はとーさんに別れを告げた。
〜・〜
帰宅すると、いい匂いが漂ってきた。そうか、もう夕飯の時間か。
壁掛け時計を見れば既に六時半。その割には、住人達の気配がしない。代わりに台所から喧騒が聞こえてくる。またやってるのか、あいつらは。
「ただいま」
「カメェェェェェェェ! あ、師匠、おかえりなさい!」
「サルゥゥゥゥゥゥゥ! あ、お師匠、おかえりです!」
「で、今回はなんだ?」
毎度毎度、喧嘩の種に事欠かない二人だ。今回も些細な事なんだろうと当たりを付けると、やっぱりそうだった。
「コイツが俺の味噌汁に煮干突っ込んだんですよ!?」
「人聞きの悪い事言わへんで欲しいわ。入れ忘れとった出汁を与えてやろ思っただけやって」
「バッカヤロウ! 今日のおかずに合わせて出汁も作ってんだよ!」
「ほなら、なんでウチのホイコーローの肉を真っ二つにしてくれたんや!?」
「アレじゃでかすぎだろーが! なのちゃんじゃ食いきれねーぞ!」
「アホかああああ! そんなん承知し取る! それ見越して大きく切ったんや!」
「雑なんだよお前の材料の切り方は! いつも同じでかさじゃねーか!」
「晶こそ、いっつも調味料一個入れ忘れんの止めて欲しいな! おかげでウチの料理に影響出るわ!」
「なんだとお!?」
「なんやねん!?」
あー。
まあ、いつものようにいつものような喧嘩を繰り広げていた。いつの間にか、俺への説明でなくなってる。二言目で違ってる。
しかし、どっちも相手の事をよく見てるもんだ。食材を同じ大きさに切るのは簡単だが、火の通り方は食材によって全部違う。同じ大きさで同時に入れても焦げるものもあれば、火が通っていないものもある。食材の性質をしっかり覚えていなければ、同じ大きさの食材を調理する事は出来ない。また、料理の品目によって出汁一つに気をかけるその気配りの良さも目を見張るものがある。毎日食べていた訳だが、微妙なその味加減にそんな意味があった事は思い至らなかった。情けない話だ。
ともかく、二人はしたいようにさせておこう。どれだけ喧嘩しても、さっきから包丁を下ろす事や、鍋をかき回す事を止めてない訳だし。
「まあ、夕飯期待してる」
「はい! うおおおおおおお、カメェェェェェェェェェ!」
「はいな! はああああああ、おサルゥゥゥゥゥゥゥゥ!」
頂上決戦に突入した二人を置いて、縁側に座る事にする。
今朝見た盆栽は……大丈夫か。まあ、手間暇をかければいいもんじゃない。伸びるのはそのままに任せて、少しだけ悪いところを切り取ってやる。それだけでいい色艶を見せてくれる。うむ、やはり何かを育てる事は楽しい事だ。
「…………電話か」
立ち上がって、廊下にある電話が『鳴った直後』に取る。
「もしもし、高町ですが」
『あ、恭也!? きょーや!?』
電話の向こうで騒ぐ声には心当たりがあった。
英国人なのに日本語が達者な、世界的なうたうたいだ。
「フィアッセか」
『そうだよー! 今コンサート終わったんだー!』
「そうか。お疲れ様」
叫ぶように言うのは周りが騒がしいからだろうな。コンサートが終わって打ち上げでもやってるんだろう。フィアッセの声の後ろから喝采やら拍手やら悲鳴やらが聞こえる。相当盛り上がってるな。
「そっちは盛り上がってるみたいだな」
『うん! 今日はね、すっごくお客さんも喜んでくれたんだよ!! やっぱり地元だと盛り上がりも違うよ!!』
と言う事はイギリスでやったのか。それは盛り上がるだろうな。CSSのお膝元、創立者の出身国ともなれば、熱狂的なファンが多いんだろう。
「盛り上がりすぎて羽目を外すなよ? 特に喉は痛めないようにな」
『解ってるー! あ、そろそろ移動するみたい! あのね、桃子とか士郎とかなのはとかレンとか晶とか』
「あー、解ってる皆に言っておくよ」
『ゴメンねー! 申し訳ないけど皆によろしく伝えてねー!!』
慌しくそう言って、電話は切れた。少し名残惜しい気もするが、元気に頑張っているのが判ってよかったか。晶とレンには少し悪い事をしたかと、少し思った。
そう言えば、ティオレさんはこの世界ではまだご存命なんだろうか。俺の世界では、半年前に静かに息を引き取った。色々な人がティオレさんを訪ねて、皆涙を流していた。
まだ早い。
惜しい人を亡くした。
典型的だけど、まさにその通りだった。あの人はもっと生きていてもいい人だと思うし、俺自身、もっと生きていて欲しかった。でも、ティオレさんは自分の生涯に悔いはないと言っていた。フィアッセと一緒に歌えた事が、最後の節目だったらしい。
「生きているのなら、声だけでも聞きたいものだが……」
一市民がおいそれと電話をかけていい相手でもない。ただ、この世界の事を考えると生きていそうな気がする。むしろ生き生きしていそうな気がする。
「……結構難しい」
生きていて欲しいんだが……あの人のからかい癖には随分と振り回されたんだよなぁ。来て欲しくないが、来ないと寂しい。夏場の台風みたいなものか。俺の周囲を掻き回していくのなんてまさにそれだった。
「ただいまー!」
「うーい、お邪魔するよー」
「お前、段々遠慮なくなってきたなぁ」
「なぁによ? いいでしょ別に。桃子ちゃんが誘ってくれたんだしさ」
「そうですよぉ。夏織さんには恭也の事、お願いするんですから」
こらこら。
「勝手にお願いするな」
「きょ、恭也!? 恭也ー!」
何故か突然テンションの上がった生みの親が突撃を敢行。
足払い。
――しかし、避けられる。
「む」
「ぬ」
再度、突撃。
再度、足払い。
――しかし、避けられる。
「むぅ」
「ぬぅ」
再々度、突撃。
再々度、足払い。
――しかし、避けられる。
「お前等、なにしてんだ?」
「息子が抱きしめさせてくれないのよ!」
「この歳でそんな趣味はない!」
とーさんの呆れた言葉に、俺と母さんは意地になって反発する。
大体なんで皆抱きつきたがるんだ? ごつごつした男の体なんて抱きしめて何が楽しいんだか。
「ご飯できましたよー!」
「ほら、その辺にしとけ。飯だぞ飯」
「ちぇ、まあ、次に取っておくかね」
「次などない」
その俺の言葉に、母さんは余裕の笑みを浮かべるだけだった。あの人の力量を考えると、いつか抱き付かれそうだが。やれやれ、気の抜けない人だな、我が生みの母は。
自然と浮かんだ笑みに苦笑してしまいながら、俺は家族の団欒へと入って行った。
〜・〜
食事を終えて部屋に戻った俺が先ずした事は、武装の確認だった。
前に使っていた刀と八景。それと鋼糸と飛針。
必要なのは、二刀だけ。
二つを握って、道場で振る。
始めは体を解すように。段々温めるように。
刀を振ると、思考が纏まってくる。
詰まるところ、俺は帰りたい。自分の居場所に、自分の家に、自分の家族の下に、帰りたい。
ここは、違った。俺の知らない世界。だけど、みんなが笑っている世界。羨ましい世界だ。
俺の中で、この世界には価値がない。俺が自分で手にした世界じゃない。人から譲られた、どこか他人の匂いがする世界だ。そんなところで安らごうなんて気は起きなかった。
「……与えられたものは、得てして身に余るものが多い」
経験則からだ。自分が欲しいものは必要に迫られ、あるいはただ欲を満たすために手を伸ばす。それで傷ついたり、手に入れたりするのは自分の責任。だが、与えられたものは、自分の意に沿わないものが多い。どこかしら、与えた人間の残滓が混じっている。その違和感はずっと付きまとって、やはり自分のものにはならない。
施しは受けない。こんな施し、受けられない。
「――行こう。決着を、着ける時だ」
刃を納めて、俺はあの人が居る居間に向かった。
「試合ぃ? 俺がか?」
改めて話があると、俺は切り出した。
その場に居た家族と、晩酌を頂戴していた母さんが俺ととーさんを遠巻きに見ている。それを若干意識しながら、俺は話を切り出した。
「一度だけでいいんだ。俺は、とーさんと本気でぶつかりたい」
「……と、言われてもなぁ。俺は引退した身だから……」
「…………」
「――ふぅ、そう言う言い訳が聞きたいんじゃないんだな」
解っている。とーさんには往年のキレはない。今の言葉の通り、引退して剣士としての訓練は積まなくなったのだろう。そんなもの、少し見れば解った。だけど、これはとーさんにしか頼めない事だ。だから、無理にでも頼まれてくれないと困る。
「お願いだ、とーさん。今夜一度だけ、一撃だけ、俺とぶつかってくれ」
頭を下げる。床に着くぐらいに下げる。
土下座だ。誠意を見せるのに、俺はこの方法以外知らない。だから、誠心誠意頼み込むしかない。
「お、おいおいっ。そこまでするなよ。解った! 解ったから、頭上げてくれって」
「ありがとう、とーさん」
「全く。お前に頭下げられたら、首を縦に振るしかないだろうが」
そう思ってくれる事が嬉しかった。
とーさんは刀を取りに部屋に向かった。俺は遠巻きに見ていた母さんに、先に道場に行っていると伝言を頼み、一人になりたいと人払いをした。
道場の真ん中で、目を閉じる。体の熱は引いていない。元よりそのつもりで温めた事もあるが、それ以上に体が興奮しているのが判る。恐怖と武者震いに震えている。
今から俺の目の前に現れるのは、俺が目指して、俺が辿り着きたかった場所だ。そこをずっと目指して、でもその遠さに挫けそうになって、今も惨めに追い続けてる俺の理想。
いつか辿り着きたいと願って、そこに立つ為の努力をして、でもその場所は遠ざかっていくばかりで、だけど諦めきれない夢。
「恭也」
ゆっくりと目を開ける。
目の前には昔の仕事着を来た高町士郎がいる。道場の入り口には俺達を心配する家族が居る。
「一撃でいいか? 何せ体力ないんでな」
「ええ。元より、そのつもりです」
一撃。
勝負を決するための一刀。
決められれば勝ち、外れれば負ける。それだけのことだ。
俺は右腰に一本を差し、背中に柄が右肩に来るように八景を背負う。
それは、とーさんと同じ刀の差し方だった。
互いに、これから放つ技は察している。俺が話を持ち掛けた時から、簡単に予想できる形だ。
合図はない。
ただ、俺ととーさんは同時に刀の柄に手を添えて、重心を前に落とす。
道場を満たしていく緊迫感に、体感温度が冷えていく。
高町士郎の殺気に晒され、体が竦みあがる。
それを俺は当然と受け止めた。
目の前に居るのは俺が夢見た俺の理想。
引退したからなんて言い訳、このご都合主義の世界ではなんの理由にもならない。
恐らくは俺が幻想した最強のイメージがそこにいる。
力も、速さも、技も、何もかもが俺を超越した存在が、いる。
心臓が高鳴る。
五月蝿く鳴り響く心臓は正直だ。
怖くて怖くて、でも今から起こる、もう二度とあり得ないであろう自分の父とのたった一度だけの剣戟。
大好きだった。
格好よかった。
俺の理想だった。
俺の壁だった。
それが目の前に居る。
少しずつ、重心を落としていく。
走り出せるギリギリまで。
互いの間合いは一刀足。
これから放つ技の有効射程範囲内。
御神の奥義の中の抜刀技の三番目。
とーさんが最も得意として、俺もそれに憧れて血反吐を吐いて身に付けた技。
俺が持つ、一番馴染みがあって、一番信頼できる技。
それをこれから放つ。
勝てるのか解らない。
俺の理想故に、俺は負けるかもしれない。その可能性の方が高いだろう。
だが、この優しい嘘の世界を否定するには、高町士郎に勝たなければならない。
汗が流れる。
滴り落ちた汗が床を一つ二つと叩く。
三つ目の汗が、床を叩いた時、俺は飛び出した。
コンマ遅れて相手も飛び出した。それはブランクがあるからか、それとも俺に付き合ったのか。
小さい事だ。今は全霊を篭めて、刀を抜く時だ。
視界から色素が抜ける。
灰色の世界。
体感速度が変化する。
周囲の動きが鈍くなる。
――奥義之歩法 神速
その中で、俺ととーさんは変わらず攻め入る。
互いに全力の一撃を放つんだ。
神速をかけない手はない。
御神流 奥義之睦――
加速される感覚の中で、俺ととーさんは同時に右腰の刀を抜き放った。
斬り上げ。
バツの片棒を互いに描き、交点で衝突する。
腕に走る痺れ。
斬撃の衝撃じゃない。
お互い徹を込めていた。
相殺し切れなかった余波が俺の腕を痺れさせた。
足りないのか。
徹が打ち負けたと言う事は、それだけ俺はまだ腕がない事になる。
だが、後悔なんてしない。そんな余裕はない。
右を抜く。
鞘走りを目一杯に利かせ、背中からの四刀最速の一刀を相手に見舞う。
抜刀直後の抜刀こそがこの技の最大の強み。
例え一刀目を凌いでも、追撃の二刀目の速度には、誰も対応できない。
だからこその必殺。
その一刃を振り下ろす。
そこで、何故か自分の過去を思い出す。
物心ついてからの事を思い出す。
とーさんと一緒に回った日本。
たまに渡った異国の地。
出会った人々。
手にした家族。
出来た友人。
得た苦楽。
走馬灯のように俺の人生の全てがその一撃に篭められた。
刀が悲鳴を上げる。
美しい悲鳴を上げる。
飛び散る火花は喝采の拍手と涙か。
今度は打ち負けなかった。
腕は痺れていない。
左の痺れはまだある。
不安が過ぎる。
過ぎるが、最早気にしていなかった。
お互いに体を捻る。
右から始まった回転に任せ、自ら回転する。
回転の起点で、俺は神速の深度を下げた。
深く深く潜る。
四半回転。
周囲の景色は黒くなる。
見えるものは何もない。
半回転。
何もない中、背中にとーさんの気配だけを感じる。
ただ一人、勝たなければならない人だけを感じる。
一回転。
果たして、目の前には敵がいた。
音も聞こえない暗い世界の中、とーさんの姿だけがよく見えた。
三撃目。
先の二撃とは違い、鞘走りの速度はない、抜刀で得た回転と自分で捻った回転を合わせた斬撃。
体重と遠心力を乗せた三撃目は四刃の中で最大の攻撃力を持つ。
その左の一刀を、振るう。
銀閃は互いの身を削って、弾けた。
三撃目には俺の気持ちが篭っていた。
勝ちたいと。
超えたいと。
追いかけ続けたんだと。
寂しかったんだと。
それを篭めた。
届いたのだろうか。
届いて欲しいと思う。
回転で右半身が前に出る。
最後の――攻撃。
俺は全てを出し切ったのだろうか?
伝えたい事は全て伝えたのだろうか?
出し切りたい思いはもうないのだろうか?
刹那、自問して、未来の事を篭めようと思った。
俺の未来。
どう歩むのか解らない未来。
けど、歩みたい未来はある。
とーさんは笑うだろうか?
できれば、笑って欲しい。
楽しそうだと言って、大笑いして欲しい。
八景を振るう。
減速し始めた回転を無理矢理回す為に、思いっきり腕を振る。
届くだろうか。
届かせたい。
俺の、俺の――、
八景の刃ととーさんの刃が交わる。
音の聞こえない世界で、それでも刀の悲鳴を聞いた気がした。
八景の刃はとーさんの刃を喰っていく。
徐々に、徐々に。
そして、半ばまで入って、とーさんの刀は折れた。
重さを失ったかのように切っ先は空を舞う。
八景は先を進む。
とーさんは斬り抜いた姿勢のまま。
そして、八景は届いた。
俺の未来をとーさんに届けた。
――薙旋
視界に色彩が戻る。
急激な変化に気がおかしくなりそうになる。
長く潜りすぎた。
いや、それは体感上のものだ。実際には一秒と少しの時間だろう。だが、それでも十分無理をした。
体は酸素を欲し、筋肉は力が抜け、頭は真っ白に染まろうとする。それをどうにか耐えて、俺はとーさんを見た。
あの世界で――神速を多重にかけた世界で、俺は自分の刃が届いたのだけは見えた。その後どうなったのか解らない。何かを斬った気がするし、気のせいのような現実味のない感触だけがある。早く確かめたかった。だから俺はとーさんを呼んだ。
「とーさん」
「……全く、親にこういう事するもんじゃないぞ?」
軽い溜息に深い疲れを滲ませて、胸から腹を血に染めた高町士郎は、清々しく笑っていた。
「お前も出来たんだな、神速の二段がけ」
「……美沙斗さんと戦った時に、少しだけ出来たんだ」
ビルでの戦闘。
全ての技が通じず、最後の最後に見えた神速に神速をかける。体感時間は更に引き延ばされ、その中を相手よりも早く動けるようになった。だが、よほど脳に負荷をかけるらしく、周囲の情報は強く意識したもの以外は捉えられなくなる。滅多に使えない、最後の切り札。
これが出来なければ俺は美沙斗さんに殺されていた。命を削る戦いをずっとしてきた剣士と、模擬的な戦闘しかした事のなかった自分の差を埋めるには、こんな反則技が必要だった。
ただ、とーさんも出来たんだな。いや、俺はどこかで出来て当然と言う気はしていた。
「……お前の気持ち、伝わった。今まで苦労かけたな」
「……慣れたさ。今はアレくらいの重みがないとふらつくんだ」
「いい重みだろ?」
「ああ」
家族を護る大役。
務められるのかと悩んだけど、でも背負ってよかったと胸を張って言える。
「こんな俺が理想だとはねぇ。なんだ、照れるな」
「父親が理想と子供が言ってるんだ。思う存分照れておけ」
「はは、ありがたく照れておこうか」
多分、色々と美化している部分はあるんだろう。実際のとーさんとは似ても似通わないのかもしれない。でも、俺の中でとーさんが理想と言う事に変わりはしない。強いと幻想するのはある意味当然の事だ。
「あー、でも、俺を追うのもいいけどさ、そろそろ自分の道を作れよ」
「解っては、いるんだがな」
「その辺りを手伝ってくれる嫁さんをもらうとか」
「検討してみる」
「おお、進歩したな」
昔ならにべもなく扱き下ろしてただろうな。
「ま、未来のお前に期待するのは孫だよ、孫。ちゃんと作れよ? 子供」
「ふ、善処する」
結婚なんて、ましてや子供なんて想像の埒外だが、いつしか俺にもそう言うものが訪れるのかもしれない。やっぱり、想像できない事だけど。
「さ、て、と」
そんな事を言いながら、とーさんはゆっくりと立ち上がった。さっきまで流れていた血の痕はない。俺が斬った服は元に戻っている。そのとーさんの周りにみんなが集まった。それを見て、漸く俺は帰るんだなと解った。
「もうちょっとこっちにいてもよかったと思うんだけど……」
「たまに遊びに来るんだったらいいのかもな。ちゃんと帰れる保障があればの話だが」
かーさんの名残惜しそうな顔に俺はそうおどけてみせる。
「恭也、あたしの事、どう思った?」
「少し幻想が崩れたぞ。どうしてくれる」
「そうかい? ならしてやったりだね。まあ、探そうと思えば探し出せる場所にいるわよ。あんたが訪ねてきても追い返さないから安心しときな」
「機会があればな」
互いに苦笑して、母さんが少し泣いている事に気付いたが、何も言わなかった。
「恭ちゃん……」
「あー、まずはとーさんの言う事は聞いておけよ。あと台所には立つな。あと何もないところで転ぶな。あと読書で図書館に閉じ込められて泣くのも止めろよ?」
「ちょ、なんで私だけそんな注意事項だけなの!?」
「いやー、美由希ちゃんの場合そうなりますよ」
「だよな。俺も言っちゃうかもしれないし」
「レンー! 晶ー!」
馬鹿弟子はいつも通りの馬鹿弟子だった。だが、それでいい。お前は自然体でいれば、それでいいんだ。
「レン」
「あ、はい」
「あまり晶と喧嘩しないようにな。なのはに怒られたいんなら別だが」
「いや、そんな特殊な趣味はないですって。まー、おサル次第ですねぇ」
「テメェ!!」
「晶」
「あ、はいっ!」
喧嘩が始まると時間がとられそうなので、強引に割り込んだ。
「真っ直ぐに生きろ。お前が許せない事は、許すな。お前は、真っ直ぐに生きろ」
「はい!」
「もう御神の剣を学びたいなんて言わないよな?」
「はい! 俺は、自分の拳で見つけます!」
「それでいい」
その真っ直ぐさがお前の武器なんだからな。
「恭也……」
「……こちらではお幸せでいらっしゃいますか?」
「ええ。静馬さんも御神の人達は健在だよ」
ならなんで美由希がここにいるのかと言えば、ご都合主義なんだろう。
「なら、何も言う事はありません。ああ、ところで長男か次女のご予定はありますか?」
「今日聞いてみるよ」
「いい返事が来る事を祈ってます」
静馬さんなら頑張りそうだし。割と無責任に発言してる気もするが、この人には剣よりも子供を抱いている方が似合っているからな。
「最後に――なのは」
「あ、うん」
「友達を大事にな。あの子達はいい子達だからな。特にはやて嬢は保障する」
「あはは、うん、大丈夫だよ。皆仲良しだから」
「二人のアリサ嬢によろしく言っておいてくれ。結局どっちがどっちなのかよく解ってないんだが……」
「その辺含めて報告しておくね」
「……次元を超えて殴りに来そうだから止めてくれ」
「報告しておくね」
「……はい、お願いします」
最後の最後で妹に言い負かされた。凄く格好悪い気がする。
いつの間にか、俺自身を光が包み始めた。どうやら律儀に今まで待っていたらしい。憎い演出と言えるか?
「じゃあな。もう会う事はないが、皆達者でな」
「うん!」
「バイバイ!」
「さようならー!!」
「お元気でー!!」
消える寸前まで、皆手を振ってくれた。その事に色んなものが込み上げてきて、涙を流してしまった。しかし、拭う気にはならなかった。
そして、最後の最後に、
「もう来んなよ! 俺の息子ー!!」
とーさんはどこに行ってもとーさんだった。
〜・〜
海浜公園で、アリサとすずかは身を寄せ合って、沖の海上で光る交戦を見守っていた。
二人には何が起こっているのか何も解らない。一つ解っているのは、あそこで戦っているのは自分達の友人である事だけだ。それだけに心配だった。危ないと言う事は一目で解る。自分達には見守っている事しか出来ないのも。
不安と悔いを胸に抱きながら、アリサは自然とすずかの手を強く握っていた。それに気付いていたすずかは何も言わず、そのままにしている。自分も不安だ。握っていてもらえる事で少しだけ安心できる。だから、何も言わない。
すずかはほんの少しだけアリサよりも冷静でいた。だから聞こえた。自分の後ろで何かが倒れたような音がしたのを。
「え?」
「え、な、なに? って、恭也さん!?」
すずかが後ろを振り向いたのに驚いて、おっかなびっくりで自分も後ろを見たアリサは、そこに人が倒れているのを見つけた。恭也だった。なのはの兄で顔もよく知っている。だから見間違える事なんてない。
アリサは慌てて恭也の傍に駆け寄った。
「恭也さん!!」
「……ああ、アリサ嬢か。すずか嬢もいるのか」
「え……?」
自分の呼び方に二人は違和感を覚えた。
恭也は自分達をちゃん付けで呼ぶ。それにもっと声も優しい。表情だって。
「どうなったか、解るかい?」
恭也はそんな二人の反応には気付いていたが、あえて触れず状況の確認をした。
「えっと、恭也さん達と会った後、気付いたらこの公園にいて、それでなのはが……」
「なのはちゃんが、あっちの海の上でいっぱい光ってたんです」
「そうか。ありがとう」
二人の説明に恭也が頷いた時、突風が三人を襲った。
「きゃあ!」
「掴まれ!」
二人の手を握って、自分の体にしがみ付かせる。恭也は不破を少しだけ懐かしさを感じながら握り、地面に突き立てた。
「ないよりマシレベルだが」
刀の前に物理的な壁を作った。これでいくらか風を凌げるはずだ。
二人をできるだけ壁に近いところに座らせ、恭也は海を見た。三条の光が海上の巨大な生物に向かっている。その三条が途絶え、そのすぐ後に天に昇る光の柱が見えた。
「ど、どうなったんでしょう?」
「解らないが、事態は終わったらしいな」
「ほ、ホントですか!?」
戦いの気配が消えた。酷く感覚的なものだが、場にこびり付いていた戦いの緊張が解けたのを恭也は感じた。
「多分な。さて、この後どうす」
『はいはーい! お待たせしました高町恭也さんっ。こちら管理局アースラ所属オペレーター兼執務官補佐のエイミィ・リミエッタです!! 先日はクロノ君がお世話になりましたー!』
やたらテンション高い人が現れた。
場の空気にそぐわないテンションの高さに、すずかとアリサが恭也の体の陰に隠れてしまったほどだ。流石にそれを見て、自分の状況を察したのか、エイミィは極普通の様子を見せた。
『いやー、さっき闇の書の再生プログラムを次元の彼方に追放できたんで舞い上がってたんですよ』
「と言う事は、はやて嬢は助け出せたのか?」
『もうばっちりです! ヴォルケンリッターも無事戻ってきましたよー!』
「そう、か」
守護騎士達の存命を聞いて、恭也は安堵する。
「結局なにがどうなったんだ?」
『えーと、あなたとフェイトちゃんが取り込まれて、被害が広がらないようになのはちゃんが海上まで誘導して、そこで決戦に持ち込もうとしたんですが、プログラムの管理者権限を手に入れたはやてちゃんが自力で戻ってきたんですよ。それで管理者権限の範囲外だった防御プログラムをさっき皆で砲撃しあって上に打ち上げました。そこでアルカンシェル――えーと、次元の狭間に送り込める大砲でどーんとぶっ放した訳です』
「そうか……」
『いやー、結構ギリギリだったんですよ?』
「何がだ?」
『あなたが出てくるのを、みんなギリギリまで待ってたんです。なっかなか出てこなくて、リミットギリギリで出てきてくれた時はホントほっとしました』
何か知らないところで迷惑をかけていたらしい事に、恭也は苦笑した。。それについて謝罪しようとすると、エイミィは頭を振った。
『いえいえ。結局手助けらしい事は出来てませんから』
「そう言うなら、そうしておこう」
『はい。で、この後アースラの方にご足労願いたいんですが……』
エイミィが恭也の横を見た。彼はその視線の先に気付き、少し待ってもらう事にする。
「約束が少し伸びてしまうが、いいかい?」
「え、えと、その。話してくれるなら、それでいいです、けど……」
「怖い思いをさせた事は悪いと思ってる。今日は早く自分の家に帰った方がいい。家族の顔を見れば、不安もなくなる」
『あ、家まではしっかり送るから安心してね』
「だそうだ。今日のところはここでお別れとしよう」
「はい、解りました」
「えっと、恭也さん、でいいんですよね?」
「ん? ふむ、そうだな。そう呼んで構わないよ」
「じゃあ、恭也さん、今日はこれで」
「絶対、話聞かせてくださいね!」
ああ、と頷く。二人は少しだけ明るくなった顔を見せながら、魔法陣の中で消えた。
『じゃあ、今度は高町さんと言う事で』
恭也は若干の作業をするエイミィから視線を外して、戦いの残滓を眺める。沖合いに見える生物の欠片を眺めるに、かなり巨大な何かがいたんだろう。なのはとフェイトとはやての三人がかりだったと言うし、強大な相手だったに違いない。
それを思うと、三流魔導師(仮)とでも言うような恭也では役立たなかっただろう。
「やれやれ。結局、最後まで役立たずだったな」
そんな情けない言葉を残して、恭也の体は消えていった。