今日は朝からはやて嬢のところに詰めていた。先日言った通り、はやて嬢の寂しさを少しでも軽くするためだ。ヴォルケンリッターの顔も昨日のような疲れたものではなく、平時に近い物に見える。ただ、俺にはそう見えるだけで、はやて嬢もそう見えてるとは限らないが。それでも、疲れを見せないと言う演技は必要だろう。隠し事がバレてる事を解らせない。薄氷を歩くような茶番劇だが、必要な事だ。
朝方聞いたところによれば、蒐集は後数十ページ。目算で一週間あれば何とかなるらしい。あと一週間だ。それまで、あの子の体が保ってくれればと願う。丁度明日はクリスマスでもある。そう言う奇跡を願ったっていいだろう。
「ん? どこに行く、恭也」
不意に立ち上がった俺を呼び止めたのはシグナムだった。いや、そんな改まって言う事じゃないんだがな。
「トイレだ。ついでにザフィーラと話してくる」
「そうか」
「あ、だったらそのまま待っててくれませんか? あと少しで私達もお暇しますから」
「えー? 帰ってまうん?」
「朝からずっといましたし、面会時間もそろそろですから」
そう言えば、もうそんな時間だったか。ここの面会時間は五時だったか。壁掛けの時計を見れば四時を少し過ぎた辺り。時間が経つのは早いものだ。
「じゃあ、はやて嬢。しっかり寝ろよ? 明日はクリスマスだからな。寝不足で迎えるのは勿体無い」
「うん、解ってる。じゃあね、恭也さん」
小事を済ませ、俺は病院の裏手にある駐輪場に繋がれているザフィーラの下へとやってきた。他にも見舞い客が連れて来たであろう犬諸君がいる。時間が時間だけに、どこかそわそわしてるのがなんとなく解った。多分、散歩に行きたいんだろうな、と頭の隅でぼんやり考える。
周りにいる犬が俺の方を見るが、飼い主ではない事を悟ったらしくまた入り口の方を眺め始めたのに、不思議と湧き上がった苦笑を噛み殺しながら、ザフィーラへ軽く挨拶する。昼にも一回報告してるが、こう言った事は何度だって報告すべきだろう。
「恭也か」
「ああ。そろそろ帰るそうだ。結局お前ははやて嬢の顔を見てないが、いいのか?」
「見たいが、主が帰ってくるまで取っておく。そもそも、犬の俺が中に入るのは拙いだろう」
「そこまで律儀に犬にならんでもいい気がするが」
「主は俺に犬を望んでいるのでな」
忠犬過ぎやしないか? まあ、本人が納得してるならいいが。
「主はどんな様子だ?」
「朝も言ったが、前のように無理には笑ってない。悪い言い方だが、寂しさが今の嬉しさに拍車をかけてるのは確かだ」
災い転じて福となす。嫌な喩えだ。
ザフィーラの隣――花壇の縁に腰掛けて、俺は唐突に言った。
「あの子は、不幸だ」
「…………」
ザフィーラは黙って続きを待ってくれた。その事に感謝して、俺は続きを言う。
「親もなく、たった一人で今まで生きてきた。それは辛いことだ。俺は片親だったが、とーさんがずっと傍にいてくれた。家族が傍にいてくれた。だから寂しくはなかった。元々寂しいとか考えさせてくれるような余裕を与えてくれる人でもなかったがな」
何事も楽天的で、その場の気持ちで動く人だった。蟹が食べたいと言えば、その辺で買えばいいものを北海道まで行って食べようとする、ある種道楽者のような言動ばっかりだった。それに振り回されてばかりで、しかも修行もしていたから、寂しいとか考える以前にとーさんに置いてかれないようにする事だけで必死だった。
「でも、傍に誰かがいてくれる事は、温かい物なんだ。失ってみて、俺は初めて気付いた」
フィアッセを護って、死んでいったとーさん。美由希はいたけど、その前にかーさんと結婚はしてたけど、なのはが生まれそうだったけれど――俺はとーさんが死んで孤独を感じた。
「幸い、俺には俺を家族として扱ってくれる人達がいた。ただ、当時はそれに気付かないまま暴走していたがな。おかげで膝を壊した。怪我人の俺は周囲に迷惑ばかりかけた。そんな迷惑をいくらかけてもいいと言ってくれる人達がいた。そんなやつ等が周りいてくれたからこそ、今の俺がいる」
また会いたいと思ってる。いつか絶対会いたいと思ってる。
「だけど、あの子には――はやてには誰もいなかった。ただ一人、ずっと一人で生きてきた。孤独だ。それは不幸だ」
そう俺は断言する。
今回のような沈みようを見て、俺はつくづくそう思った。自分はなんて恵まれていたのかを。
「でも、今は違う。お前達がいる。それが、彼女の救いになった。例えプログラムの存在だろうと、今ここで手を取って、そこに温もりを感じるのなら、それを愛しいと思うのなら、それはもう家族だろう」
石田医師が話してくれた。ザフィーラ達が来る前のはやては今よりも暗い女の子だった事を。
「なあ、あの子は幸せになるよな?」
「――愚問だな。今よりも幸せになるに決まっている」
「……そうか」
その言葉を聞いて、俺は気付かず安堵していた。
その後も雑談を交えて、俺とザフィーラはシグナム達が降りてくるのを待った。
〜・〜
太陽が沈んだ。病院の面会時間はとっくに過ぎている。今でも自分達を待ち続けているあの二人には悪い事をした、と剣士は思う。だが、彼を巻き込むわけにはいかない。話に聞いていた、家族でない家族が敵なのだ。出来れば、会わせない方がいい。そう言ったのは自分達の参謀だった。誰もそれに異論はなく、だからこそ、こんな形を取った。
空の色がその深みを増していく中、とあるビルの上で四つの人影が対峙していた。
深い沈黙が降りる中、それに耐え切れなかった高町なのははポツリと、しかしはっきりと言った。
「はやてちゃんが闇の書の主……」
そうだ。今日、なのはとその友人達――フェイト・テスタロッサとアリサ・バニングス、そしてはやてと直接の友達である月村すずかと一緒に、はやてには何も知らせずクリスマスプレゼントを渡しに行った。突然の訪問でもはやては受け入れて、嬉しそうにプレゼントを受け取ってくれた。
そこまでは良かった。ただ、はやての病室に守護騎士の三人がいたのが、この睨み合いの始まりだった。何故彼女達がいるのか。それは彼女達の存在理由を考えれば、自ずと見えてくる。
騎士は主を護る。護るべき主は――八神はやて。
「――悲願は後僅かで叶う」
「邪魔をするなら、はやてちゃんのお友達でも……」
後ほんの僅か。上手くいけば今年中に決着を着けられるのだ。ここに来て、ここまで来て、邪魔などされたくない。はやての体が蝕まれていくのを止められるのは自分達だけだ。確かに蒐集と言う行為は褒められるものではない。だが、闇の書が完成しなければ、はやては助からない。
己の手を汚してでも、主を護る。
そんな悲壮な決意を口にするシャマルに、なのはは堪らず言い募った。
「待って、ちょっと待ってっ。話を聞いてください!」
彼女達に伝えなければならない事がある。それを聞けば、こんな真似しなくて済むはずだ。
「駄目なんです! 闇の書が完成したら、はやてちゃんは……」
「――らああ!!」
「あうっ!!」
上空から怒気を混じらせながら、襲い掛かってきた鉄槌の騎士に、なのはは防御を余儀なくされた。咄嗟の行動だったため、不安定な体勢で受けてしまう。結果、ヴィータの攻撃を受け止めきれず、なのははフェンスに強かに叩きつけられた。
「なのは!」
突然の事にフェイトの判断が一瞬遅れる。その間隙を縫って、シグナムがレヴァンティンを大きく振り下ろすが、辛くもフェイトはそれを躱して見せた。標的を失った斬撃はビルの屋上に浅くない傷をつける。もし、そのまま棒立ちでいたら、確実にフェイトは斬り殺されていただろう。それだけ、シグナムは本気だと悟らされた。
言葉では止まってくれない。そう思い、フェイトもバルディッシュを握る。しかし、彼女は未だに決心が固まりきらない。そんな少女に、剣士は言う。
「管理局に我等が主の事を伝えられては、困るのだ」
「私の通信防御範囲から、出す訳にはいかない」
生かして帰せない。
着けたかった決着を、不本意な形で着けねばならない。
「ヴィー、タ……ちゃん」
フェンスに衝突したとき痛めた肩を撫でながら、なのははヴィータを見上げた。見上げた先のヴィータは、バリアジャケットを身に纏い、堪えきれない何かを押し殺すように話した。
「邪魔、すんなよ……」
「…………」
「もう……あとちょっとで助けられるんだ。はやてが元気になって、アタシ達の所に帰ってくるんだ」
愛槌を握る手が震える。邪魔が入った事への怒り、はやての友達を殺さなければならない悲しみで。
できれば、戦いたくない。今まで三度戦ったが、ヴィータは一度だって戦いたかった訳じゃない。戦わなければ、目的を遂げられなかったからだ。
だが、はやてと一緒にいるところを見られてしまった。なのはとフェイト以外の二人だけなら、何も問題なかった。あの二人経由で知られたとしても、最悪、はやてを連れて逃げ回ればいいだけだ。一週間だけなら、シャマルに何とかしてもらえただろう。本人達が来てしまった事が、今回の最大の不幸。
なんで、こいつらが……。せめて、自分達のいない時に、来ればいいものを――!
「必死に頑張ってきたんだ。もうあとちょっと、だから……」
来なければいいものを――!!
「邪魔すんなあああああああああああああああああああ!!」
涙滴を降らせながら、ヴィータはグラーフアイゼンにカートリッジ・ロードを命じる。充填された魔力の塊が、ビルの縁を爆発させた。
感情のまま全力で放った一撃に、ヴィータは息を乱す。しかし、激情で吊りあがった瞳は下がらない。
炎の壁に一点、何かが光っているのが見える。最早見慣れた、敵の魔力光だ。
ゆっくりとバリアジャケット姿で現れたなのはは、悲しみを含んだ瞳でヴィータを見つめていた。
「悪魔め……」
「悪魔で、いいよ」
なのはは待機モードだったレイジングハートを握る。そして杖を象ったレイジングハートを構えた。チェンバーからカートリッジを装填し、
「悪魔らしいやり方で、話を聞いてもらうから」
表情険しく、宣言した。
〜・〜
騎士と魔導師は互いに刃を向けたまま、睨み合っていた。
目の前の魔導師は強い。好敵手と認めるほどの相手だ。これを前にして、シグナムに余裕はない。全力で挑まなければ負ける。
「シャマル、お前は離れて、通信妨害に集中していろ」
「うん」
気配で、シャマルが離れるのを感じ取った。これで、シャマルに意識を割かず、フェイトに集中できる。
「闇の書は、悪意ある改変を受けて壊れてしまっている。今の状態で完成させたら、はやては……」
「我々はある意味で、闇の書の一部だ」
だからどうしたと答える。例え改変を受けていようと、はやてを救うには完成させるしかない。取るべき道は、他にない。
「じゃあどうして!!」
遠くで、なのはの叫び声が聞こえた。
「どうして闇の書なんて呼ぶの! なんで、本当の名前で呼ばないの……」
何の事だろう、とシグナムとシャマルは思う。
闇の書。
それは莫大な力を孕んでいて、悪用すれば甚大な被害を出すだろう。だが、彼女達ははやての人となりを少しは知っているはずだ。そんな破壊思想がある人間だと思っていない事は承知のはず。
蒐集の一件は自分達に非がある。咎められたら素直に罰を受けるつもりだ。もし、存在の消滅を願うなら、それも厭わない。はやてに対しては申し訳ないと思うが、自分達が消えたとしても彼が後を引き継いでくれるだろう。自分の世界に帰る算段が付くまで、と時間が限られているが、あの男は不義理をする人間ではない。勝手な話だが、後の事は任せてもいいとシグナム達は考えていた。
だから、この少女達が何を伝えようと、関係ないのだ。だから、二人は疑問の先を考えなかった。
それを朧気ながら感じ取ったフェイトは、バリアジャケットを身に纏った。
『Sonic Form』
各種関節にリアーフィンを装着し、機動性の向上を図った。結果として、フィンを阻害しないため装甲が一部犠牲になっている。シグナムの一刀だけでも、まともに入れば命の危険が増大する。
通常の斧から、威力重視の鎌へと姿を変えたバルディッシュを、フェイトは構えた。
「薄い装甲を更に薄くしたか」
「その分、早く動けます」
「緩い攻撃でも、当たれば死ぬぞ。正気か? テスタロッサ」
「あなたに勝つためです。強いあなたに立ち向かうには、これしかないと思ったから」
戦士としての言葉に、シグナムは唇を噛んだ。
気持ちいいくらいに真っ直ぐに向かってきてくれるフェイトに、己の境遇を恨む。敵対してしまった事、そもそも出会ってしまった事。それを恨んだ。
シグナムが燃える。噴き出した魔力が炎熱変換されているのだ。紫金の炎はシグナムの鎧へと姿を変えていく。そこに、騎士は鎧を身に付けた。
「こんな出会いをしてなければ、私とお前は一体どれ程の友になれただろうか」
「まだ……間に合います」
その言葉は届かない。聞き届けられない。
「止まれん」
構えた剣は下ろせない。下ろさないと決めた。
カートリッジをロードする。足元に広がる魔法陣の発動風にシグナムの髪が揺れた。
「我等守護騎士は、主の笑顔の為に、騎士の誇りさえ捨てると決めた」
もはや退く事は――できない。
「止めます。私とバルディッシュが」
『Yes, sir』
「もう止まれん。止まれんのだ、テスタロッサ!」
フェイトも魔法陣を展開する。
言葉では届かない。シグナムは退かないと決めた。ならば、その決意を折って、こちらの話を聞かせるしかない。
かつて、自分がそうだったように!
〜・〜
遅い。
日が落ちてから、そろそろ三十分。面会時間は終わっているはずだ。いや、そもそもすぐに降りてくるような事を言っていたのに、一向に姿を現さない。はやて嬢に何かあったのか?
「どう思う」
「……念話が届かん。通信妨害されている」
「どう言う事だ?」
「襲撃を受けている可能性がある」
何だと!?
「主に何かあれば俺にも知らせるはずだ。相当に状況に予断を許さない事態になっている可能性もあるが、それにした所で、俺からの念話が届かない道理はない」
「くそ、一体いつの間に!? いや、そんな事はどうでもいいか。ザフィーラ、あいつ等がどこにいるか、解るか?」
今までのように足手纏いにはならない程度には魔法にも慣れたはずだ。よしんば足を引っ張るような実力だったとしても、盾ぐらいの役目は務めてみせる。
俺の気概を感じ取ったザフィーラは、しかし何も言わず首を振った。
「いや……どこにいるかは解らん。探すしかないだろう」
そう言って人間形態を取ったザフィーラは、俺を抱えて空へと飛び上がった。
十二月の冷たい風が服の隙間へと差し込んでくる。それに少し身震いしながら、俺は周囲を見渡した。
「見える範囲にはいないのか?」
「いや、あっちだ。魔力を感じる。恐らく結界だろう」
魔導師として三流の俺では感じ取れない事をザフィーラは感じ取ったらしい。ザフィーラが睨む先を俺も見るが、何も感じる事は出来なかった。
少しの不安。俺は、これだけの差があるにも拘らず、加勢できるのか?
「行くぞ、恭也。我等は、お前が思っている以上に期待しているのだ」
「……嬉しい事言ってくれる。その期待、存分に応えられるように努める」
「いい心がけだ!」
突風を巻き起こしながら、俺達二人は夜の海鳴を飛翔する。目標地点に近づく。距離が縮めば、俺でも結界の存在は見て取れた。
あれか!
目視で見えた先。背の高いビルを中心に目算一kmほどの結界が見える。
「このまま突っ込む!」
「応!」
大した抵抗もなく結界の中には入れた。どうやら、防御系の結界ではなく、さっきあった通信妨害の結界なんだろう。それを一目で見抜けなかった事に、小さく歯噛みした時、俺は見えてしまった。
――シグナムが、消えていくのを。
なにかが、冷めた。
「――ザフィーラ、二手に分かれる」
「解った」
短い会話。
俺達の感情は同じだった。それだけ解れば、あとはもういらなかった。
〜・〜
脈絡もなく現れた仮面の男に、なのは達は捕縛魔法をかけられ、身動きを封じられていた。既にシャマルとシグナムが闇の書に蒐集されている。確かに、守護騎士プログラムは闇の書の魔力で動いている。それを還元すれば、残りの頁を埋める事は容易いだろう。
だが。だが、だ。
「なんなんだ……なんなんだよ、テメーら!!」
闇の書の操作は、それほど難しい事ではない。ある程度の腕を持った魔導師なら、書のいくつかの機能を使う事は出来る。しかし、その方法は広く知られていない。書と共にいた守護騎士しか解らないものだったはずだ。
だが、この目の前の仮面の男――いや、目の前にいるのは二人だ。二人いた仮面の男は使い方を熟知している。守護騎士を書の頁に戻すと言う荒業を使えるほどに。
しかし、ヴィータにはこの男達がここまでして闇の書の完成を目論むのか理解できない。闇の書の力は主にしか使えない。ここまで書を使えるのなら、そんな事は当然知っているはずなのに、だ。
「うあああ!」
「ヴィータちゃん!!」
なのはの悲痛な叫びが響いた。
「……プログラム風情が、知る必要はない」
強制的に抜き出されたヴィータのリンカーコアが輝きを増す。体中に走る痛みは、リンカーコアから強引に魔力を吸い上げられているからだ。そして、その痛みは消えていく。魔力で作り上げられた守護騎士は、魔力を失えば、ただ消え去るのみ。
足先から消えていくヴィータ。それが胴体の半分に達したところに、乱入者が現れた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
雄叫びを上げ、乱入者――ザフィーラは固めた拳を仮面の男に殴りつけた!
男の防壁に拳が砕ける。それがどうした。指の間から血が滴ろうとも、どれだけの痛みを受けようとも、目の前の敵をそんな理由で逃す訳にはいかない。敵は、許せない事をやったのだ!
「そうか、もう一匹いたな」
獣の咆哮にさして何も感情を見せず、仮面の男は呟くように言った。
書を開き、ザフィーラのリンカーコアを摘出する。剥き出しにされたコアの痛みで、ザフィーラの動きが止まる。それでも、何もかもを耐え抜いて、ザフィーラは砕けた拳を握り締めた。奴を、殴る為に。
「奪え」
『蒐集』
蒐集が――略取が開始される。
その直前にザフィーラの拳は放たれた。だが――彼の拳は、届かなかった。男の防壁は、身に力の入らない拳では砕けない。
しかし、守護の獣は笑って見せた。それを見た仮面が薄く戸惑いを見せた時、黒閃が舞い降りた。
「なに!?」
「――――っ!」
「あれは……!」
「帽子の、人?」
二本の小太刀を重ね、単純な力技で仮面の男に衝撃を叩きつける。咄嗟に展開した防壁で直撃は免れたものの、威力までは殺しきれず、否、衝撃が体を突きぬけ、後退させられた。
仮面は見た。自分を後退らせた男を。
黒い衣装に身を固め、素顔を帽子の鍔で隠した男は、灰色の魔法陣に降り立ち、消えていくザフィーラを見ていた。
「すまん……。あとを……頼んだぞ」
そう言って消えていった守護獣に、男は頷いて応えた。
「ああ。お前の、お前達の信念、俺が――引き継ぐ」
静かに、しかし激情が込められた声で、男は答えた。
風が吹く。夜には珍しい強い海風が海鳴の空を撫でた。その風に煽られ、夜の虚空に帽子がどこかへと飛んでいった。
「……馬鹿な」
呻くように仮面の男は言った。
あり得ない。この男が、今この場にいる事などあり得ない。ましてや、デバイスを持ち、魔法を使い、守護騎士の味方をするなど、誰が考え付くか。
なのはは見た。帽子の男の素顔を。それは、生まれた時からずっと見てきた顔だった。でも、何故そこにいるのかが、解らない。なんで、闇の書を、騎士達の後を継ごうとするのか、解らない。
でも、でも――!
「な、んで、お兄ちゃんが……?」
あそこに、あそこで剣を構えてるのは、怒りを見せてるのは、自分の兄――高町恭也だった。
解らない。解らないよ。
だって、あの人の声、全然違う。違うんだ。いつも聞いてるお兄ちゃんの声じゃない。
否定する。なのはは否定する。けれど、絶対に否定できなかった。どうしても否定し切れなかった
家族だから。家族だから、あの人が自分の兄だと、解ってしまう。
「お兄ちゃん!」
なのはは兄を呼んだ。恭也はちらりとなのはを見て、すぐに視線を戻した。それだけだったが、なのはは何故か少しだけ安心できた。
「何故、お前がここにいる」
「答えろ。何故シグナム達を消した」
「お前は一般人だったはずだ」
「やはり貴様は敵だったな」
「もしや守護騎士に洗脳されたか?」
「あいつ等はささやかな幸せを望んだだけだったんだぞ!」
噛み合わない言葉。どちらも、相手に合わせるつもりはない。
合わせれば、呑まれる事に気付いていたからだ。
「「どちらにしても、お前は邪魔だ」」
奇しくも、同じ言葉を発して、仮面の男と恭也は激突した。
カートリッジを撃つ。体を満たしていく魔力を感じながら、恭也は不破に命令する。
中空を走る道筋を創る。夜の空に恭也の灰色の魔法陣は映えた。
それを作り出した主にのみ踏破を許すグレーロードを、恭也は駆ける。
右に握った刀を、怨敵を両断せんと打ち放つ!
「ちぃ!」
高速で煌く銀光に仮面の男は呻く。
剣速が思ったよりも速い。物理防壁で防げるが、展開するタイミングを逸すれば首を跳ね飛ばされる。
ずっと壁を構えている訳にはいかない。魔力には限りがある。それに、この男は倒しに行かなければ、自分は飲み込まれる。そう確信できるだけの迫力があった。
仮面の男の突き。指先を真っ直ぐに伸ばしたそれは、過たず恭也の目を狙った。
恭也はこれを首を捻っただけで躱す。男の突きの鋭さに頬を浅く切ったが、気になどしない。
踏み込む。
その速度に、フェイトは目を見開いた。
直後、恭也は進む勢いを足だけで殺す。それでも突き進む勢いに、魔力フィールドは盤面を削られ、光の粒子を散らせた。
目前、仮面の男の懐があった。次瞬、恭也の左の刃が胸を貫くべく、その最短距離を走る。
突き出された切っ先は、しかして肉の感触は伝えなかった。寸前で男の防壁が防ぎ止めたのだ。
それに抗わず、恭也は弾かれた反動を利用し、次弾の為に体を入れ替える。
その間隙、仮面の男の爪先が跳んでいた。恭也の頭蓋を狙う左の蹴足。蹴りとは思えないほどの速度で放たれたそれに、恭也は構えかけた八景で防御せざるを得なかった。
刃を立てた防御。だが、男はそれに怯むことなく蹴りをぶち込んだ。
悲鳴のように響く金属音。
物理防壁を足先に張ったが故の衝突音。
蹴りの威力を堪えきれず、恭也の体がぐらついた。
吹き飛ぶ。
虚空へ投げ出される恭也に誰かの悲鳴が響いたが、蹴りの衝撃に、恭也はそれを聞く事は叶わなかった。
「ぐっ!」
上下反転して落下していくのを、足を振って元に戻す。同時に足場を創って着地した。
見上げた先には仮面の男がいる。何の感慨もなく、恭也は上空へと登りつめ、
「お兄ちゃん!!」
なのはの叫び声に、恭也は自分を囲む魔縄に気付いた。
咄嗟に体が反応し、二刀で戒めを断ち切ろうとするが、
「斬れない!?」
刃筋は立っているはずなのに、刀は縄を斬ってくれなかった。
そのまま纏わりつく縄から抜け出そうと足場を蹴るが、逃げ切れず動きを封じられた。
「……援護が遅い」
「仕方ない。奴の動きは想定以上に速かった」
更には接近戦を挑まれたため、バインドを仕掛けるタイミングがなかった。あの蹴りが決まらなければ、押し負けていただろう。仮面の男にとって恭也の存在はイレギュラーであり、戦力見積もりも甘かったのだ。それ故に苦戦させられた。
「くそぉ!」
恭也は力任せに縄を引き千切ろうとするが、どれだけの力を込めても縄は緩んでくれなかった。
せめてもと、恭也は敵意を剥き出しにして仮面の男達を睨んだが、男達は意に介さなかった。
「お前達はしばし、黙っていてもらおう」
恭也と戦った男とは別の男は、恭也となのは、そしてフェイトを一箇所に纏め、牢獄結界に閉じ込めた。その間、何も出来なかった事に、恭也は溢れ出る情けなさを奥歯を噛み締めて耐えなければならなかった。
「あの……お兄ちゃん、だよね?」
三人が閉じ込められた結界の中、なのはは不安げな表情で、恭也に訊ねた。恭也は前もって話を聞いていただけに、なのはほどの衝撃はなかったが、この世界の妹を間近で見る事に若干の緊張があった。
恭也は努めてその緊張を伝えぬように、今までの怒りを滲ませぬように言った。
「そう、だな。君が高町なのはであるなら、俺はその兄――高町恭也だろう」
「え? それって、どう言う事?」
「ところでなのは、フィアッセは元気か?」
急な話題の切り替えに、なのはは頭の切り替えが若干追いつかなかった。それでも、無理矢理思考をスイッチして答えた。
「う、うん。時々手紙とか、メールでお話してるよ」
「レンの具合はどうだ? 晶との喧嘩もいいが、あまり無茶はしてないだろうな?」
「え、レン……さんって、だ、誰の事? 晶さんって人も……」
「……そうか。ここにはいないのか」
恭也は少しだけ残念に思った。あの二人は高町家にはいないらしい。それが少し、残念だった。
会話が途切れたのを見計らって、今までなのはの手前黙っていたフェイトが、恭也に問いかけた。
「あなたは、一体誰なんですか? 前に現れた時、なのはのお兄さんは家にいたのは確認してます」
「誰と言われてもな。もう既に名乗ったんだが?」
「でも……!」
「究極的には俺の事などどうでもいい。今は、この状況から脱する事が先決だ」
「それは逃げです」
「こんな間抜けな形で問答したくないだけだ」
「…………」
感覚的に、フェイトはこの高町恭也と名乗った男は底意地の悪い、侮っては手玉に取られる存在だと解った。どれだけ重要な事でも、いつでも必要と不必要に分けられる冷淡な人間。それが恭也に持ったフェイトの印象だった。
「何をしてる?」
会話を切り上げた恭也は仮面の男達の動向をずっと見ていた。つい最近魔法を知った身の上では、彼等が何をしようとしているのか皆目見当もつかない。ただ、ここまでの事をするのだから、世間一般から見てあくどい事を企てているのだけは解る。それだけ解れば――いやそもそも、シグナム達を消した時点で、恭也はあの二人を殺す気だった。
「あれ、転送魔法だ」
なのはの呟きを聞き取った恭也はぐるりと彼女を見た。顔を向けられたなのはが驚いてしまうほどに唐突だった。
視線で意味を尋ねられて、なのはは簡潔に説明した。
「何かをここに喚ぶ気だよ」
「でも、一体何を……」
フェイトの疑問は、即座に解消された。
ビルの屋上に広がっていた魔法陣の中心に、それが現れたからだ。
そこに現れたのは――八神はやてだった。
「はやてちゃん!?」
「どうして……」
驚きの声しか上げられなかった。この場にあの少女が出てくるのは、どこかお門違いだと思われたからだ。守護騎士達の言葉通りならば、はやては魔法の事は詳しく知らないはずだ。いや、例え知っていたとしても、闇の書の侵食を受けている彼女では魔法は使えない。
それを知るなのはとフェイトには、はやてを喚んだ意味が理解できなかった。
そして、恭也は別の意味を理解していた。はやての目の前には、いつの間にか消えた筈のザフィーラとヴィータがいる。ザフィーラは屋上に転がされ、ヴィータは磔にされているような姿勢を取らされている。ヴォルケンリッターを家族と認めるあの子に、あんな光景を見せれば深く悲しむ。男達の狙いがそれである事を、恭也は理解していた。
男達は、理由は解らないがなのはとフェイトの姿を取った。そこにどんな意味があるのか、三人には理解できない。ただ、はやてが不安な顔をしているのだけは、見なくとも解る事だった。
「なのは、ちゃん? フェイトちゃん? なんなん……? なんなん、これっ」
ついさっき感じた胸の痛みが、はやての声を枯らしていた。ずっと続くその痛みに耐えながら、はやては不安に彩られた瞳を彷徨わせる。
その彼女に恭也はあらん限りで叫びかけた。
「はやて! はやてぇ!!」
「駄目、音声遮断されてます」
「どうにかできないのか!?」
「バインドとケイジを破るには時間がかかります」
「頼む。俺にはそっち方面は何も出来ないんだ」
「う、うん。解った。なんとかするよ」
解除作業に取り掛かる二人に、恭也は頼る事しか出来ない自分が情けなくて、悔しさがなくなるまで拳を握り締めた。
恭也の視線を下に向ける。そこで起こる一部始終を見逃さぬために。
はやての目の前にいるなのはに変身した男は、不安を煽ぐ為、嘲りの表情を作った。
「君は病気なんだよ。闇の書の呪いって病気」
なのはを知るものなら驚くであろう暗い情念の渦巻いた声。その言葉は、はやての胸に突き刺さった。
「もうね、治らないんだ」
フェイトの姿をした男もまた、なのはと同じ表情で言った。
「闇の書が完成しても、助からない」
「君が救われる事は、ないんだ」
「…………っ」
それだけの言葉を投げつけられても、はやてはそれほど動揺しなかった。
薄々勘付いていた事だ。原因不明の身体麻痺。難しい医学書なんて読まなくても、快復が絶望的な事くらい子供の自分でも解る。でも、主治医の石田医師や顔見知りの看護士達が自分を治そうとしてくれてる事は嬉しかった。だから、もしかしたら、と思い続けていた。
それでも、塞ぎ込んだ事もあった。治るばかりか、重くなっていく症状に、精神的に不安定になったはやては何もかもが自分を苛立たせる事ばかりになっていった。いつも考える事は、後どのくらい生きていられるだろうかと言うだけ。明日を望む希望などありはしなかった。
けど、全てに絶望していた少女に、神様は贈り物をしてくれた。それは、はやてにとって大切な物になった。身体が治らなくてもいいと思えるものができた。
だから、助かる助からないなんて小さな事。
「そんなん……どうでも、ええねん」
自分の事なんて、半ば諦めてる。それよりも、自分が初めて大切だと思えたものが、人達が傷ついている方が大事だった。
「ヴィータを、放して。ザフィーラに、なにしたん?」
「この子達ね。もう壊れちゃってるの。私達がこうする前から」
「とっくの昔に壊された闇の書の機能を、まだ使えると思い込んで、無駄な努力を続けてたの」
「無駄って、なんやっ。シグナムは……? シャマルは? 恭也さん、は?」
ザフィーラとヴィータとは違い、二人の姿はない。
凛々しくて、頼りになるシグナム。
優しくて、暖かいシャマル。
冗談ばっかりで、でも心強く見守ってくれていた恭也。
あの三人はどこにいるのだろう。
その答えは、フェイトが与えた。はやての後ろに視線だけ寄越す。つられて、はやては後ろを振り返った。そこには、自分が選んであげた二人のコートだけが風に揺れていた。恭也のものは見えないが、二人の衣服だけがあると言う事だけが目に焼きつき、他に考えが及ばなかった。
「壊れた機械は、役に立たないよね」
「だから、壊しちゃおう」
「え……? そんな、やめてぇ!!」
カードを構えるなのはと腕を構えるフェイトに、はやては泣きついた。
だめ……駄目っ! そんな事したら、駄目!
「止めて欲しかったら……」
「力づくで、どうぞ?」
駄目だと言っても、やめてと泣いても、二人は嘲笑うだけだった。
「なんで、なんでやねんっ。なんで、こんなん……っ!」
もう、何もかもが解らなかった。どうしてこの二人が、こんな事をするのか。強制される残酷な演出に、はやては頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
「ねえ、はやてちゃん」
「運命って、残酷なんだよ」
なのははカードを、フェイトは腕を強く光らせる。その意味を悟ったはやては、胸の痛みも忘れて絶叫した。
「だめっ、やめて、やめてえええええええぇぇぇぇ!!」
溜め込まれた魔力の塊は、ヴィータの胸を穿ち、ザフィーラの四肢を砕き、シグナムとシャマルのコートを尽く焼き消していった。
そこには、何も残っていない。家族だった証も、絆も、何もかもが、残らなかった。
「ぁぁ…………っ、はぁうぅ、……ぁぁっ」
見せ付けられた。家族が消えていくのを。大切な人達が、無情に死んでいくのを見せ付けられた。
苦しい。
更に強くなっていく胸の痛みで、息が詰まる。
不意に何かを感じる。
意識の外に、何かいる。何か解らないものが、自分の中へ入っていく。
止められない。
自分の中へと侵入してくるそれを止める術など、知らなかった。
目尻に痛みと悲しみで涙が溢れていく。頬を伝う涙は、この世界に初めて絶望したときと同じくらいに流れ出ていく。
中へ入った何かは、体内でどんどん広がっていく。広がって、広がって、自分を塗りつぶしていく。
「ぅっく、あ、……っぅ、は」
はやての下に魔法陣が開かれた。魔導師ではない彼女は魔法は使えない。
魔法陣を開いたのは闇の書。頁を埋め尽くした故に、主を求めた結果だった。
『Guten Morgen, Meister』
そして、同化が始まった。