「――どうして?」
 その疑問は誰も答えてはくれない。
 否、答えられるのは一人だけ。そして、その人物は言葉を言わず、ただ微笑みを浮かべるだけだった。
「――どうして?」
 もう一度問いかける。何かの間違いではないかと。
 問いかけられた人物は、表情を微苦笑に変えて、言った。
「それが『答え』、だから」
 答えは答えではなかった。
 しかし、その言葉が突くそれは、正しい。
 相手はちゃんと問いの答えを言っているのだから。
「――どうして?」
 三度目の疑問は己へ。
 今、自分が抱えている感情が読みとれない。
――否、読みとってはいるが、どう対処して良いのか解らないのだ。
 自分の感情に決着を着けられない。しかし、目の前の『答え』に対して、自分もまた、『答え』なければと、焦る。
 焦りが伝わったのか、相手は急かす言葉ではなく、停止の言葉をかけた。
「落ち着いて」
 そして、言葉を連ねる。
「今すぐに出さなくて良い。でも、長く待つこともできないから……三日後までに『答え』を」
 ともすれば、今すぐにでも『答え』が欲しいというのは判るのに、何も言えない自分が小さく見えた。
 語りかけていた声の主は、常のように静かに消えた。後に残るのは、小さな自分と子供だと言うことを突きつけられた馬鹿な自分だけだった。






























白と黒と鶴

From "Frieden"
Presented by 大岩咲美 [TRASH BOX Type2]































__/1































 新山貴希が奥山千鶴と出逢ったのは、丁度貴希の十回目の誕生日の時だった。
 近所に越してきた女の子。子供の頃は、例え見知らぬ人間でも、手を引っ張って仲間内に引き込んで遊び回るのが、貴希の行動だったが、彼女――千鶴の場合は少々違った。
 母親の友人の娘。
 千鶴の母―早苗と貴希の母―美紀子は大学時代の友人だったらしく、就職先も同じだったらしい。
 お互いに結婚して、家族を持つようになってからは疎遠気味だったが、最近再会した。
 聞けば、奥山家は家を購入したらしい。その住所は、新山家の向かい――道路を挟んでの場所だった。
 折しも、貴希の誕生日が近かったので、そこで改めて再会を祝おうと言うことになったのである。

 彼女に初めて会ったとき、貴希は恐かった。
 千鶴が恐かった。
 その女の子の顔は、あまり動かなくて、物音一つ立てずに動いていた。たぶん、背後に立たれてもきっと気付かないに違いない。
 貴希が千鶴の雰囲気以上に怖がったのは、彼女の容姿だった。
 真っ黒い墨を塗りたくったような長い黒髪。感情を見せない黒瞳。着ている服も真っ黒なワンピースだった。なのに、肌は病的なまでに白くて、モノクロの世界に入る唯一の色彩と言えば、朱の口唇だけだった。
 せっかくの誕生日なのに、何てものを呼ぶんだよと喚きたかったが、そんな事すれば千鶴に食べられるんじゃないかと思ってやめた。どうにか話さずに今日を終わろうと決心して、時間が過ぎるのをただただ願った。
「あら。まだ荷物運んでないの?」
「ええ。主人も忙しいから。業者に頼むのも……ね」
「なら、手伝いましょうか? 今度の休み、ウチの人、家でゴロゴロしてるから」
「でも、迷惑じゃないかしら」
「いいのよ。あの人、「最近運動不足だ」とか言ってたし」
 大人達は何かを話している。
 貴希は誕生日に買って貰ったプレゼントの包装紙を剥がそうと戦っていた。
「……じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
「そうしなさい、そうしなさい。使えるものは使うってね」
「その辺り、まだまだ変わってないわね」
 母親達は互いに笑い合いながら、更に言葉を重ねていく。この分では、貴希の様子に気付かないだろう。
 いい加減剥がせないことに苛ついてきたが、破ろうとは思わなかった。美紀子が毎回包装紙を丁寧に外してその紙で折り紙を作ってくれるのが好きなのでぐしゃぐしゃにしたくなかった。包装紙で作る鶴はいろんな柄があって、友達に羨ましがられていて、それが何よりも自慢だった。
 だから、どうにかして綺麗に剥がしたい。
 でも、自分には出来無さそうだ。美紀子はまだ話をしている。久しぶりに会って話が弾んでいるのだろう。楽しそうな顔をして話す母を見て、貴希は手伝ってもらうのをやめた。
 楽しいことを邪魔されるのはイヤだ。
 自分がブランコをしているときに勝手に止められるのがイヤなように、自分がされてイヤだと思うことはしたくなかった。
 それを知ってるから、貴希はプレゼントを空けるのを諦めたのだが、声がかかった。
「開けたいの?」
 声をかけてきたのは千鶴だった。
 話をしたくなかった相手に話しかけられてしまって、貴希はどうしたらいいか判らず口を閉じてしまった。でも辛うじて、頷くことだけは出来た。
「そう」
 千鶴は音を立てずに貴希の前に座る。
 黒と白の顔が真正面にあって、凄く恐い。
「おばさんに開けてもらえば?」
 魅力的な提案だけれど、それは駄目だ。
 何か言おうとして息が詰まる。解らないように深呼吸して、言った。
「……駄目。お母さん、話してるから」
 これだけの単語を言っただけなのにもの凄く疲れた。背筋が強ばって、膝が震える。緊張してるみたいで心許なかった。
 だから、千鶴の顔を見ないように下を向いた。
「そう。偉いのね」
 千鶴はそう言うと初めて瞳を下に動かした。
 そこには、緑の包装紙でくるまれた、子供が一抱えするくらいの箱がある。
 それを見て、次に俯いた貴希を見て、言った。
「なら、私が開ける?」
「――え?」
 唐突な申し出だった。そして、突飛な申し出。
 言葉の意味は解る。理解できる。
 でも、意外と感じた。
 自分が抱えていた彼女に対するイメージとは違った発言。
 違う。
 自分が勝手に抱えていたイメージだ。
 千鶴の外見だけを見て、勝手に貴希が怖がっているだけ。そこには根拠もなくて、迷惑な先入観があるだけだった。
「あなたが開けたいのなら、私はしない」
 千鶴はそれだけ言うと、黙ってしまった。
「……………………」
「――――――――」
 二人はしばしの間黙る。
 千鶴は貴希の答えを。
 貴希は自分の答えを。
 考え続けた。
 そして、少年は恐る恐る言ってみた。
「あ、開けて欲しい」
「わかった」
 それが、二人の始まりだった。

 千鶴は、丁寧に包装紙を剥がしていく。
 貴希が散々手こずったそれを、彼女はあっさりと解いてしまった。
 呆然とそれを眺めていると、貴希の手に千鶴は出てきた箱を置いた。
 箱に書いてあるのは『激走!! 爆走ラジオカー!!』と速さを表したロゴで書かれていて、箱の中身が見えるようにビニールが張ってあって、中にはスポーツカー風の車体があった。
 ネーミングセンスは最悪だが、車体のデザインは秀逸だ。
 もちろん、貴希が心惹かれたのは車体のデザインであって商品名ではない。
「これ、前に欲しかったヤツだ」
 以前、デパートに行ったときに遠くから眺めていた品だった。誰にも欲しいとか言ったことはない。ただ、ずっと遠くから眺めていただけ。
 なのに、今自分の手の中にある。ちょっと、いや、かなり嬉しい。
 美紀子に心の中で御礼を言っておく。後で、改めて言えばいい。今はこれを使ってみたいという衝動の方が上回っていた。
「あら。一人で開けたの? あんたじゃ開けられないと思ってたけど」
「僕は開けてないよ」
 話が終わったのか、一段落ついたのか、美紀子がこちらにやってきた。貴希の肩越しにプレゼントを見る。
「じゃあ、千鶴ちゃんが開けてくれたのね。結構凄いわね」
「そうなのよ。この子、何でもすぐに出来ちゃって」
「それって……自慢かしら?」
「違うわよ。私としてはもう少し手の掛かった方が育て甲斐があるじゃない」
「そうかも知れないわね」
 大人が話している間、子供達は互いに箱を見ていた。
 貴希は開ける素振りを見せていない。折角包装紙を解いたというのに遊ばない気なのだろうか。
 千鶴は問いかけた。
「開けないの?」
「……開けて良いの?」
「あなたのものでしょう?」
 躊躇っているのは千鶴がいたからだ。自分だけ楽しむのはどうかと思う。けれど、一緒に遊ぶのはまだ恐い。こうして話をしていてもまだ貴希は千鶴が恐かった。
 貴希はごそごそと箱を開けていく。
 箱の蓋を止めているテープをはさみで切って開ける。箱の中に衝撃吸収用の発泡スチロールがいっぱいに広がっているのを強引に引き出した。
 ずるりと引き抜くと、さっき見た車体と操縦機、それと説明書だった。
 ここまで出してみたのだから、走らせてみたい。
 その欲求に素直に従い、貴希は付属の電池ではなく家にある予備の電池を取りに行く。友達がラジコンを買ったときに、付属の電池だとすぐに使えなくなると聞いていたので新品を取りに行ったのだ。
 千鶴はそれを見送って、説明書に手を伸ばした。

 ややあって、貴希が戻ってきた。
 手にしているのは、沢山の単三乾電池。転がらないようにそっと置いて、まずは操縦機の裏側の電池を入れる蓋を外した。
「……あれ?」
 電池が入らない。
 端子は二つ並んでるから、電池が二本入るはずだ。しかし、電池は一本しか入らず、その一本も斜めにしか入らなかった。
「電池の形が違うの。必要なのはこの形」
 千鶴は付属の電池の中から9V形乾電池を取り出す。はさみでビニールを切って電池を入れた。
 それは操縦機のソケットにあっさりとはまった。
「あ、そっか。これを持ってくればいいのか」
 今度はどたどたと音を立てて何処かへと行ってしまった。
 千鶴は、転がった単三乾電池を手にとって、いまだ動いていない車体を裏にした。
 シャーシの真ん中の部分を手でずらすと電池のソケットが現れた。そこに、単三電池を一つ一つ入れていく。ぱちんぱちんと音を立てて、ちゃんと端子の方向が合ってるかどうか確認しながら入れていった。
 計六本の乾電池を入れてそこは埋まった。
 蓋を元に戻して、今度はスイッチを探す。
 説明書に書かれていた絵では後ろの方にスイッチらしきものが描いてあった。
 発見。
 OFFになっているスイッチレバーをスライドさせてONにする。
 同じく、操縦機のスイッチを入れた。
 試しに、前進させてみるが――動かない。
 その他色々とレバーを動かしてみるが動かない。
 首を傾げて、思い至った。
 おもむろに操縦機の電池カバーを外して、電池をひっくり返す。
 カバーも掛けぬまま、前進させてみた。

 ぎゅろろろろろろろ!

 ラジコンは真新しいゴム特有のスリップ音を奏ながら床を疾走。リビングを一瞬で駆け抜けて向こう側の壁まで行く。もちろん、ぶつけたりしない。
 バックさせて方向転換。
 小さな車の顔は千鶴の方を向く。そのまま、発進。
 レバーを思いっきり前に倒しての最大加速。すぐに最高速まで到達したラジコンは一直線に千鶴に向かってくる。それを眺める千鶴には怯えの様子はない。
 ラジコンはモーター音を響かせながら残り2mの所まで来ていた。その瞬間、千鶴はレバーをバックに入れた。
 突然の逆回転を指示されたラジコンは律儀にそれを守るが、最大にまで高められた慣性の法則には逆らえずまだ前に進んでくる。
 千鶴は更にハンドルを左に切る。
 前輪が左に曲がったため車体が振られた。そのまま横滑りしつつ減速していき、千鶴の身体の数10cm手前で停止した。
「……ちっ」
 どうやら、もう少し手前で止めてみたかったらしい。
 リトライしようとしたところで慌てるような足音が聞こえてきたので、車体を裏返し電池カバーを外して電池を全て抜き去る。カバーを元に戻して元あった場所に置く。
 更に操縦機の電池も抜いて置いた。付属のマンガン電池達はスカートの中に忍ばせておく。まさか、スカートの中に手を突っ込んでこないだろうと言う考えからだ。
 千鶴がスカートの中に電池を入れたところで、貴希が帰ってきた。
 手には新品の電池が握られている。
「……?」
 千鶴が気になって彼女を見てみるが、さっき見たときとあまり変わりはなかった。気のせいと思い直して、電池をセット。
 車体と操縦機のスイッチを入れて颯爽と動かしてその動きに満足していた。
 千鶴はそんな貴希をその黒い瞳で眺めていた。

 そんな二人を呆然と見つめる二人の人間。
 言うまでもなく、貴希と千鶴の母親達だった。
「……千鶴ちゃんってあんな娘なの?」
 先程ラジコンを見事な腕で扱っていたのと、貴希が帰ってくる前に電池を抜き去り、付属電池をスカートに突っ込んだのには驚きすぎて言葉が出せなかった。
「……舌打ちしたの、初めて見たわ」
 我が子の仕業にかなりの驚きを示しているのは、実は早苗だったりする。
 普段から何を考えているか解らない子供であったが、聞き分けは良いし大人しいので気にも留めていなかったが、今さっきの行動を見るからに何を考えているのか恐くなってきた。
 二人が座る椅子の下を元気に走り回るラジコンのスリップ音が妙に寒々と感じられたのだった。

 そして、その週の休みの日、奥山家の引っ越しとなった。
 とは言え、荷物を運んだり、梱包を解くのは大人組の仕事であって子供の出る幕など無い。
 貴希と千鶴は遊んでこいと言われて追い出されていた。
 とは言え、会ったのはこれで二度目。いつもなら人見知りせずに遊ぶ貴希でも、千鶴だけは苦手だった。
 誕生日の日に感じた恐怖は薄れてきたが、何も言わずに黙っている千鶴にどう話しかけたらいいか解らない。その所為で、貴希は居心地の悪さをヒシヒシと感じていた。
「………………」
 ちらりと横目で盗み見る。
 千鶴は前を真っ直ぐ向いているだけだ。
「……なに?」
 貴希の視線に気付いたのか、千鶴がこちらを向いた。貴希は慌てて首を横に振って、何でもないと伝えた。
 千鶴は解ったのか解っていないのか判断できなかったが、また前を向いて歩き出した。
 それを慌てて追った貴希だった。

 遊んでこいと言われたのだから遊ぶというのは少々つまらない。
 かと言って、暇つぶしになることと言えば遊ぶことくらいしかない。時間を潰したければ遊んだ方が良いのだが、今日は日が悪いのか近所の友達に出会わなかった。
 公園にも足を伸ばしてみたが、生憎と誰もいなかった。
「……どうしよう」
 千鶴を連れている手前、近くの小高い山に入るのは却下。体力云々ではなく、スカートは危ない。
 近くを流れる川で遊ぶという手もあるが、十月の水は風邪どころか命を落としてしまいそうなのでこれも却下。
「……どうしよう」
 再び、呟いた。
 時間を潰せる手段がない。
「――ねぇ」
 何か無いかと唸っていると、呼びかけられた。
 千鶴だ。
「なに?」
「なにを悩んでるの?」
 貴希は素直に言った。
 友達が捕まらないこと。暇を潰せることがないこと。
 それを聞くと千鶴は少しの間、上を見た。
 つられて見上げると、温かい日差しと深い青、そして流れる白い雲が見えた。
 突然、その視界が揺れた。
 揺れた原因は手を引かれたから。誰に手を引かれたと言えば、千鶴である。
 彼女は付いてきてと瞳で言うと貴希の腕を引っ張る。
 貴希はなされるがまま足を動かした。

 千鶴に連れてこられたのは草原だった。
 貴希達の腹辺りまである草が生い茂る平らな土地。
 そこは、街の小高い山だった。
 結局、千鶴のスカートを心配したのは無意味だったようだ。彼女は貴希の心配を余所にずんずん斜面を登っていって貴希をここまで引っ張ってきたのだ。
「ねぇ……あれ?」
 とりあえずの御礼を言おうと思って振り返るが、さっきまでいた千鶴はそこにはいなかった。
 周りを見渡すが誰もいない。
 帰ったのかと思ったが、それはないと何故か思った。
「どこいったの?」
 声を張ってみる、すると返事が返ってきた。
「ここにいるわ」
 声の方向を見るがなにもない。
 近寄ってみると、見えない理由が解った。
 千鶴は地面に寝そべっていたのだ。
「……なにしてるの?」
「空を見てるの」
「寝ながら?」
「そう、寝ながら」
 立って見る空とどう違うのだろう。
 寝そべって見ると背中が汚れてしまうのに。
「貴希も」
 腕を引っ張られて誘われた。
 恐る恐る寝そべってみる。
 すると、視界一杯に青色が広がっていた。
「わぁ」
 何故か、立ちながら見上げる空とは違う気がした。
 立って見る空は、空だなと思うけれど、こうして寝ながら見る空は何処か違っていた。
「なんか、凄いね」
「そう」
「うん。君は凄いと思うよ」
「……私が?」
「うん。だって、この空を知ってたんでしょ?」
 寝ながら見る空は飛んでるような気になれる。
 空しか見えないから自分が飛んでるような気がする。
 浮遊感はないけれど、それでも鳥のように飛んでいる気がした。
「……ここに来たのは初めてよ」
「え?」
「ここはさっき車から見えたところだっただけ。この空があること何て私は知らなかった」
 じっと空を見つめる千鶴に貴希は思わず見つめてしまう。
「貴希が山って言ったから多分ここだと思った。だから、来てみた」
 でも、こんな物が見られるなんて幸運ねと千鶴は言う。
 貴希は呆れてなにも言えなかった。

 しばらく、二人して空を眺めていた。
 時間が経つ度に形を変えていく雲の群や、時折視界に入る鳥の影。
 ただ眺めているのに飽きない。身体を動かすことが好きなのに、この空を前にするとどうでも良いことだと思えた。
「貴希」
 隣の千鶴が貴希の名前を呼んだ。
 千鶴は貴希を覗き込むように覆い被さってきた。これでは空を眺める事なんて出来ない。
 真っ黒な黒髪が顔をチクチクと刺してくる。
 貴希が嫌な顔をしたからか、千鶴は更に顔を沈めてきた。髪の毛先が肌を刺すことはなくなったので痛みはなくなった。
「何かあったの?」
 そう訊いてみるが、彼女は真っ直ぐに貴希を見たままだった。
「どうして、私の名前を呼ばないの?」
「え?」
 不可解な問いかけだった。
「私のこと嫌い?」
「え?」
 これも不可解。
「私のこと好きじゃない?」
 それはさっきと同じ。
 いや、少し違うか。
「え、えっと、嫌いじゃないよ」
「好きでもないのね」
「え、っと、うん」
 貴希は素直に言った。
 実際、二回しか会ったことがなくて、好きか嫌いかと訊かれるのは珍しいと思う。
 今はまだ、嫌いじゃないとしか答えられない。無条件で人を好きになるほど貴希は無邪気ではなかった。
「何でそんなこと訊くの?」
「私と一緒にいるから」
「――どうして?」
 千鶴の言ってる意味はよく解らない。
 千鶴はすぐに答えず、少しの間目を瞑った。
「それは……」
 不意に彼女は語りだした。
 この街に来た理由を。

 彼女は自分の容姿から軽い虐めを受けていた。
 内容は他人からすれば他愛もないような悪戯であるが、当事者にとっては重くのし掛かる問題だ。
 例えば休み時間、席を立って戻ってくると鉛筆が一本無い。
 例えば体育の時間、肌の白さに怖がられて誰も自分を見ない。
 例えば給食の時間、人よりも少な目の量を盛られる。

 どれもこれも言えばその場で直されたことだろう。しかし、彼女はそれをしなかった。
「自分のことくらい知ってる。黒一色で、肌が白くて、気味が悪い」
 服装を変えようと思ったこともあった。でも、黒以外の服はとてもじゃないが似合っていなかった。
「性格も明るくなかった。でも、それは良いの。静かな方が好きだから」
 結局、自分から変わろうと思っても変われないと思った千鶴は両親にその事を話して引っ越すことにしたのだ。
 この引っ越しで自分を変えるきっかけにしようと思ったわけではない。ただ、見知った顔に遠目から見られるのに嫌気がさしただけなのだ。丁度、手狭になってきた貸家から引っ越そうという話も持ち上がっていたので奥山家はこの街に越してきたのである。
「あなたは私を怖がっているわね」
「う、うん」
 最初見たときはとにかく恐かった。
 感情の色を見せない瞳が特に恐かった。まるで、人形みたいだったから。
「なら、何故あなたはここにいるの? 恐いのなら一人で遊びに行けばよかったのに。私なんて構わずに何処へでも」
「だって、いつもの人達がいなかったし……」
「それは私と一緒に公園に行ったときの事よ。私は、何故最初から一人で遊ばなかったのか訊いてるの」
 千鶴の瞳に感情の色が見えた。
 不安。
 彼女は不安がってる。
 何に?
 解らないまま、貴希は喋っていた。
「だ、だって引っ越してきたんだから、一人で遊べないと思って、それで、一緒に遊ぼうと思ったんだよ」
「…………本当に?」
「嘘言ってどうするのさ。それに、僕は君のこともう恐いとは思ってないよ」
「……どうして?」
「だってさ、恐くないもの」
 千鶴は押し黙った。
 貴希は言葉を重ねる。
「別に怒ってくるわけでもないし、叩いてくるわけでもないし。それに、君は乱暴な事してこないって思った」
 この草原に来る途中、ずっと手を引っ張られていた。
 でも、痛くなかった。時々こちらの様子を確認していたし、危なそうな道を避けるして登っていってくれた。貴希一人なら多少危なくても近道になるルートを通るが、千鶴は貴希のことを思って安全な道を選んでいったのだ。
「君はやさしいと思う」
「……そうかな」
「そうだよ」
「そう」
「――うん」
「なら、私が恐くないなら、どうして私の名前を呼ばないの?」
 そう。
 何故か、貴希は千鶴の名を呼ばなかった。話しかけるときも、千鶴を呼ぶときも、今こうして話しているときも。
「……だ、だって、なんて呼んで良いのか、解らないし」
「千鶴と呼べばいい」
「で、でも、年上の人を呼び捨てにするのはいけないって……」
「……私、いくつに見えてるのかしら」
 ショックを受けたような顔になった。
――あれ、何かおかしいこと言ったかな?
「え? 上級生じゃないの?」
「私はあなたと同じ歳よ」
「え゛?」
「……貴希」
「は、はい!?」
「もう一度訊くわ。私は、いくつに見られていたのかしら?」
 何故か、問いつめる千鶴は活き活きしている気がする。
「あ、あの、えーっと……」
 しどろもどろになりながら、なんとかこの危機を脱出できる答えを探すが、千鶴の顔を見てると思考が止まるのを感じた。
「答えなさい」
「ご、ごめんなさいぃ。二つくらい年上に見えてました!」
 少年は素直だった。
「そう」
「え? ちょっと? 頭掴んでなにすいだだだだだだだ!?」
 少女もまた素直だった。

「うー。頭痛い」
 予想以上に痛かった。
 と言うより、爪は反則だと思います。
「……そんなに老けてるかしら?」
 自分の性格や容姿が特殊だと言うことは解っていたが、まさか老けてみられるとは思わなかった。
 ちょっと悔しい。いや、かなり悔しい。
「違うよ。落ち着いてるし、綺麗だから年上に見えただけ」
「……落ち着いてるのは認めるとしても、綺麗なのはどうかしら」
「えぇ? だって、今まであった人達の中で一番綺麗だよ?」
「…………そう?」
「うん、そう」
「……本当に?」
「嘘は言ってないよ」
「『は』?」
「事実を言ったまでです」
「ん。嬉しい」
 千鶴が笑った。
 今の今まで、無表情に近かった千鶴が今、貴希の目の前で笑っている。その笑顔が綺麗すぎて貴希は顔が熱くなるのを感じた。
 赤くなった顔が見えないように俯く。必死に赤くならないようにしようとするが、その度に千鶴の笑顔を思い出してしまい更に赤くなってしまった。
「どうかした?」
「え、いや、その……!!」
 何か言おうとして言葉にならなくて、動揺が動揺を呼んで、何でこんなにも慌てているのか原因が思い出せなくなるくらい慌ててて、もう何がなんだか。
 そんな状態で解ったのは、千鶴が貴希の身体を押し倒したことだけだった。
 短い悲鳴を上げて倒れた。
 幸い、どこも痛くない。
 その事に安堵しつつ貴希は千鶴を抱き起こした。
「危ないじゃないか」
 憮然とした顔で言うが、千鶴は何も感じていないようだ。
「大丈夫よ。怪我、無かったでしょ?」
「それは、そうだけど……」
 釈然としないまま、そのまま寝転がった。
 手には千鶴の存在を感じる。見た目の物寂しさとは違って彼女の手は温かかった。
 空の色は茜色に変わっていた。
 いつの間にか、夕方になっている。
「ねぇ。さっき、どう呼んだら良いか解らないって言ったわね」
「……うん」
「それは、年上だからって言ったわね」
「うん」
「じゃあ、同い年だって解った今は?」
 さて、彼女が欲しい答えは解ってる。
 でも、こっちも勘違いしてたとは言え、同い年だなんて教えられてなかった。
 だから、ちょっとふざけてみることにしよう。
「千鶴さん」
「……………………」
 もの凄い顔で睨まれました。
 近くにあるから余計恐いです。
 でも、貴希としてはこの呼び方がしっくりくるのだが。
 まあ、とにかく待望の答えを言うことにしよう。
「千鶴」
「ん」
 千鶴は甘い返事をした。

 空の色が紫に変わって来た頃、二人は帰ることにした。
 昼頃からこの時間までずっとこの草原にいただけ。それでも、有意義だったと言える時間だったのは確かだ。
 二人が手を繋いで家に帰宅したとき言われたのは母親達からの冷やかしと、浴場へ行けと言う命令だった。






























__/2































 千鶴が貴希の通う小学校に来ると言うとなれば様々な問題を呼び起こすこととなる。

 少子化が進む時代、普通公立の小学校の児童数は一学年に六十三名と格段に減っている。貴希が通う南麻野小学校もまた、少子化の一途を辿っていた。
 貴希が所属する四年一組は三十二名。隣の二組は三十一名。
 自然、転校生を迎え入れるとすれば、数が少ない二組と言うことになる。
 貴希としては、転校生――千鶴が受け入れられるのかどうかが心配だった。
 自分でさえ怖がった人間が他者にすんなりと受け入れられるのだろうかという懸念と、受け入れられたとしてあの性格でやっていけるのかどうかと言う不安が頭の中で渦巻いていた。
「新山くん、どうかしたの?」
「――え?」
 話しかけてきたのは貴希の隣の席の中司恵理。ややつり上がり気味の瞳とショートの髪から活動的な印象を受ける少女だ。事実、彼女の行動力は一部限定で威力を発揮する。
 貴希が登校してからずっと俯き加減だったので疑問に思っていたらしい。
「さっきからずっと黙ったままだよ? いつもだったら彰と遊んでるのに……」
 クラスのムードメーカー兼トラブルメーカーこと秋山彰は恵理の幼なじみで、貴希とは友人関係を持っている。隣のクラスに三人目の幼なじみ藤堂美里がおり、彼等はよく三人で連んで遊んでいた。
 いつもならば貴希は彰が形成しているグループの中に混じっているのだが、今朝の貴希は椅子に座ったままむっつりと黙り込んでいたのだ。そんな貴希の雰囲気を察したのか彰も声をかけていない。
「なんでもないよ。ちょっと眠いだけだから」
「夜更かししたの? 背、伸びないよ?」
 微妙に気にしていることを言われた。表に出そうになるのをなんとか堪えて貴希は言った。
「……そんなんじゃなくて、ただ眠いだけだって」
 まあ、そう見えないこともない。
 時折大きな欠伸をしているし、いかにも眠たそうに目がトロンとしている。
 貴希の言う通りだと思い恵理は追及の手を止めた。
 事実、貴希は若干寝不足気味だ。眠れなかった原因と言えばやはり千鶴である。本人ではない貴希が心配しても全くの無意味なのだが、それでも他人を心配してしまうのは性分なのだからしょうがない。
 貴希が今日、四度目の欠伸をしたところで教室のドアが開いた。
「はーい。皆さん席に着いてくださいね。朝の学活、始めますよー」
 やや間延びした声で言ったのは担任の吉川祈。だった。
 祈が入ってきたので、皆パラパラと自分の席に戻っていく。
 全員が席に着いたのを確認して祈は言った。
「おはよーございます。今日も良い天気ですねー」
 今日は曇りで、更には肌寒かった。
「近くに迫った体育大会のためにも、風邪なんて引かないでくださいねー」
「センセー。言葉の意味が繋がってません」
 そう突っ込んだのは、学級委員も務めている恵理だった。
「中司さん、先生のことキライなの?」
「その答えは去年からずっと言ってます」
「えー、そーだった?」
「先生忘れちゃったからもー一度言ってくれない?」
 毎朝のやり取りだった。
 恵理は深いため息を吐き、この先生は言った何時になればまともになるのだろうと考えてから答えた。

『おおおおおお――――――!?』

 しかし、恵理の言葉は廊下から聞こえてきた歓声に掻き消されてしまった。
「な、なんだぁ?」
「さぁ?」
 教室中が騒然とする中、貴希は机に突っ伏していた。
「? どうかした?」
 恵理がそう訊いて来たが、貴希は、
「眠いだけだよ」
 とだけ、答えた。

 四年一組の隣、四年二組は白と黒の転校生に様々な意味で動揺していた。
 彼等―特に男子―はお祭り騒ぎのように騒ぎ立てて、動揺していることをアグレッシブに表していた。
 子供の身からすれば、仲間が増えることは良いことである。更には、増える仲間が女の子なら断然良いに決まっている。
 これ以上男が増えても面白くない。どうせ増えるなら綺麗で可愛い女の子の方が受け入れる側にとっては喜ばしいことだ。
 女子もまた、新しい友人が増えるかも知れないと言う期待感がある。それは男子でも女子でも構わないもので、どちらが来るのが嬉しいと言えば格好いい男の子が来る方が良いのだが、この年頃の女の子は、同性の友達を作る方が好きだったりする。男子よりも精神の発達が早い女子は子供っぽい同世代の男の子は子供過ぎて相手にならないので、同性の友達が欲しいものなのである。
「はいはい。静かにね、静かに。奥山さんが驚いちゃうでしょ?」
 担任の赤城がそう言うが、千鶴は驚いた様子など微塵も見せていなかった。
 他人から見た自分の容姿の評価など千鶴は気にしていない。ただ、自分のことを綺麗だと言った少年だけは千鶴の中で少し別の所に位置している。
 こう言う一種の興奮状態で騒がれても、千鶴は本当に自分は綺麗なのか実感できない。だから、はやし立てられるのは苦手で嫌いだった。
 そんなことはおくびにも出さず澄まし顔で教卓の横に立っている千鶴を、他の男子とは違った瞳で見ていた少年がいた。
 藤堂美里。
 女のような名前を持っているが彼は歴とした男である。優しげな顔立ちと線の細い体格から、人畜無害な印象を受ける。彼自身の性格もその通りで、穏やかで争い事をあまり好まない性格だった。
 彼はただ一心に千鶴を見つめていた。
 そして、ふと千鶴の視線が美里の視線と絡まる。
 一瞬だけの交錯だが、その短い時間なのに美里は二つの感覚と一つの感情を感じた。
 その漆黒の瞳に吸い込まれていくような錯覚。
 自分の全てを覗き込まれるような重圧感。
 恐いと言う感情。普通の人間ならそう感じるであろうその感覚を美里は感じていなかった。
 彼が感じたその感情とは、
――充足感。
 それだけが美里を包んでいた。

「じゃあ、奥山さんの席は藤堂君お隣って事で良いかな?」
 美里が気付いたときには、既に千鶴が横に座っていた。
 思わず飛び上がりそうになるのを何とか堪えて、横目で千鶴を伺ってみた。
 レースであしらわれた黒のワンピースと長い黒髪。漆黒に包まれた中に時折見える白い肌のコントラストが妙に艶めかしい気がした。
 美里は意を決して声をかけてみた。
「あ、よ、よろしく」
 上擦っているのが重々承知しているが、これが美里の精一杯だ。
 千鶴は美里に瞳だけを動かして一瞥した後、
「よろしく」
 簡潔にそれだけを言った。

 その後、千鶴は二組の人間から様々な質問を浴びせられることになる。
 それが転校生の宿命だからとは言え、千鶴には少し辛いものだった。
 辛いと言えば、クラスの女子からのこんな質問が辛いと言えば辛かった。
「前の学校はどうだったの?」
 まさか虐められてましたとも言えず、千鶴は一瞬詰まったが、世間一般的な普通の学校だったと言って難を逃れた。実際、千鶴がいた学校は平均的な極普通の小学校だったのは確かだから間違ったことは言っていない。
 その後も、色々と訊かれたが、無難な答えを返して置いた。元々、仲良くなるために会話をしているのではなく、定例事である。
 こうして大勢の人間と話をするのは今日限りだ。今後は人に囲まれることもなくなるだろう。
 千鶴は、人に解らぬように溜息を吐いた。

 休み時間。それも、二時間目の後の中休みである。
 普段なら、ボール片手に校庭に駆けだしている貴希だが、今日は少々事情が違う。
 千鶴だ。
 転校生特有の招待を受けた千鶴のことが心配だったのだ。
 ドアから二組の教室を覗いてみる。教室内を一巡して見つけたとき、千鶴は誰かと話をしていた。
「……大丈夫そうだな」
 貴希の想像では誰も近づかずに遠目から見てるというような光景を想像していたのだが、目の前に広がるのは極普通の中休みの風景だった。
 どうやら、貴希の心配のしすぎだったらしい。
 このまま声をかけていこうか、それとも彰達と一緒に遊びに行こうか悩み始めたところで人の気配を感じた。
 気付けば、目の前に黒い物体があった。
 千鶴だ。
「――どうかした?」
 と言うより、ビックリした。
 さっきまでいたところを見てみれば、話し相手であった相手―美里だった―は驚いた表情でこちらの方を見ている。更には、クラスの女子達もまた貴希と千鶴を見ていた。
「あ、いや、転校したてだから大丈夫かなって思って……」
「そう」
「うん。で、何か問題とか起きてない?」
 起きてたとしても自力で片を着けていそうな雰囲気を持っているが、それでも貴希は訊いてみた。
 千鶴はしばし虚空を眺めると貴希に焦点を合わせて言った。
「なにも。今のところは仲良くしてもらってるわ」
「そうなんだ。大丈夫そうだね」
 彼女がそう言うなら問題ないだろう。過剰な心配はしなくても良さそうである。
 その事に安堵のため息を吐くと貴希は笑顔になった。
「なにがおかしいの?」
「ううん。おかしいんじゃなくて嬉しいの。その、いじめとか言ってたから」
 引っ越してきた理由が理由なので少しでも深いに思えばやっていけないのではないだろうかと思ったのだ。
「今のところないわ。これからは、どうか解らないけど」
「……そう言うこと言わない方が良い。千鶴のこと、ちゃんと解ってくれる人もいるって」
「……そうね」
 目の前にいる少年がそうなのだから。
「――美里君と仲良くなったの?」
「え?」
 突然の質問だった。
 千鶴の肩越しに後ろの方を覗いている。
 千鶴は思わず訊き返す。
「さっき、話してたでしょ? あいつ、僕の友達だから」
 ああ、彼のことかと肩越しに一瞥する。
 視線の先の少年は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
「仲良くしてくれると嬉しいな。美里君は良い人だから」
「努力はする」
 その言葉に苦笑を浮かべる貴希。
 美里と仲良くなれば貴希自身も大分安心できる。頭の回転の速い彼ならば大丈夫だろう。
「じゃ、僕はそろそろ行くよ」
「ええ」
 そう言って、貴希は廊下を走っていった。

 千鶴が自分の席に戻るまで、美里はただ不思議に思っていた。
 なぜ、千鶴が貴希と話をしていたのか。いや、それ以前に転校初日にして隣のクラスの人間と話をしていることに強い違和感を感じていた。
 美里が受けた千鶴に対する印象とはかけ離れた行動だったからだ。
 彼女は、教室のドアの方を見た瞬間立ち上がり、まるで走るかのような速度でドアの所まで行ってしまった。その素早さと行動の違和感に呆気にとられていた美里は千鶴が戻ってくるまで惚けていたというわけである。
「……なに?」
「貴希君とは知り合いなの?」
 千鶴が話をしていたのは、自分の知り合いだった。それがまた美里を驚かさせる。
「ええ」
 千鶴は短く答えた。
 少し待っても何も言ってこないので本当に返事だけしかしないのだと解り、美里はさらなる質問をしてみた。
 二人は気付いていないが、クラスの人間も千鶴と貴希の繋がりを知りたいと思っていた。
 他の人間の心を代弁するように美里は質問する。
「いつ知り合いになったの? まさか、登校中?」
「テレビや漫画じゃあるまいし。私と貴希が逢ったのは三日前よ」
「……三日前?」
 今から三日前と言えば、貴希の誕生日の日ではないか。皆で祝おうなんて話をしていたが、おばさんから遠慮してくれと言われていた。たしか、お客が来るから今回はごめんなさいと。
 もしかしなくても、そのお客というのは千鶴のことだろうか。
「貴希君の誕生日?」
「ええ」
「おばさんが人が来るから今回は遠慮してって言ってたけど、奥山さんのことだったんだね」
 ならば、納得できる。
 でも、どうして貴希の家に来たのだろうか。
「どうして、貴希君の家に行ったの?」
「私のお母さんと貴希のおばさんが友達だったのよ。私の家の引っ越す先が貴希の家の向かいだったから」
「凄い偶然だね」
「そうね」
 千鶴の言質により貴希と千鶴の関係は理解できた。
 貴希の性格を考えれば、千鶴のことを心配してやって来たのだろう。貴希のことをよく知る美里からすれば納得のいくことだった。
 その後、貴希や自分の幼なじみ達のことを話して時間を潰した。

 放課後。
 都合五時間の授業を消化して、貴希は疲れたように机に伸びていた。
 どこからか千鶴と貴希の関係を聞きつけた輩がいて、質問を浴びせられたのである。
 千鶴の容姿が優れていたこともあったので男子からの追求が凄かった。特に、彰辺りの追求が凄かったものである。
「貴希。お前、いつの間にあんな綺麗なこと知り合いになってたんだ? この俺に断りもなく!」
「何で僕が彰に断らなくちゃいけないんだよ」
「そこはお前、友達のよしみとしてだな……」
「綺麗な娘にお近づきになりたいだけよ」
 横から鋭い突っ込みを入れたのは恵理だ。
 言葉のとげとげしさに比例して、つり目の瞳が更につり上がっていく。
 結構恐い。
「とーぜんだろ? 俺の周りには手を上げる野郎しかいないんだし。あんな綺麗で静かな女の子に憧れるのもしょうがないって」
 胸を張って言う彰に、貴希は溜息を、恵理は拳を握った。
「その『手を上げる野郎』って言うのは誰かしら?」
「あぁ? 決まってんじゃん。中司恵理って言う暴力女……」
「誰が、暴力女だ!!」
 神速の右ジャブから放たれた閃光の左ストレートは彰の三日月(こめかみの下の尖ったところ)をしっかりと捉え見事に撃ち抜かれた。不可視のストレートを喰らった彰はゴロゴロと後ろ返りを繰り返して机を何個も薙ぎ倒し、壁に当たって止まった。
 藤堂道場に通っているだけあって、腰の入れ方や体重移動は普通の子供のパンチとは一味も二味も違う。
「ふ、利き腕じゃないから安心しなさい」
 あの威力で手加減したものらしい。末恐ろしかった。
「もう少し、踏み込めば威力が上がるんじゃないかしら」
「それだと死んじゃうって」
 背後から聞こえたのはよく知る声だった。
 千鶴と美里だ。
「あら、みーちゃん。早速転校生にツバかけてるの?」
「ち、違うよ! 奥山さんが貴希君に用があるって言うから付いてきたんだよ。僕も二人に用事あったし」
 いきなりの暴言に慌てるがすぐに用件を言って何とか誤解を解く。こう言う場合、さっさと真相を話してしまった方が被害が少ないからだ。
「ふーん。こちらが転校生さんね。ホントに綺麗な娘ね」
「……………………」
 値踏みするように爪先から頭の天辺までなめ回す。
 千鶴は黙っているだけだ。
 満足したのか恵理は一つ頷くと、口を開いた。
「さっき、踏み込めって言ったのはあなた?」
「そうよ」
「経験とかあるの?」
「ないわ」
「ならなんで?」
「ただ、そう思っただけよ」
 素人の戯言だと付け加えた。
 実際、千鶴が言ったことは正しい。
 もう少し踏み込んで打てば間違いなくダメージは増えるのだ。
「んで、新山くんに用があるって?」
「ええ」
 千鶴は短く頷くと貴希の方へと行ってしまった。
 彼女の素っ気ない態度に眉を顰める恵理。そんな恵理を見て、美里がフォローする。
「あんまり気にしないで。奥山さんってああ言う人みたいだから」
「へぇ? 随分親しげじゃない、みーちゃん」
「そ、そうかなぁ!?」
 明らかに動揺しているのが解る。
「あ゛ー。いてて。おい、恵理!! 痛かったぞ!!」
 漸く復活を果たした彰が恵理に詰め寄るが、
「そう、よかったわね」
 悔しげに言われた。
「よくない!! つーか、お前の拳より机が背中に当たったのが痛かったんですけど?」
 クラスの人間が倒れた机を元に戻している。既に日常と化した彰と恵理の行動に悲しいほどに慣れてしまったのだ。
「ところで、みーちゃん。あの娘と新山くんの関係って実のところどうなの?」
「おい! 俺の話を……!」
「黙れ」
「はい、黙ります。黙りますから睨まないでください」
 卑屈なほどに萎縮する彰。
 それを哀れな目で見る美里。この二人の力関係も最近ではこんな感じである。
「……二人は友達だってさ。貴希君の誕生日の時にお呼ばれしたのが、奥山さんだったんだって」
「なるほど。おばさんが謝ってたのはそれな訳だ」
「なんでも、貴希君の家の向かいに引っ越してきたらしいんだ」
「あらぁ。それはまた典型的な話ね。と言うより、現実にある方がビックリだわ」
 話を聞いていた彰もしきりに頷いている。その事には美里も同意なので頷いた。
「あ、三人とも。僕たちこれで帰るから、また明日ね」
「へいよ。よろしくやってこい」
「? なんのこと?」
「あー、良いよ、気にしなくて。新山くんが知って良い事じゃないから」
「よく解んないけど。じゃあね」
 そう言って、千鶴と貴希は教室を出ていった。
 後に残った三人は互いに顔を見合わせる。
「どー思う?」
「そんなの決まってるだろ」
 彰と恵理が邪悪な笑顔で笑っていた。
「そう言う話をするのはどうかと思うけど……」
 この三人の中では常識人な美里がそう言うが、こうした場合、美里の言うことなど聞いた試しがないのも事実だった。
「なに言ってんのよ、みーちゃん。本人がいないところで話すから楽しいんじゃない」
「そうだぞ? 女に興味なさ気だった貴希が親しげに女といることの方が驚きだ」
 彰達から見た貴希というのは運動が好きで女の子だからとか男の子だからと言うのを気にしない人間だった。また、分け隔てなく接するところから好感も持てる。だからか、貴希自身のクラスの評価は高い。
 中でも親しい付き合いをしているのは彰達幼なじみ組三人である。大抵の場合一緒にいるのが当たり前だった。
「貴希もさ、すぐに友達作れるヤツだけど、あそこまで仲良くなれるのもまた珍しいと思うぞ?」
「そうかもね。僕達くらいに仲が良さそうだよ」
 やや沈んだ声。
 その声に恵理の直感が光った。
「まさか、みーちゃん。惚れた?」
「えええぇぇぇぇ!?」
「なに!? マジなのか!?」
「ちちちちちち、違うよ! 違う!! そんなことあるわけ無いじゃないか!」
 と言うが、顔を真っ赤にして慌てている姿では説得力がない。
「いやー。みーちゃんにも春が来たんだねー」
「美里。奥山は手強いだろうけど頑張れよ!」
「うん…………って、違うって言ってるでしょ!!」
 なおも反論するが、彰と恵理は取り合わない。結局、喚くよりは二人の好きなようにさせておく方が良いみたいだった。
「もう、好きなようにして……」
「やっぱ、最初は手を繋ぐところか?」
「うーん。普通の時じゃあんまりそう言うチャンスはないから、来月にある登山の時とか、合法的に手を握れるわね」
「好き勝手言わないでよ!!」
「だって、好きにしてって言うから」
「本当にするなんて酷いよ!!」
 まさか、本当に好き勝手言うとは思わなかった。しかも、話の内容が現実味ありすぎて恐い。
「お願いだから、さっき言ったこと実行しないでよ?」
「さて、そろそろ行きますかね」
「おお!? もうこんな時間ではないか! そろそろ道場に行かなきゃな!」
「二人とも聞いてる!?」
 いそいそと帰る支度をし始めた二人に泣きそうな声をあげる美里の悲鳴が学校中に木霊したような気がした。

 学校からの帰り道。
 いつもとは違い、貴希は一人でその道を歩いていなかった。
 隣には千鶴がいる。
 家が向かいと言うこともあって通学路は全く一緒である。
 その事が嬉しいのかどうかはよく解らないが、嫌だというわけでもないので気にしないことにした。
「学校、どうだった?」
「まあまあね。授業にも着いて行けそうだし、クラスの人間も良い人が多そうだし」
「美里君はしっかりしてるから、頼りにした方が良いよ」
 事実、美里は細い外見とは裏腹に腕っ節が強い。
 家が道場を経営しているので、昔から運動に関しては群を抜いていた。
「彼等とは親しいの?」
「うん。入学してから友達になった」
 貴希とあの三人が親しくなり始めたのは体育の時間のことだった。
 元々、彰と恵理は近所にある藤堂道場に通っており、その頃に知り合ったらしい。同い年だった美里とも仲良くなってよく遊ぶようになったとか。
 この三人は身体を鍛えていたため普通の子供より力がある。彰は同世代に比べやや身長が高い部類に入り、恵理は小柄ながら瞬発力がある。美里は総合的に身体能力が高い。
 この三人は運動に関して飛び抜けた物を持っていた。
「その時の授業でやったのが徒競走でさ。僕と一緒に走ったのが、彰だったんだ」
 全国平均よりやや小さめの貴希と全国平均よりも背の高い彰では勝負にならないと言う下馬評だった。彰の足の速さは皆が知っていたので貴希に同情的な視線を送っていた。
 しかし、いざ走り始めれば貴希の圧勝。タイムも好成績で一躍有名になったのである。
「あの頃は、彰に事ある毎に勝負をかけられてたね」
 例えば、テストの点数。――これは貴希が勝った。と言うより、彰が雑魚過ぎた。
 例えば、給食の早食い。――体格が違うのだから勝てるはずがない。彰の圧勝。
 例えば、体育の走り幅跳び。――僅差で貴希の勝ち。
 など、他にも色々とある。
「その内に仲良くなったんだ」
「そうなの」
 と言うことは、彼等とは結構古い付き合いらしい。
「あの三人は良い人だから友達になってくれるよ」
「……同情でなってくれるならいらないわ」
「……そんなことはないよ。中司さんはそんな事しないと思う」
「どうして?」
 貴希はやや考える素振りを見せてから言った。
「中司さんもさ、千鶴と同じ様なことをされたときがあったんだ」
 恵理は普通の女子に比べ気が強い部類に入る。
 その気の強さが人を纏める力になっているのだが、そうした人間は恨まれることも多い。もちろん、恵理がどうこうしたわけではなく、逆恨みという形で顕れるのだ。
 千鶴のように長期間されていたわけではなく、貴希の知る範囲では一〜二度という程度だった。
 恵理としてはこう言うこともあるのだと納得してはいたが、犯人は何も言わない恵理に調子づき、更に行為をエスカレートさせてしまった。ノートの一ページを破ると言った程度なら恵理も黙認できたのだが、関係のない人間まで巻き込み始めたので制裁に入ったのである。
「もう凄かったね、あれは。機関銃みたいに言葉を浴びせて、最後は取っ組み合い。見ててハラハラした」
 恵理の強さがどれ程のものか知らなかったが、普通の女の子とは実力が違うと言うことは予想できていた。でも、そう考えていたとは言え、あの争いは貴希としては苦手なところである。
「美里君と一緒に震えてたよ」
 苦笑ついでに言った。
 千鶴はその話を聞いてどう思ったのだろうか。
 アスファルトの道路を見て、次に空を見上げて、最後に前を見た。
「中司さんにとって、その相手はどういう位置にいたのかしら」
「どういう意味?」
「悪戯をしていた犯人を知ったとき、中司さんにとっての犯人の位置は変わったはずよ。意外な人がやっていたのなら、最低の部類へ。予想通りの人間がやっていたのなら、見下す部類へ。
 彼女は犯人をどう捉えていたのかしら」
「……よく解んないよ。でも、中司さん、「嫌がらせしかできないようじゃ、自分には勝てない」とか言ってた」
「そう。なら、『見る価値もない部類』というわけね」
「……その言い方は酷いと思う」
「でも、間違ってはいないわ。優しい言葉で言ったとしても、意味をくみ取れば同じ事よ。なら、より直接的に言った方が建設的」
「けんせつてき?」
「都合が良いって事よ」
 解ったような、解らないような。
 貴希としては、人を妬むという感情が少し理解できない。
 勉強が出来る人を見て羨ましいとか、運動が出来る人間を見て凄いとか思うのと同じなのだろうか。自分の感覚からすれば、それは称賛に当たることだが、他人から見ると憎悪の対象になるらしい。
 人を恨むという感覚がよく解らなかった。
「人を恨むというのは簡単よ」
 首を捻る貴希に、千鶴は言った。
「例えば、私と初めて会ったとき」
「え?」
「その時、貴希は私と口を利きたくなさそうだった」
「う、うん。その、ごめんね?」
「別に気にしてないわ。今はね。
 それで、不気味な私を見て恐かった」
 認める。それは既に告白したことだったから。
「恐いと言うことは、恨むという感情に変わりやすいわ。恐いから邪魔、無くなってしまえばいい。その感情が『恨む』と言うことに繋がる」
「じゃあ、僕は千鶴を恨んでたって事?」
「そんなこと、私には解らない。あなたの心を覗けるわけでもないのだし。
 私から見れば、邪魔な者がいるという風にしか捉えられなかったという話よ」
 誤解、ではないのだろう。
 貴希がどう思っていようとも、相手が見るのは表面に映る態度だけだ。
 どんなに言い繕っても、怖がるような仕草をすれば、相手は怖がっているとしか認識しない。心のありようではなく、それを如何にして伝えるかが問題だ。
「でも、あの日、私を恐くないと言ったから、私はあなたを信じることにした。
 それが嘘の言葉じゃないことは解ったから」
「……さっき言ったことと合ってないような気がするよ?」
「その言葉を真剣に言ってるかどうかぐらい解るわ。それに、今日まで一緒にいれば、大体あなたの性格は把握できたし」
「僕って、単純って事?」
「……良い意味で単純ね」
 千鶴の言葉は解らない物が多い。言葉が難しかったり、表現が遠回しだったり。
 今も、単純は良い事みたいな言い方をされた。でも、単純と言われるとたいていの人は怒る。貴希もそう思った。
「単純で悪かったね」
「良い意味で、と言ったのだけど」
「君の言い方は難しいことが多くて解らないよ」
「じゃあ、解りやすく言ってあげる」
 千鶴は、音もなく貴希に近づく。すり寄るように肩に手を置かれた。横を向けば、千鶴のかんばせが一面に広がっているだろう。貴希が横を向く前に、千鶴は一言だけ言った。
「――優しいってこと」

 ふわり

 と、千鶴の気配が遠ざかる。頬に、一欠片の温もりを残して。
「――え?」
 一瞬の出来事に貴希はなにをしたらいいのか解らなかった。
 出来たのは、驚きの声をあげることだけ。
 千鶴は既に前を歩いている。いや、早歩きかも知れない。どちらにせよ、彼女は前を歩いている。
「ちょっ、千鶴!?」
 呼びかけるが、千鶴は振り返らない。無視するかのように足を進めていく。
 そして、駆けだした。
 千鶴の突飛な行動に驚きながらも、貴希も駆けだした。
「待ってよ! 何で逃げるのさ!?」
 笑いながら走る。
 何故か笑っていた。何が面白くて笑うのか解らないが、笑っていた。
 自分の声以外にも声が聞こえる。くすくすと笑う声が。
 それは、前の方から聞こえた。
 意外に速い千鶴を追いかけながら、貴希は思った。
「――もしかして、恥ずかしかった?」
 その答えは、前を走る黒い影に聞いても答えてはくれなかった。






























__/3































 それは霜月の初めの日だった。




















 肌寒くなってきた朝の空気を感じて起床した貴希は、目覚ましの文字盤に視線を移す。
「……六時?」
 起きる予定の時間より三十分ほど早かった。
 寝ぼけ眼を擦って、一つ大きな欠伸をする。
 一瞬、このまま二度寝をしようか迷うが、三十分では大した物にはならないし、こんな短時間では逆に眠気が増すだけだと言うことを経験から知っていたので、少し我慢。
 布団から這い出て、身体を擦りながら着替えることにした。

 着替えを終えて台所に行くと、美紀子が朝食を作っていた。珍しく早く起きた貴希を見て少し驚いた。
「珍しいわね。いつもだったらもう少し寝てるけど?」
「なんか、起きちゃって」
 事実である。しかも、何の根拠もないのでそれ以上説明できない。
 美紀子も経験があるのか、それ以上突っ込んで訊いてこなかった。
 話をしながらでも、美紀子の手は止まらない。手早くフライパンを返していく。それを惚っと見ていたら、目の前に美味しそうな朝食が出された。
「はい、どうぞ」
 頂きますと一礼して、箸を持った。

「え? そうなの?」
 それは突然言われた。
 いや、突然でもないかも知れない。
 少なくとも話題の人物の情報であることは確かだから。
「知らなかったの? 私はてっきり知ってるのかと思ってたわ」
 何故、てっきりなのだろう?
「だってさ、千鶴ちゃんが来てから、いつも一緒にいるじゃない。学校行くときもそうだし、帰ってくるときもそうでしょ? で、帰って来たら来たで、一緒に遊んでるし」
 言われてみればそうかも知れない。
 と言うより、そうである。
 新山貴希と奥山千鶴は共にいる時間が長い。
 けれど、美紀子が想像するようなことをしているわけではない。本を読んでいるわけでもないし、テレビを見ているわけでもない。ゲームをしているわけでもないし、外で遊び回っていることもない。
 ましてや勉強、何てモノもしていない。
 ただ、近くにいて、静かに時間を過ごしているだけだ。
 大抵、貴希は寝転がっているだけで、その間千鶴が何をしているのかあまり知らないのだが。
 そこには、何の動きもないが、それはそれで何故か楽しかったりもする。
 貴希には不思議な感覚としてしか解っていなかった。
「……でも、千鶴とはそんな話しないし」
「……まあ、そうかもね」
 あの千鶴がそんな俗っぽい話をするとは思えなかった。
 ましてや、それをネタにねだってくるなんて想像の外の出来事である。
 そんなことが起きたら、まず精神科の医師に診せなければならない。
「ま、知らなかったんなら良かったじゃない。知らないままだったら、気まずいでしょ?」
 確かに気まずい。
 千鶴は気にしないだろうが、後から知った身としては、いたたまれない。
 こういう義理堅いところが貴希にはある。
「そうだね」
 そう言って、卵焼きに箸を刺した。
「じゃあ、今の内に色々用意しておかないと。千鶴ちゃんの好みとか解る?」
 言われて思い浮かべてみる。
 即座に出てきたのは、
「黒」
 だった。
「あー、うん。色じゃなくて、物。物質。商品」
「物……」
 なにかあるだろう?
 千鶴が一般から外れているのは自他共に認めるところであり、普通の規格で当てはめるのは無理がある。では、彼女の趣向に合いそうなものと言うとどんな物があるだろうか?
 本格的に悩み始めた我が子に美紀子は苦笑しながらも言った。
「息子よ。悩むのは結構だけど、学校も頑張ってくれると、お母さん、嬉しいなぁ」
 貴希の思考の中に学校という単語が組み込まれたところで、気が付いた。
――今、何時だっけ?
「八時ちょっと過ぎね」
 母は無情だった。
「げ」
 茶碗に残っている御飯を書き込み、みそ汁で流し込んだ。
 景気付けにもう一つ卵焼きを口に突っ込んで、洗面所へダッシュ。
 そんな我が子を美紀子は、おかしそうに笑って眺めていた。

 支度を終えて外に出た貴希を待っていたのは、無人の玄関口とポストに挟まっていた『次は早くなさい』と書かれたメモだった。

 一日の授業を消化した千鶴は、半ば恒例となった一組への移動を開始。後を追うように美里も立ち上がる。
 二人の行動を静かに眺める二組の人間達。彼等の興味の対象は八割千鶴で、二割美里だ。
 美里は、その容姿と外見からは想像できない運動能力、そして成績の良さから女子達に絶大な人気を誇る。何故か、上級生からの受けが大変よろしく年間行事になると必ずと言っていいほど声をかけられている。
 一方、転校して早一ヶ月が過ぎた現在。千鶴の容姿の秀麗さは学校中を駆け巡っていた。
 千鶴は元来、動き回らないタイプなので、自然と彼女を見ようと人が集まってくる。酷い時は、授業時間に食い込んでも人集りが消えずに、一騒動起こった。
 治めた、と言うよりは蹴散らしたのは恵理。椅子を粉砕して黙らさせたのだ。その時の恵理の目つきの鋭さは見たことがないと、後に彰が述懐している。
 騒動の種である千鶴は面倒くさそうな顔をして、そんな光景を眺めていただけだった。あくまで自分から解決はしない千鶴。
 そんな物静かな彼女が自分から率先して動くのは、決まって放課後になってから。
 手早く鞄に教科書とノートを突っ込んで足早に教室を出ていく。向かう先は隣の一組。更に言うなら、そこに所属する新山貴希だった。
 初日からの行動やこれまでの定期行動を省みるに、千鶴と貴希は親密な関係にあるらしい。昔から関係があったのか、或いは最近知り合ったのか。
 どちらにせよ、話の種には困らない話題であることは確かだった。
 そんな噂の目など知らぬ本人は一組の教室に入っていった。
「彰ぁー! アンタ、掃除当番でしょ!!」
 入った瞬間、恵理の怒鳴り声が聞こえてきた。
 どうやら、彰が掃除当番を嫌がって逃げているのを恵理が追いかけているらしい。美里はまたかと諦めたような溜息を、千鶴はそんな二人には目もくれず、目的の人物を探していた。
「代わりにお前がやってくれ」
「なぁんでよ!?」
「オレの代わりを任せられる人間はお前だけなんだ」
「そーじくらい誰だってできるでしょーが!!」
 彰は机や椅子を足場に追っての追随を逃れる。
 恵理も負けじと箒片手に走り、徐々に追いつめていく。頭脳戦では恵理の方が上手らしい。
 彰の身体能力を持ってしても恵理の包囲作戦には歯が立たないようだ。
「ふっ、お前のその頭脳と馬鹿力を見込んで、オレの後を継いででででで!?」
 いつの間にか、恵理の指が彰の耳を掴んでいた。
 彰の隙をつき、全力で足に力を込めて踏み込む。間合いを一気に無にする飛び込みだ。
 箒の柄を首に当てて、彰の動きを牽制。端から見れば、間抜けな絵であるが、彰からすれば、首筋に当てられているのは、ナイフより鋭い凶器である。
 これ程までに見事な動きが出来るのは、妥協のない反復された訓練の賜物だろう。
「テ、テメェ!! 昨日の映画見ただろ!?」
「ええ。参考にさせて貰ったわ」
 ……どうやら、見よう見まねだったらしい。
「さあ、彰クン? 私、さっきの言葉、良く聞こえなかったの。もう一度言ってくれないかなぁ、ン?」
 何故か女教師風に喋る恵理。
 この口調になった恵理はかなり怒っている状態だ。
 冗談っぽく見せて相手を油断させるというのが恵理の戦法でもある。
 彰は両手を上げて降伏のポーズを取る。
「取り消します。取り消しますので、箒を退けてください。喉に食い込んでるんですが?」
「とーぜんじゃない。食い込ませてるんだから」
 また、ぐいっと箒を動かす。
 彰が低く唸った。
「謝るから許してくれぇ!」
「……ま、今回はこの辺で許してあげるわ」
 完全に降伏した彰にやや不満そうに恵理はそう言った。
 恵理の拘束が緩くなったのと同時に彰が喉をさすりながら二歩ほど距離を取る。
「アンタ、いい加減私をからかうの止めたらどう?」
「いやだ。人をおちょくるのはオレのポリンキーだ」
「それを言うなら、ポリシーでしょ?」
 二人の会話に割って入ったのは美里だ。この二人の会話は誰かが止めない限り、無駄に続いていく。それを眺めているのは楽しいのだが、周りの迷惑になるのは勘弁したいところだった。
「ん? 美里か。いつの間に来たんだ?」
「随分前からだよ」
 一組の人間と一緒に、彰と恵理が倒した机を元に戻しながら美里は言う。
「二人共さぁ、流石に人に迷惑をかけるのはどうかと思うよ?」
『うっ』
 あらかた直ってはいるが、事が終わるまで結構な数の机とか椅子を倒していた気がしないでもない。
「この前だって、恵理は椅子壊してるんだからこれ以上は駄目だよ?」
「わ、わかってるわよ!!」
「なら、暴れないでよ」
「そ、それはこいつが……」
「オレの所為にするのか!?」
 また、ギャアギャアと口喧嘩をしていく。
 先程、美里が注意したばかりなのにこの有様だ。誰も、この二人の喧嘩癖を治せないのではないだろうか。
「貴希は何処?」

『は?』

 そう悲観していた美里の耳に入ったのは千鶴の平坦な声と、間の抜けた幼なじみ達の声だった。
 そう言われてみれば、いつもなら恵理と彰を止めているはずの貴希の姿がない。それに気付いた美里も教室を伺うが目的の人影は何処にもなかった。
「そう言えば、何か一つ足りないと思ってたけど、それね」
「そうだな。いつもとなんか違う気がしてたけど、それだ」
 二人とも貴希がいないことに気付いていなかったらしい。
 二人が使えないことが解ると、千鶴は近くの女子を捕まえて問い質す。
「貴希は何処?」
 何か、鬼気迫った雰囲気で訊かれた的場美代は、ビビリながらも答えた。
「え、えっと、新山くんは帰っちゃったけど……」
「そう。ありがとう」
 そう言うなり、踵を返す千鶴。振り返った所為で彼女の長い黒髪が舞った。
「おぉ。今、奥山の髪の毛の辺りに星とかが見えたっぽいぞ」
「奇遇ね。私も見えたわ」
「……?」
 美里一人だけが解っていなかった。
 そんな三人を放って、千鶴は足早に教室を出て行ってしまった。
「うーむ。愛されてるのう、貴希は」
「いやー、女の子から見ても溜息が出ちゃうわね」
「美里も大変だなぁ」
「うんうん」
 同情的な目を向けられて、うっと身を退く美里。
 そう言う行動がこの二人の琴線に触れるというのに。
「ぼ、僕はもう行くから!」
「あ、待てよ! 俺も行くぞ!」
「あんたは掃除してからよ!」
「ぐべっ!!」
 蛙が踏まれたような悲鳴が聞こえたような気がしたが、美里は恥ずかしさのあまり周りが見えていないようで全速力で下駄箱へと走っていたのだった。

 放課後の商店街。
 首を捻りながら唸るのは貴希だった。
「千鶴が好きなもの……」
 今朝から悩んでいるのはそのことだった。
 千鶴の誕生日が近づいているので、何かプレゼントを考えておくのも良いのではないかと母親に言われ、貴希は律儀に考えているのである。
 母親としては、千鶴に贈り物をするという行為そのものがいいのだと言いたかったのだが、貴希に言っても理解できないと思いやめたのだ。
 男の子に言っても多分理解できないと判断したのだろう。その割には、千鶴が理解できるものだと初めっから信じている。
 妙な母親である。
 さて、腕を組んで首を傾げながら道を闊歩する小学生というのは微笑ましく、目立つものだ。
 しかし、思考の海に潜っている貴希は周りのそんな様子に気付かない。
 学校から商店街まで歩いて考え付いたのは、手当たり次第に店を回って何か良いものはないかと探す方法だけだった。
「やっぱ、頭悪いなぁ」
 効率的に行動できない貴希がそんなことを呟く。
 多分、いや確実に千鶴ならば良い方法を即座に思いついて実行できるに違いない。
 そんな確信を抱きながら、プレゼント探しの一軒目。
 大野書店に入っていった。

 書店を覗いて回る。
 普段なら、絶対に立ち寄らない小難しい専門書やら、学術書なんかも回ってみたが、何が書いてあるのかさっぱり解らなかったので、諦めた。自分が知らないものをあげて喜ぶとは直感的に思えなかったのだ。
 さらに、店内をぐるぐると回ってみるが、これと言ってめぼしい物はなかった。
 まさか、千鶴に漫画をあげるわけにもいくまい。彼女のイメージというか、欲しいものは大概手に入れる性質なのは知っているからだ。
 例を挙げるならば、この前、新山家と奥山家がともに食卓を囲んだときのことだ。

 料理の品目は鍋。やや早い時期ではあるが、今年は厳寒だそうなので問題はない。
 とりあえず、大人組が食べたかったというのが真相だろう。
 ともかく、皆で鍋を囲んだわけである。

 そのときのちづるさんはこわかったです。

 大人達に有無を言わさず、速攻で牛肉を掻っ攫い、ポン酢、ゴマダレ、何もなし、塩を振ると言う四種類の味を堪能してました。
 それに怒りを見せた奥山家の大黒柱、聡が千鶴の皿にてんこ盛りになっている肉に箸をかけようとしたその瞬間!
 千鶴の箸が神速を超えて聡の箸を弾き、お返しにと言わんばかりに淹れたばかりの緑茶を顔にぶちまけた。
 怪鳥の鳴き声を上げてごろごろと転がる聡に貴希はおろおろするが、他の面々は気にせず鍋をつついていた。
 どうやら、奥山家ではこれが日常的らしく、また新山両親は聡がそういう星の下に生まれていることを悟っているのか、まったく気にしなかった。
 結局、お茶をぶちまけられたはずなのに火傷一つ負わなかった聡は大人しく席に着き直し、野菜だらけの鍋を再びつついたのだ。
「……おじさん。良いんですか?」
「何が?」
 千鶴の奇行がと言いかけて咄嗟に飲み込む。
「……火傷とか」
 何とかそれだけを搾り出した。
「ああ、大丈夫大丈夫。いつものことだから。それと、今後千鶴に肉類を取られたら諦めることを奨めるよ」
「はぁ……」
「千鶴はね、欲しいものがあったら容赦なく、徹底的に、根こそぎ持っていくから」
「――父さん?」
「あ、なに?」
「余計なことを言うな」
「はい、すいません」
 相当に地位が低い大黒柱であった。

「まあ、欲しいは大抵持ってるって事だよね」
 おそらく、千鶴はあれこれとものを欲しがる人間ではない。
 自分が気に入ったものしか手元に置かない人間だ。ここ一ヶ月程共にいて大体理解できてきた。
 そんな彼女が喜ぶものといったらなんなのだろうか?
「だから、それが解れば苦労しないって」
 貴希は後頭部を掻きながら次の店へと入っていった。

 学校を出た千鶴は貴希を探すために商店街へと向かっていた。
 貴希が放課後に行くとすれば、公園か道場か商店街である。
 一つ目の公園はない。
 貴希が公園に行くということはサッカーをしに行くと言うのと同意義だからだ。しかし、今日はサッカーボールを持ってきてはいなかった。今までのパターンは学校にボールを持ってきて、そのままクラスの人間を引き連れて公園で暗くなるまで遊ぶのである。
 よって、公園はありえない。
 二つ目の道場だが、あの三人組と共にいなかった時点で却下だ。
 貴希が道場に行く場合は三人組の付き添いで道場に行き、道場主の藤堂嶺義(みねよし)と一緒に茶菓子を食べたりするだけである。嶺義爺からは散々「武道を習え。お前は強い」と勧誘されているので、近頃はやや倦厭気味である。
 最後の商店街が一番可能性が高い。
 例外として家と言うのもあるが、急いで学校を出たということはどこかへ寄る時間が欲しいということなので、多分違うだろう。
 家に帰ったのなら帰ったらで、別段文句は……あると言えばあるが、不問にしよう。
 そう考えながら、千鶴は外見に似合わない俊足で商店街へ向かっていった。

 商店街についてから、貴希を見つけ出すまでの時間、およそ一秒。
「……目立ちすぎよ」
 僕、悩んでますといった仕草をしている小学生はこの手狭な商店街では目立つものだった。
 考えに耽っている貴希を追うのは簡単だった。わざわざ物陰に隠れる必要もない。気配を殺しながら距離を保つだけでつけられたのだ。
 書店、生活用品店、ゲーム屋、電気屋、スーパーマーケット、パン屋、精肉店、魚屋、八百屋。
 商店街を北に抜けるルートを辿りながら、貴希は様々な店を眺めていく。
 商品棚を見ては唸り、店の看板を見て首を捻りと、見ていて飽きない。
 しかし、どの店でも貴希の悩みを解消できるものはなかったらしい。
 店から出てくるときは、肩をやや落とし、次に気合の入った顔を上げて次の店へと進む。それの繰り返しだ。
「一体、何をしてると思う?」
「うぇっ!?」
「うぉっ!?」
「はわっ!?」
 突然、振り返った千鶴はそんなことを言った。
 それに、心底驚いた声を上げる三色の声。
 彰に恵理、そして美里だった。
 どうやら、貴希と千鶴の動向が気になったらしく、千鶴達をつけていたらしい。
「い、いきなり振り向いて声かけないでよね!?」
 小声で怒鳴りながら恵理が怒る。
「悪趣味」
「うっ」
 千鶴の一言に呻く。
 確かに、悪趣味なことをしているが、それは千鶴だって同じだ。
 何より、目標を観察しつつ、自分が尾行されていることにも気付くその察知能力の高さが凄い。
「あ、あんたに言われたくないわよ!」
「黙りなさい。あの子、あれでいて勘が鋭いんだから」
 冷たく言って、千鶴は貴希が入っていった雑貨店に目を向ける。
「くっ」
「まあまあ」
「落ち着けっての」
 歯軋りする恵理を彰と美里が抑えた。
 ここで暴れられて、貴希に見つかっては罰が悪い。恵理とて、そのことは解っているのが、沸いた怒りがすぐに冷めないのは仕方ないことである。
「あ、出てきたよ」
 店を出ても首を傾げる貴希。
 どうやら、またハズレのようだ。
「一体、何探してんのかしら」
「……エロ本?」

 ばかんっ!!

「ん? なんか、聞き覚えのある音がしたような気が……」
 店を出て微かに何かが破裂するというか、割れるというか、そんな音が聞こえた気がした。
 辺りを見てみるが、それっぽいものは何も見えない。
「気のせいかな」
 そういうことにしておこう。今は時間が惜しいのだ。

「っの馬鹿!! もう少しで見つかるところだったじゃない!!」
「恵理が殴ったからじゃないの?」
「その前にこいつが馬鹿なこと言うからよ!」
 貴希が振り向くあわやと言う所で路地に逃げ込んだ四人。一人は屍だが。
「エロ本……。まだ、早いわ」
「何、奥山さんも真剣に考えてるんだよ!! 貴希君がそんなもの買うはずないじゃないか!!」
「この年で、性に目覚めるのは不思議じゃないわ。現に子供産めるし」
「そういう問題じゃないよ!」
 千鶴は千鶴で思考が爆走していた。
 しかし、小学四年でどうしてそう言う事を知っているのだろう?
「っー。あ゛〜、痛ぇ。痛ぇぞ、恵理。もう少し加減しろ。俺じゃなかったら、間違いなく死人が出てるぞ」
「知ったこっちゃないわ」
「酷ぇ」
 むくりと起き上がった彰は節々を確かめるようにぶらぶらと振ってみる。違和感はないので多分大丈夫だろう。
「貴希はどこだ?」
「ん。今度は下着屋に……はさすがに入らなかったわね」
「……だんだん貴希君が解らなくなって来たよ」
 なぜ、探し物で下着屋に入ろうとするのか理解できない美里。
 その横で、彰はうんうんと腕を組んで頷いていた。
「やっぱ、あいつも男だったんだな。爽やか青春少年の皮を被った狼野郎だったんだな」
 何故か滝涙。
「え、でも入るの、やめてるよ?」
「馬鹿かお前は。男なら一度や二度、女物の下着屋の前を通ったらふらふらっと入りかけることもあるんだぞ」
「ほ、本当に!?」
「嘘に決まってるでしょうが! いちいち相手の言う事を信じるな!!」
「うっ、ごめん」
 彰の狂言にしっかり反応するからこそからかわれる対象になるのだ。ならばそれをしっかり自覚できれば良いのだが、美里はどこか天然なところがあるので、いつもいつも騙されている。
「彰! あんたも、適当なこと吹き込んでんじゃないわよ!!」
「馬鹿言え! 男は大人な下着に興味心身なんだぞ!?」
「こんの! エロ魔神が!!」

 ごがん!

「へげれっ!?」
「一生、寝てろ」
「あ、第四法」
 恵理の跳躍からの振り下ろしの肘撃ち。

 藤堂流 第四法 天肘

 本来ならば、脳天ではなく肩等を狙って腕を使えなくするのが目的なのだが、恵理は人体急所の一つである延髄に叩き込んで彰に撃ち込んだのである。跳躍からの攻撃なので、恵理の全体重プラス筋力が加わるので相当に痛い。
 しかし、本来はこういう使い方をするのが役目の技である。時代が殺人術を善しとしなくなったので(いつの時代でもそうだが、現代では特に)、若干技が弱体化したのだ。
「ふぅ。これで良し。次邪魔したら第六法だから、覚悟しないさい」
「……恵理、第六法はまずいよ」
 藤堂流 第六法 天昇は、要するに金的蹴りである。
 ただ蹴り上げるだけでは技ではないので、更に追い討ち技と言うべき攻撃方法がある。
 蹴り上げた足をそのままに、軸足だった足も上げて、上から叩き落す。ちょうど、足の甲と踵でものを挟む形になる。これに耐えられる男はこの世に一人もいないだろう。
 男限定だが、恐るべき技なのだ。しかし、技を放つの良いのだが、挟んでからの行動がかなり限定されてしまうため、あまり使い勝手のいい技ではない。まあ、金的を踵落としされた時点で反撃も何もないのだが。
「はぁ、奥山さんも何か言って……あれ? 奥山さん?」
 そばにいたはずの千鶴がいなくなっていた。
 慌てて通りを探すと、先の方にいた。
 どうやら、美里たちを無視して尾行に戻ったらしい。
「え、恵理! 奥山さん達が先に行っちゃってるよ!」
「えぇ!? 千鶴めぇ。楽しいことを独り占めしようとしてるわね!」
 正しくは、恵理と彰の漫才に付き合ってられなかったからだ。
「みーちゃん! 行くわよ!」
「あ、彰は?」
「ほっときなさい!」
「は、はいぃ」
 舗装された道路の上に細かい痙攣を起こして、口から泡を吹いている彰と呼ばれていた屍に、成仏だけはしてくださいと手を合わせて、更に呪うなら恵理だけにしてくださいと祈って、美里は恵理の後を追った。
「……くっそ、あの馬鹿力めぇ〜。甦ったら覚悟しとけよぉ」
 涙の池を作りながら。屍はそんな呪音を残していた。

 商店街もあらかた探し回った。
 商店街に並ぶ店もここで最後だ。
「……彰なら、男としてここだけは入りたくないとか言うんだろうなぁ」
 全く同じ心境である。
 貴希の目の前にそびえ立つは、一軒の店。
 暖色系の色をふんだんに使った綿の人形や、手の平サイズできらきらと輝く装飾品が所狭しと並ぶ店。
 所謂、ファンシーショップである。
「僕もここだけには来たくなかったよ」
 恐らくどこかで遊んでいるだろう友人にそう呼びかける。しかし、その友人は現在多大なダメージの回復中である。声は届いていまい。
「くっ。改めて見ると、入りづらい」
 通りから中の様子を覗いてみると、見事に女の人しかいない。更には、店員も女性ときている。
 ここまで徹底しているとは……。
 恐るべし! ファンシーショップ!!
 入るべきか、入らざるべきか。
 大いに悩む貴希だが、
――何言ってんだ。入らなきゃ何があるか解らないじゃないか。
 そもそも、こうして店を回っているのは千鶴に贈る品を見つけるためではないか。
「……何を怯む事がある貴希之信。貴殿には進むべき道は見えてるではないか」
 時代がかった口調で気持ちを奮い立たせて、いざ天外魔境へ!
 何か演技をしてなければ恥ずかしくて逃げ出してしまいそうな貴希であった。

 店内へ潜入。
 これより偵察にかかる。
 敵機からの捕捉は無視して構わない。貴官の任務は目標物の発見及び入手になる。サーチアンドキャッチだ!
 頭の中の軍人が力一杯叫んでるのを遠くの方で聞きながら、貴希は奥へと進んでいく。
 ぬいぐるみやアクセサリーと言った物が乱立する店内。
 いや、別にこう言う所に入るのは確かに恥ずかしいんですが、何とか我慢できるんですよ。
 しかし、しかしですよ?
 こうも人からの視線をひしひしと感じてしまうとここで大声を出して逃げ出したい衝動に駆られるんです。
 ぬいぐるみ区画を一応見てみるが、千鶴が気に入りそうなものは見つからなかった。と言うか、彼女が大きな熊を抱いて寝るかといえば絶対に違う。部屋にはそんなもの一つもなかったし。
 貴希が来ると言う事で咄嗟に片付けたのかもしれないが、千鶴が外面を気にする人間ではないことは十分に知っているので、有り得ないだろう。
 そんなことを考えながらぬいぐるみを眺めていたら、後ろからくすくすと笑い声が聞こえてきた。

(耐えろ! 耐えるんだ! あれは僕を笑ってるんじゃなくて、会話だ! 会話の流れで笑ってるんだ!!
 ああ、でもその会話の内容が僕だったりして、って、か ん が え る ん じゃ なあああああぁぁぁぁぁい!!)

 大佐。自分はもう無理かもしれません。
 ここにいるだけで、寿命が二十年くらい縮みそうです。
――何を言っているか、少尉! 貴様、それでも千鶴将軍にお仕えする人間か!? 彼女のことを考えれば、この程度の嘲笑など恐るるに足りん!
「……よし」
 なんだかよく解らないが、気合が回復したところでもの探しを再開しよう。
 次に入り込んだのは、小物が並ぶ棚だった。
 どうやら、この店ではぬいぐるみよりも、こういった小物類の方に比重を置いているらしい。棚の周りには沢山に女性客が商品を手にとって談笑していた。
 その中を、恥ずかしさを押し殺すあまり無表情に近くなってきた貴希がすり抜けていく。
 一つ一つ、商品を吟味していく。こうして、商品選びに集中したほうがまだ、恥ずかしい思いをしないで済むからだ。
 貴希は、目の前に陳列された宝石箱を一つ取ってみる。
 金色で、宝石のイミテーションが散りばめられた箱。
「………………」
 この箱を千鶴が使っているところを想像する。
――つーか、無理。絶対無理。だって、全然似合ってないんだもん。
 千鶴が使うには些か派手なような気がする。しかし、彼女の趣味が理解できていないので、もしかしたらこれが気に入るかもしれない。
 そんな考えがあるので、これまで決定的なこれと言ったものを見つけられなかった。
 彼女の外見だけで似合う似合わない、好き嫌いを判断するのはいけないことなのだが、如何せん趣味が解っていない時点で贈り物を選ぶのは間違っている気がしてきた。
 でも、ここまで来て引き返すのはなんだか負けの気がする。
 負けるのは嫌だ。
 なんだか嫌だ。
――じゃあ、探すしかないじゃないか。
 と言う訳で、捜索再開。
 背中からちくちくと視線を感じつつ、貴希は次の棚へ。
 宝石箱エリアの隣は、中身の宝石郡。もちろん、本物ではない。だって、五百円とか書いてあるし。
 ネックレス、指輪、ブレスレット、カチューシャ、イヤリング。
「ん……?」
 イヤリング。
 それが目に止まった。
 全体の色は銀。金属特有の手触りがある。
 恐らくメッキだろう。しかし、金属を使ってるためか、値段は高めである。
 月と星をモチーフにしたデザイン。飾り気のないものだが、だからこそ良いかもしれない。
「………………」
 もっとよく考えてみる。
 これはイヤリング。
 身に着けるとしたら、当然耳だ。
 で、耳には一体どうやって着ける?
「穴……」
 そうだ。穴だ。
 確か、テレビでピアスとか言った物を着けるときには、耳に穴を開けるとか何とか。
「……痛そう」
 なんだか、耳たぶの辺りが痛い気がしてきた。
 わざわざ耳に穴を開けてまで、そんなものを着けるのだろうか。
 着けるのだろう。だって、これを千鶴が着けたら似合いそうだし。
「………………」
 でも、耳に穴を開けなければ着けられないもの渡して、さあ着けろというのは、ものすっごく気が引けるんですが。
「金輪際無いと言うことで」
 身体を傷つけてまで着飾って欲しくはない。
 そう思って、貴希はそれを棚に戻した。
 それ以降、いろいろと見て回ったが(あまりにも長くいた所為で、恥ずかしい感覚が麻痺してきたらしい)、これだと思えるのは、あのイヤリングだけだった。
「はぁ……」
 がっくり肩を落とす。
 ようやく人間になったと思ったら、泡と消えてしまった人魚姫みたいだ。
 とぼとぼと、引き返していく貴希。
 そんな貴希に、声をかけた人間がいた。
「ねぇ、君」
「はい?」
「何探してたの?」
 声をかけてきた人間―貴希の行動をずっと見ていたのであろうファンシーショップ・スウィートブレスの店員―はにこやかに笑ってそう言った。

「おんやぁ? 新山少尉に接近する機影あり!」
「見てれば解るわ」
「ほうほう、これまた自信満々ねぇ」
「……何が言いたいのかしら?」
「いいえぇ、別にぃ? 何も含んでませんよぉ?」
「その言い方だけで、むちゃくちゃ怪しいよ」
 貴希をつけていた四人の内の三人は寒空の下、貴希が入っていったファンシーショップの中を覗いていた。
 スモークガラスではあるが、辛うじて中の様子は判る。中にいる客の中で、背の小さい影を見つければそれが貴希だ。
 小学生でもここに立ち寄ることもあるようだが、店内の小さな影は今のところ一つしかないので、貴希と判断する。
 その小さい影に、誰かが話しかけているらしい。
「一体どこのどなたでしょうねぇ?」
「……恵理、楽しんでるでしょ?」
「当ったり前よ。何でか知らないけど、あの新山貴希がファンシーショップでお姉さんに声かけられてんのよ? これを楽しまなくてなんとする!」
「……最近、言動が彰に似てきたね」
「うっ」
 恵理に鋭い突込みをする美里。
 この二人を制御するには、今まで以上の威力のある突込みをしなければならないようである。
 恵理が彰に似ると言うことは、彰が二人いると言うことで。
「はぁ……」
 自分の気苦労が増える気がしてならなかった。
「楽しむのは良いけど、奥山さんをからかうのは間違ってると思うよ?」
「私はからかわれてなんかいないわ」
 意外な反応が返ってきた。
 この程度のことで、千鶴が反論するなど珍しい。
「勝手に中司さんが騒いでるだけでしょう?」
「そうだそうだ。恵理は自爆女だ」
「……とうとう復活したわね、この世界級馬鹿王者!」
 恵理が芝居がかった振り返りをすると、そこには腰に手を当ててふんぞり返っている馬鹿がいた。
「わっはっはっは! グローバルな俺って凄い!!」
 なにやらトチ狂ったことを言っているのは、天肘の後遺症か?
「凄くない! いい!? これ以上邪魔なんかしたら、第六と第八喰らわせるわよ!」
「へいへい。邪魔しませんよ。つーか、もうできねぇよ」
「は?」
「え?」
 彰が指差す方向には、店員らしき人物に頭を下げている貴希の姿があった。
「げっ。もう出てきたの!?」
「あ! 奥山さんが接近してるよ!!」
「くっ。千鶴め。偶然を装って新山くんが何買ったか訊く気ね!!」
「行くぞ、恵理! 俺様は、あいつが何を買ったのかひっじょうに気になる」
「あ、待ちなさい!」
 駆け出してしまった二人に苦笑を浮かべる美里。
――全く、結局あの二人は似てるなぁ。
 さらに苦笑が深くなるのを感じながら、美里も皆の下へと駆け出したのだった。

 そして、来たる十一月二十七日。
 今日は朝から肌に突き刺さるような気温と風が吹いているが、向かいの家に行くには全く問題はない。
 よし、と気合を込めていざ出陣。
 今回は母の美紀子はついてきていない。子供達だけでよろしくやって来いとか言っていた。何をよろしくやるのか解らない貴希は首を捻ったが、美紀子は笑っているだけで何も教えてくれなかった。
「たの……じゃない、こんにちはー」
 一瞬、頼もうと言いかける貴希。
 それほど緊張というか、意気込んでいた。
 貴希を招いたのは奥山家の母、早苗だった。
 見るからにご機嫌である。
「あらあら、いらっしゃい。あの子、待ち構えてるわよ?」
 最近、貴希とくっついているからか、千鶴の機微が理解できてきた早苗。少し前まで、あまり感情を前に出さなかったころに比べれば随分と良くなっていると思う。
 意外に、子供っぽいところなんかも解ってきており、早苗はこの所ご機嫌なのだ。
「そ、そうですか」
「ええ。なにやら、貴希君のプレゼントが気になってしょうがないみたいね」
「うっ」
 苦心して選んだのは間違いないが、そこまで期待されているとなると欠片ほどの自信も一気に砕け散ってしまう。
 この前も、店を出たところでばったり会ったとき(考えてみれば、つけられていたのでばったりではない)なんかは、プレゼントのことがばれないかと冷や冷やした。案の定、千鶴に訊かれたが、頑として答えなかった。買い物を見られたのは恥ずかしいが、何を買ったかまでは言いたくなかったのだ。
 それを言ってしまえば、楽しみが半減する。
 貴希としては、これまで生きてきた中で一番焦った瞬間だった。
 ひた隠しにしたプレゼントのことは千鶴も予想がついているだろう。問題は、それを期待して待っているということだ。
 できれば、そんなに期待して欲しくはないなぁと現実逃避。
「さ、上がって頂戴。これで全員揃ったわね」
「は、はい!」
 すぐそこに千鶴が待っているというだけで緊張していた貴希は、早苗のそんな一言にすら反応できなかったのだった。

「お、来たな」
「お先にー」
「こんにちは」
「な、なんで!?」
 リビングに入って最初に目に入った、というか入ってきたのは彰、恵理、美里だった。
 何故、この三人がここにいるのか解らない。
 貴希はこの日千鶴が誕生日だというのは洩らしていないのだ。では、いったい誰がと考えて、すぐに思いついたのは我が母親だった。
「母さん……」
 我が母親のにやけ顔が脳裏に浮かぶ。
 貴希を困らせることに関しては手を抜かない暇人の母親に、貴希は溜息を吐くしかなかった。
「その通りだ。いやー、一昨日美紀子さんに教えられてな。急遽、プレゼント用意して、お宅訪問ってわけよ」
「いやー、一日しかなかったから選ぶのが大変だったわ」
 白々しく話す恵理と彰を珍しく不機嫌そうに睨む貴希。
 しかし、そんな二人の後ろで、頭を何度も下げる美里に免じて諦めることにした。この二人に止めろと言うのは、続けろ、もしくはもっとやれと言っているようなものである。
「はぁ。まあ、良いけどね」
「そうだぞ? 祝う人数が多いほど楽しくなるってもんだ」
「僕にはただ騒ぎたいだけのようにしか見えないけど?」
「偏見ねぇ。私達だって時と場合を考えるわよ」
「……そうなの、美里君?」
「え!? いや、その、そう、なんじゃ、ないかな?」
 歯切れの悪い美里。
 時と場合を考えたことの方が少ないようだ。
「ちょっと、みーちゃん。何ですっぱり答えられないのよ?」
「だ、だって、お爺ちゃんの演舞の途中で彰は寝ちゃうし、恵理は彰を起こそうとして殴ってたし」
「うっ」
「朝会で校長先生の話なんか一回も真面目に聞いたことないでしょ?」
「うぐぐっ!」
「食べるときはいつも二人が取っ組み合いして、普通に食べた記憶がないよ」
「ぐあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「あ、死んだ」
 彰は美里の正論に朽ちたらしい。
 恵理もまた、顔が引きつっている。
 この二人、よっぽど型苦しいのが嫌いのようだ。
「朝会の時はともかく、演舞の時は僕がずっと頭下げてたんだけど?」
「えっと、それは、その、ごめんなさい」
「ん、よろしい」
 頭を下げて回ってくれた美里には頭が上がらない恵理だった。
「さ、そんなことより、今日は奥山さんが主役なんだから、早く始め……って、貴希君!?」
 撃沈した二人を宥めて、さあ誕生日会を始めようかと思えば、二人は先にケーキを分けていた。
「ああ! 二人とも先に食べてる!」
「なに!? 貴様ら! 何勝手にケーキ食ってんだよ!?」
 すると千鶴が冷たい視線を彰に向けて言った。
「私の誕生日なんでしょう? なら、今日一日優遇されても良いはずよね?」
「ぬ」
 全くの正論なので何も言えない。
「その私が誰とケーキを食べようが文句ないはずよ。まあ、あなた達の漫才はそれなりに楽しめたから、ケーキくらい食べさせてあげてもいいけれど?」
「……今の千鶴には逆らわない方が言いと思うよ?」
 なんとなくではあるが、彼女は物凄く怒ってる。
 言葉の刺々しさもいつもより鋭いし、何より目が本気で怒ってる。
 彼女もまた、誕生日を楽しみにしていたのだろう。
 と言う貴希の予想に反し、彼女は怒っていなかった。
 いや、間違いなく怒ってはいるのだが、それは五月蝿く騒いだ彰達にではなく、貴希のプレゼントを早く渡してほしくて、苛立っているからだ。
 千鶴は、例え自分の作業を邪魔されたとしても、ぎゃーぎゃー喚く性格ではない。せいぜい、鼻で笑って作業に戻る人間だ。
 彼女が落ち着かなくなるほどに貴希のプレゼントが気になっていることなどは露ほども思っていない貴希は、ただ三人に謝れと訴えていた。
「えっと、なんか改まったけれど、誕生日おめでとう」
「ええ、ありがとう」
 千鶴が言うと社交辞令のようにしか聞こえないのだが、これでも彼女にしては最大級だ。そもそも、礼を口にすること自体が少ない。そんな彼女が、口に出して言うのだから、相当感謝しているのだろう。
 恵理も言葉の雰囲気ではなく、千鶴の表情から感謝の意味を汲み取って納得する。
 恵理が手渡したのは手の平サイズの箱だ。青を基調にした包装紙に、リボンがかかっている。
 大きさからして、ある程度種類は予想できる。多分、女の子特有の小物系だろう。
「開けていいかしら?」
「むしろ、開けて。こいつらに差をつけるんだから」
 負けず嫌いもここまで来れば立派なものだ。
 心の中でそう感想を漏らして、千鶴は包装紙を開けた。
 いつかのように、丁寧にはずしていく。貴希は千鶴は器用なんだなと再認識する。。
「……あら」
 小さな箱から出てきたのは、淡い桃色の液体が入った小瓶だった。
 ビンのふたと胴体になにやら書いてあるが、生憎と日本語しか解らないので読めなかった。しかし、文字の意味よりも、自分の誕生日を感謝してくれるその気持ちが嬉しい。
「何だ、それ?」
「……香水ね」
「そ、女の子に贈るなら、これくらいは当然」
「む」
「お母さんにアドバイスを貰って選んでみたの。私もそれ読めないんだけど、意味は気品だって」
「きひん、てなに?」
 聞き覚えのない単語を口にした貴希に、彰がふんぞり返って答えた。
「黄色い下地に茶色の斑点。何より、首が異常になごぉっ!!」
「予定通りのボケどうもありがとう。お礼は私のコ・ブ・シ♪」
 もう、毎度のことなので、誰も気にしなくなってきた。
 全員に放置される形になった、彰は倒れたまましくしくと涙を流していじける。そんな彰に同情しないこの面々も相当非道だと思うのだが。
「気品の意味は気高い。解りやすく言えば、偉そうな人間のことよ」
「あー、なるほど」
「……そこで納得されるのも気に食わないわね」
「なんで?」
 とは言え、納得できるものである。
 千鶴はどこか人とは違う高みにいると思うのは仕方ないことだ。
 小難しい言葉を使い、態度も静かで悠然としている。
 周りの子供とは違う何かを千鶴は持っている気がする。
「さて、次は俺だ」
「僕と彰は一緒のプレゼントなんだ」
「うむ。二人分の気持ちを詰めた豪華賞品だ」
「……賞品は違う気がするよ」
「そうか?」
 二人が出してきたのは、平たい物品だった。
 恵理のように箱詰めされているわけではない。
 商品自体を紙でくるんであるらしい。
「……本ね」
「当ったりー。よく解ったなぁ」
「勘よ」
 中から出てきたのは、一冊の本。
 硬い表紙でできているから、ハードカバーと言うやつだろう。
 自分の手くらいの厚さがあるその本を文字通り抱える千鶴。
「何の本なの?」
「ファンタジー小説だ」
「ファンタジー……」
「剣と魔法が出てくるんだよ。あ、もちろん、魔女もね」
「あら、藤堂君。『もちろん』とはどう言う意味かしら?」
 口が滑ったと言わんばかりの表情を浮かべる美里。
 そそくさと逃げる貴希。
 ケーキのイチゴを頬張りながらそれを眺める彰と恵理。
 すでに全員逃げているところから、美里の不憫さが窺える。ある意味、彰よりも不幸だ。
「もちろんと言う意味は、当然と言う意味であり。当然と言う意味は当たり前のこと。つまり常識と言うわけね。
 なら、魔女と言う単語に対して、もちろんと言う言葉を使ったのはどう言う意味かしら?」
「え、えーと、その、ファンタジーには悪い魔女が出てくるでしょ?」
 俄かに千鶴の眉が顰められる。
 それが判ったのは貴希だけだが、雰囲気だけで千鶴が怒っている事は判る。
「あ、いや、奥山さんが考えてるようなことでは決してなくてですね? 僕が言いたいのは、ファンタジーの敵と言えば、ドラゴンか魔女な訳で……」
「そう」
「う、うん、そうなんだ! だから、どこをどう間違っても、奥山さんが魔女だとかって言う意味で言ったわけじゃないんだよ!?」
「つまり、私はその『悪い魔女』だと言うことね」
「ぜんぜん僕の話聞いてないじゃないか!? ち、違う! 違うってば! 奥山さんは確かに魔女っぽいけど……!」
「貴希。私、魔女っぽいんですって」
 千鶴がくすくすと冷たく笑った。
 普段無表情に近い彼女が笑うのは相当に珍しいことなのだが、この笑顔だけは誰も見たくはなかっただろう。
 冷笑なのだけれど、可笑しそうに笑う彼女は見ていて壊れているのではないかと思わせるくらいの笑いっぷりだ。あの笑顔を向けられて、正気でいるのは難しい。
 案の定、貴希以下三人とも、部屋の隅でがたがた震えている。
「さて……」
「ひいいぃぃぃぃっ!!」
 その笑顔のまま、美里に振り向く。
 直接怒りが向いていない三人がこれだけ怖いのだ。その標的たる美里の恐怖の度合いと言ったら、想像したくない。
「さあ、藤堂君。覚悟はいいかしら?」
「あ、あのー。痛いことは極力遠慮したいんですが?」
「私は悪い魔女だそうだから、怖いことをするのは当たり前よね」
「ひ、ひえぇ! おた、お助け……!」
「泣いても許さないから」
「ひぎゃあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 まさしく、断末魔の叫びがご近所中に轟くのだが、何故か近所か苦情は出てこなかった。
 この後、千鶴を除く四人は、絶対に千鶴を怒らせないことを心に刻み込む。
 身体的外傷はどうにでもなるがが、精神的外傷だけは勘弁したい。
 特に、精神系の攻撃が得意そうな千鶴の攻撃だけは……。

「さて。約一名、天に全うされた人間がいるが、誕生会はつつがなく続くのだ」
「死人が出てる時点で躓きまくってる気がするわ」
 千鶴の口撃を受けた美里は、現在客間でご就寝中だ。
 よっぽど疲れたらしい。
 と言うより、心の疲労度が高い所為だろう。
「疲れると言うより、憑かれたからな」
「……文句があるのかしら」
「いんや。俺は臆病者なんでな。怖いものには手を出さん」
「賢いわね」
「さあさあ、残すはあと一人。本日のもう一人の主役、新山貴希君でーす!!」
「うおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
 テンション高く恵理が盛り上げる。それに乗っかる彰。
 囃し立てられて照れくさい貴希は、おずおずとプレゼントを差し出した。
「おおーっと、新山貴希! 前回、中司恵理が使った小物系プレゼントであります!」
「うーむ、手前と同じネタと言うのは痛いですなー。これでは意外性や見新しさが半減してしまいます」
「外野は黙っててば!」
 プレゼントを渡すのを実況されるのは恥ずかしすぎる。照れ隠しのため、貴希の反論もいつもより声が大きい。
 そして、貴希からのプレゼントを受け取った千鶴は、まじまじと箱を眺める。
 くるくると回したり、裏返したり、叩いてみたり、振ってみたり。
 相当、中身が気になるらしい。
「……なんか、あんな千鶴っちを見てると、抱きしめたくなるわ」
 いつもの物静かな仕草ではなく、子供っぽさ全開中の千鶴を見てそう呟いてしまった恵理。
 ぜひとも、抱きしめてみたい!
 と言うか、抱きしめる。
 是、決定事項也。
「突撃ぃ〜」
「な!? きゃっ」
 飛び掛ってきた恵理に貴希からの贈り物に気が向いていた千鶴の反応が遅れた。
 その隙を逃さずに、飛び掛った恵理は千鶴を抱きしめる体勢に移行。主導権を握ったまま、見事千鶴の頭を抱くことに成功した。
「ちょ、中司さん!?」
「だーいじょうぶ、だいじょーぶ。何もしないわよ」
「すでに抱いてるわ」
 何もしないと言っているにも関わらず、恵理は千鶴の髪を嗅いでいた。
「こら! やめ、やめなさい!」
「うーん。やたら良い匂いがする。しかも、シャンプーではないわ」
 羨ましいと零す恵理。
 更に恵理の手が千鶴の身体に這ってくるが、流石にさせじと千鶴がブロックする。
 片手一本で恵理の猛攻を防ぐ彼女は流石だ。もう片方には貴希のプレゼントがしっかりと握られていた。
 一進一退の攻防は千鶴の体力の無さが影響して恵理の一方的な展開に。
 千鶴の動きが鈍くなったのを良いことに、千鶴の身体を触りまくる。
「む、ウェスト細いわねー」
「くっ」
「む、変わりに胸が無いわ」
「悪かったわね!」
「お? お尻はなかなか感触が良いでございますよ?」
「っ! いい加減に……!」
 一気に身体を開いて、脱出。
 ようやく、訳の解らない愛撫地獄から抜け出した千鶴は熱い息を吐く。
「うーん。色っぽいわよちーやん」
「だ、誰がっ!」
「はいはい、怒らない怒らない。勢い余って、それ、潰しちゃうわよ?」
 はっとして、手の中を確認する。
 あの状況だったので、多少箱がへこんではいるが、中身は大丈夫そうだ。
「はぁ……、全く。それにしても、あなた達、助けようともしないのね」
 珍しく恨み言を言う千鶴。
 髪と服を直しつつそんなことを言う。
「………………」
 完全に沈黙の彰。
 顔を真っ赤にしてそっぽ向いてる。
 相当恥ずかしかったらしい。
 一方で、普通の顔の貴希。情操関係の成長が遅い貴希では今の光景は理解できなかったらしい。
「……貴希?」
 しかし、全く何も言い返してこないのはおかしい。
 彼ならば、千鶴の問いかけや会話には絶対に何か返すのだ。それをしないことに違和感を覚えた。
「ねぇ? 貴希?」
 千鶴が近寄るが、全く反応なし。
 試しに千鶴が目の前で手を振ってみるが、やっぱり反応なし。
「……はぁ、貴希。もう少し、大人になりなさい」
 千鶴が貴希の額を小突くと、貴希はそのまま床に倒れた。

 意識不明者計二名。
 外的外傷者あり。内訳は重症者 計一名(参加者のうち一名のケーキを盗み食いしたため)。
 新山家で催された千鶴嬢の誕生際は怪我人続出で終わったのだった。

 夜も更けて、そろそろ街の住人が寝静まる時間。
 風呂上りの貴希は自室に戻って惚っとしていた。
「はぁ、なんかまだ頭がくらくらする。まあ、いろいろあったし」
 ケーキは食べ損ねたし、プレゼントをちゃんと渡してないし。だけど、千鶴の恥ずかしがった姿とか見れて幸せとか、まあそういういろいろ。
 そんなとことよりもまず、疲れたと言った方が良いかもしれない。
――いや、楽しかったんだけどね。
 とりあえず、あの千鶴の姿だけは忘れるに忘れられないものになったことは確かである。
 笑いを噛み殺しながら、布団に入ろうとしたところで、見てしまった。
「………………」

 なぜか、ちづるが、にかいの、じぶんのへやの、まどぎわに、たっているのを。

「……っていうか、なんで!?」
 慌てて、窓を開ける。
 十一月、それも厳寒と言われている時期の夜の空気はとてもではないがパジャマ程度の薄着では耐え切れない。
 屋根に出るのを一旦止めて、掛け布団を身体に巻きつけて出る。
 屋根は十一月の夜に冷やされた、物凄く冷たかった。でも、我慢する。
 そう広くは無い屋根の上。少女は背を向けて月を眺めていた。
「千鶴!」
「こんばんは」
「なに、挨拶なんかしてんだよ!」
 千鶴の服装はいつもと同じ黒一色だ。
 黒いダウンコートに黒いストッキング。そして、黒い靴。
 なのに、首筋や手、顔の白い肌がちらつく。
 満月を背負う千鶴は、なんだか幻想的で、女神のようだった。
「あら。夜に会ったら、こんばんはが一番適切でしょ。まさか、おはようと言うわけにもいかないし」
「………………」
 冗談めかして言う。
 そんな彼女の顔を見て、あることに気が付いた。
 彼女の耳元で何かが光っている。
 あれには見覚えがある。
 なにせ自分で送った品だ。見間違えるはずが無い。
「気付いた? 意外に観察力は良いのね」
 月の淡い光を受けて輝くそれ。
 それは、月と星をモチーフにしたイヤリング。
 一度、諦めたイヤリング。
「まさか、貴希がこんな気の利いたものを選ぶなんて思わなかった」
「……悪かったね。単純(バカ)で」
「いいえ。不覚にも、涙が出るくらい嬉しかったわ」
「――え?」
 意外すぎる言葉だった。
 でも、どこかでそんなことを期待していたような気がする。
 千鶴が笑った。
 嬉しそうに笑った。
 昼間見た怖い笑顔じゃなくて、温かい笑顔。
 吸い込まれそうな笑顔。
 このまま身を任せても良いと思える笑顔だ。
「ありがとう。大事にするわ」
「あ、うん。僕も、嬉しいよ」
 月を背負った彼女に気圧されてぎこちなく言う。
 もしかしたら、顔も引きつったものになってるかもしれない。
――せっかく、笑顔で言おうと思ったのに。
「でも、勘違いしないでね。あなたからの贈り物だから大事にするわけじゃないの」
「え? ……どう言うこと?」
 彼女は妙なことを言う。
 でも、この月明かりの下なら逆に神秘的かもしれない。
「……私は、例え最愛の人から貰ったものでも、気に入らなければその場で棄てるわ」
「……うん」
 彼女がそう言うのならそうするのだろう。
 いつもなら注意を口にするところだが、月明かりの下で喋る千鶴は何処か浮世離れしていて、無茶なことでも頷けてしまう。
「でも、その人が私のことを一生懸命考えてくれて選んだものなら私はしっかりと受け取る。それは、例え嫌な人間でも、最低な人間でもそうするでしょうね」
 千鶴は、ゆっくりと貴希に近づく。
 貴希は動かない。
 ただ、彼女の耳元で揺れるイヤリングを見つめている。
 あのイヤリングは、一度諦めたものだった。
 あの店の店員に声をかけられたとき、言ったのだ。
――耳に穴をかけてまでつけるのはおかしい気がする。
 店員はその言葉に微笑むと、あるものを渡した。
 それは、耳にはめる留め具が針ではなく、クリップで挟むタイプだった。
 結局、貴希が目に留めたイヤリングには穴に針を通すものと、耳を挟むタイプの二種類があり、貴希はクリップタイプのものを買ったのだ。
「相手のことを考える。それは大事なことよ。相手の趣向や趣味を考慮して物を贈るのは大事。
 私が今回貰った物だって全部大事。彼らがしっかりと考えて贈ってくれたものだから。
 でも、それ以上にこれを気に入ったのは、私を傷付けまいとするあなたの心を感じたから」
 イヤリングの特徴をよく知っている千鶴は、耳に開けた穴に針を通して使うものがあることも知っている。
 しかし、貴希が贈ってきたのは、極力身体が傷つかないものだった。
 相手のことを気遣って贈る。
 貴希の心遣いは純粋に嬉しい。
「ありがとう。今日が終わってしまう前にそれが言いたかった」
 気が付けば、千鶴が目の前にいた。
 まっすぐに貴希を見つめる瞳がそこにある。
 満月の月明かりは、しっかりと彼女の黒瞳を映し出していて美しい。
 彼女の双瞳が近づく。
 瞳に映る自分が近づく。
 そして、距離はゼロになる。

「――また明日。これは大事にするわ」
 そう言って、彼女は屋根を降りていった。
 後に残るは彼女の残滓。
 口唇に残る彼女の息吹が優しく頬を撫でていた。






 あとがき
 終わったあああぁぁぁぁぁぁ!
 山場が。一つ目の山場が終わったじょおおおぉぉぉおおぉぉ!!
 次回からは、中学生編でつ。